追加資料 : 第I編 第2章

Appendix: I-2

2. 石綿紡績工場の被害の始まり

資料 石綿協会誌1949年8月15日号

資料(右図)は同号のカナダ鉱山部分

1949年カナダのジェフリー鉱山で5か月の鉱山労働者のストライキが起きました。カナダの第20代首相(1968~1979年)となったピエール・E・トルドー氏は自らの自伝で当時のことを回想し「カナダ鉱山のストライキの理由は、製造工場内部・外部の双方におけるアスベスト粉じんの除去が第一の要求であった。」と記載しています。

一方日本の石綿協会誌の1949年8月15日号の記載をみましょう。ー部を文章にしました。「生産管理を要求するストライキは共産党の常とう手段であること、5月5日の暴動が外部からの多数の扇動者によってあおられていること」、「石綿の供給源をアメリカからたちきるために、このストライキはソ連の戦略の一つと断ずるのは思ひすぎであろうか」。石綿粉じんが現場のストライキの元であったことは一切触れず、労働組合の思想性を示唆するのみです。石綿の健康被害を、生産国が消費国に伝えない、典型例と指摘されています。

( 名取雄司 )

5. 泉南地域の石綿被害

明治時代から大阪・泉南には多くアスベスト紡績工場があり、その工場で働いていた元従業員と家族が労災患者として、また家族ばく露、環境ばく露として多数知られていた。この図は泉南地域の工場が、赤や黄色、青、緑で示されています。

図Ⅰ-2-4 泉南石綿工場分布地図 (大阪アスベスト弁護団提供)

7. 建設 出会い 国賠訴訟

建設アスベスト訴訟の課題については、「建設アスベスト訴訟: 建設業に従事していた方・その遺族」をご覧ください。

9. 環境の被害者の顕在化 2005年 尼崎クボタショック

(4) 尼崎・クボタ被害者 平地千鶴子さん

平地千鶴子さんは、救済金に合意したクボタとの交渉には夫・澄彦さんとともに参加しました。その後も被害者の家族という立場から活動に関わり、現在も被害者支援の最前線に立っています。支援とは何か、被害者の「声なき声」にどう応えるべきか問い続けています。

「私は1953年大阪・住吉区で生まれ育ちました。音響技師だった夫とは音楽を通じて出会い結婚後も三人の子どもと音楽に囲まれた生活を送りました。夫は1947年常光寺西の町で生まれ(クボタ旧神崎工場南約500メートル)、1975年に結婚するまで実家暮らし、茨木市近くのマンションに1年半居住、再び尼崎市内に戻り以降も阪神南エリアを中心に転居を繰り返してきました。夫は55歳で中皮腫を発症、4年7カ月の闘病を経て60歳で亡くなりました。2003年の診断当時は情報も支援も乏しく、2年半もの間孤独な療養生活が続きました。2005年のクボタショックをきっかけに病因が明らかとなり、同じ病気の方と出会えたことで、私は当時の「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会・尼崎支部」に入会しました。夫は患者代表として制度づくりに尽力しましたが2007年他界しました。被害者の一部が救済や補償を受けた一方で、多くの被害者が制度的枠組みから排除されている現実に直面し、不公平さを痛感しました。夫の通夜は音楽葬として営まれ、「被害を風化させたくない」「誰かの役に立ちたい」という思いから私は世話人を志願しました。立候補した背景には①夫が会社員だったため、遺族年金があり自分の生活費に困らないこと、②自分にはこの残酷なアスベスト被害を年月の流れだけで忘れられるものではないこと、などが判断したことなどがあげられます。

活動を通じて、ただ「そこにいること」が支えになる場面に多く出会いました。誰にも付き添われず入院していた中皮腫患者の男性に寄り添い最期まで見送った経験は忘れられません。葬儀に不慣れな一人息子さんには、そっと見送りの手順を伝えました。後日、その患者さんから「ありがとう」と言われたような気がして、その言葉が今も心に残っています。支えたいと思って始めた活動で、私自身が支えられていたのだと感じました。この経験を通してボランティアとは何か、改めて考えさせられました。誰かの役に立ちたいと思った私が実は支えられていたのかもしれません。

私たちは長年、国との交渉を続けてきましたが、アスベスト被害の根本には国の不作為があるにもかかわらず、行政の対応は形式的で、まるで「他人事のように」実質的な議論には至っていません。環境省の石綿健康被害に関する小委員会でも、私自身が意見陳述を行いましたが、実質的な議論に発展することなく、ヒアリングだけで終わり、結局はゼロ回答のまま委員会が解散してしまいました。建設業界への補償が進む一方で、環境由来の被害への対応は滞ったままです。給付額の見直しすらなされず、放置されている印象を受けます。

クボタショック直後はチラシを受け取ってくれる人も多かったのに、20年近く経った今では避けられることが増えています。しかし、アスベストは誰にでも影響しうる現在進行形の問題です。老朽建物の解体が進む今こそ、曝露リスクは高まっています。「アスベストは本当に怖い」という意識を持ち、大切な子や孫の未来を守るためにも、社会全体で支える息の長い取り組みが必要です。」  ( 阪本将英 )

(5) 尼崎・被災者 森田芳光さん

森田芳光さんは、自身の家族の3名(母親と二人の弟)をアスベスト関連疾患で亡くすという悲しみを経験するなかで、家族内で異なる曝露経路を体現した例として、森田氏の証言はアスベスト被害の複合性と制度間格差の実態を示すものです。

「はじめに私の家族の居住歴についてお伝えすると、1949年から1963年の間は、JR尼崎駅の北側140~150mほどの距離の潮江地区に住んでいました。1963年に浜角田町に引っ越しましたが、旧神崎工場の北側60~70mの距離で旧郵政寮の北側に位置します。母親は1993年に亡くなるまで浜角田町の自宅に居住し、次男は1977年まで三男は1979年まで浜角田町に同居していました。

1998年三男が体調を崩し「中皮腫」と診断され45歳の若さで亡くなりました。私たちは役所関係の公共工事を請け負っており、仕事先の現場監督から被災者の会を教えていただき連絡をしました。事務局の飯田浩氏がクボタとの交渉を進めてくださり、救済金を受給することができました。1993年に亡くなった母の保管した診断書に「中皮腫」の記載が見つかりました。尼崎安全センターの飯田浩さんに相談しクボタと交渉した結果、母も救済金支給が認められました。

今度は次男の体調が悪化しました。病院で原因が特定できず兵庫医大で検査を受けた結果、2020年6月中皮腫と診断されました。告知の時点で余命半年と告げられ、同年12月亡くなりました。次男は建設業に従事しておりクボタの見舞金の対象外となる可能性が高く、労災と建設アスベスト救済法の申請を勧められました。妻や義妹と力を合わせて申請書類を整え約3年後2024年末ようやく認定され、建設アスベスト給付金の支給もされました。

三男も次男も「子どものことを頼む」と私に言い遺して旅立ちました。彼らの無念さを思うと、今も胸が痛みます。飯田浩氏の誠実な人柄に触れた今、私もできる限り活動を支援し、被害者やご家族の声に寄り添い続けていきたいと思っています。」

※家族が発症するなかで、自分も発症するかもしれない恐れがあること、森田さんのように、家族間(親子)で関連疾病を発症した事例は他にもあります。 ( 阪本将英 )

17. 再生麻袋

古来より麻袋は梱包材として重宝され、石綿が輸入される時も使用されました。

神戸港、大阪港などで麻袋が大量に陸揚げされている写真や映像は、多くの人々が記憶に残っています。

麻袋の中身は、コーヒー豆、穀物、油脂原料など様々だが、石綿鉱石などもりました。

そして梱包材としての役割を果たした麻袋は再度別のものとして利用されました。損傷が少ないものはそのまま「袋」として使用され、損傷が酷いものや石綿入っていたものは形を変えて利用しました。その「変化」の流通過程で起こった悲劇を紹介します。

堺市の麻袋再生作業の環境被害については、2008年に40代女性から「胸膜中皮腫ステージⅣで手術もできません」と電話があったことから調査が始まりました。相談者の実家の家業は炊飯器、照明が展示される「街の電気屋さん」でした。兄たちの工事はエアコン取り付け作業などで、家族がアスベストに曝露するとは考えられません。しかし実家の兄から聞き取りを行うと、自宅裏に麻袋再生工場があり「麻袋のほこりを叩き、ナイフで裂き必要な形につくり変えていました。麻袋に目詰まりしたほこりを取るため、大型送風機が工場の庭に設置されていました。麻袋の中は穀物の時もあり、スズメが散乱する穀物を食べに来ていました」ということでした。

また、それより以前に「麻袋再生作業をしていた」として最初に相談があった70代の方は2000年に腹膜中皮腫を発症して2002年に死亡しました。この方は1958~60年に石綿入り麻袋を再生する堺市の業者に勤務していたのです。その後同じく胸膜中皮腫を発症している40代の女性から相談がありました。この女性は職業的な曝露歴がありません。しかし生まれて育った近隣にヘッシャン商事という事業場がありました。ここは麻袋再生作業でミシン掛け等をした従業員が中皮腫で労災認定を受けていました。また同様に麻袋再生を手掛けていた藤田商店も近距離でした。ヘッシャン商事と藤田商店、両方の石綿を吸った可能性があります。2008年、筆者(古川)は藤田商店を訪問し、社長から色々と話を伺いました。

(図Ⅰ-2-4:石綿と麻袋の流通経路、古川和子さん作成)

 

藤田商店は社長の父の代からの老舗で、一時期多数の従業員がおり運転手をしていた方が中皮腫になり労災認定されました。親族にも肺がんで亡くなった方がいます。社長自身も数年前に呼吸器専門病院に入院検査し、「胸膜プラークか胸膜肥厚か、よくわからないが定期的に検診を行っている」と語っていました。

藤田商店は尼崎のクボタ旧神崎工場から使用済みの麻袋を落札し持ち帰ったこともあります。数量は一回の入札で4千から5千枚。白石綿と青石綿など、石綿の種類で袋の大きさが違っていて、青石綿の入っていた麻袋の方が単価がよかったといいます。

再生麻袋の形状は、その後の使用目的で多種多様に変わります。麻袋再生作業は戦前あってからPP(ポリプロピレン)製品に替わる1970年代後半まで行われました。

堺市内の業者ヘッシャン商事関係者を訪ねたら「大阪でたくさんの業者があり主に南部方面に集中し、全部で少なくとも90か所はあった」そうです。その後、この方とお連れ合いが中皮腫を発症したと聞きました。

大阪は石綿工場が多く、大阪市や堺市内に麻袋再生工場も多数存在していました。

2013年に別の相談がありました。集塵機の前に麻袋を持って立ち「掃除機の原理」と同じように集塵していたそうです。集塵された石綿は別袋に詰めて再販売していたといいます。この作業は特殊設備も高度な技術も必要なく、土地と家屋(物置でも可)と工業用ミシンと労働力があればできるので、親族、ご近所同士で仕事を分け合っていました。

再生工場が密集していたある地域では「ゴロス村」と呼ばれて、村の中を通ればミシンの音が鳴り響いていたという証言もあります。子育てをしながら家業に勤しむ姿がそこにありました。

「泉南型和解国賠」を提訴する際に、記者会見の席上で「親が働いていた工場内で、積み上げられた麻袋の上に乗って、アルプスの少女ハイジのように飛び跳ねて遊んでいた。とても安全な遊び場だと思っていた」と語った原告の言葉に、取材している関係者も息を呑みました。

このように1950年代から1970年代までの期間、麻袋を回収し清掃・加工する作業が広範囲で日常的に行われました。当時麻袋は流通過程において貴重な存在でした。石綿が輸入され石綿製品製造工場で使用された後の空になった麻袋は、各分野に再利用されてきました。その過程で、麻袋再生業という仕事が成り立っていたのでした。

最近の調査では、ある事業場において家族10名のうち5名が「中皮腫・肺がん」を発症し、胸膜プラーク所見も2名確認しました。この事業所は大阪市内の小羽根麻袋㈱ から仕入れをしていました。小羽根麻袋(株)も元従業員が労災認定されています。

堺市内の大手麻袋事業場のホームページに「明治18年創業。ゴロス麻袋、帯鉄、製品原料の販売開始。通産省の指令により、日本ゴロス株式会社を設立」とあるように麻袋の歴史は古いです。

しかし「麻袋」を連想させない事業所名が多いのも特徴的だと考えられます。その多くは「商店」を名乗っているからです。阪田秀夫商店(個人名)、㈱辻尾隆商店、㈱西本商店、荒木商店(個人名)㈱西商店、などは厚生労働省のホームページで公開されていますがこれらの名前から麻袋には繋がりません。

麻袋再生業者の多くは、鉄道などの交通の便利な場所に点在していました。

大阪市内においては「水の都」らしく、川や運河の周辺に業者が存在していました。

「馬車でひくよりも、船で運ぶ方が大量に運べるし早い。現在の大阪市『阿波座』付近は麻袋を積んだ船が行き交っていた」との証言もあります。また、聞き取りの最中耳にした「堺市の古墳の周辺はお堀があるので、用水路があり便利だった」といことばも興味深いものでした。つまり麻袋再生には布を洗う水が必要な時もあるので、「用水路」があることもまた麻袋再生業の広がりに一役かったようです。

世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」は、昔から地域の人々の暮らしにも密着していたようです。(古川和子)

20. タルク・医療・歯科技工・ゴムタイヤ

(4) ベビーパウダー関連

2026年度中に追加する予定です。

24. 運動と成果 2006年石綿健康被害救済法、2021年建設アスベスト給付金法 訴訟後の影響

(3) 訴訟勝訴後の影響

建設アスベスト給付金関連

期間業務
昭和47年10月1日〜昭和50年9月30日 石綿の吹付作業に関する建設業務
昭和50年10月1日〜平成16年9月30日一定の屋内作業場で行われた作業に関する建設業務
1.じん肺管理区分の管理2で合併症がない場合550万円
2.管理2で合併症がある場合700万円
3.管理3で合併症がない場合800万円
4.管理3で合併症がある場合950万円
5.管理4、肺がん、中皮腫、びまん性胸膜肥厚の場合1,150万円
6.石綿肺(管理2・3で合併症なし)による死亡の場合1,200万円
7.石綿肺(管理2・3で合併症あり又は管理4)、
肺がん、中皮腫、びまん性胸膜肥厚による死亡の場合
1,300万円

表1-2-2 和解により国から支払われる賠償金(慰謝料)

( かけはし法律事務所 伊藤明子弁護士 協力)

26. 監修者2名の心に残ったエピソード

(1) アスベストの真実を語ることができるのはアスベスト被害者

大阪・泉南地域は、日本の石綿紡織業発祥の地。その泉南に梶本政治医師(1994年没)宅を訪ねた時、書架を埋めた書籍に圧倒されたことを覚えている。石綿被害研究のための海外の文献や研究書購入には「1億円以上使った」と言われ、家計は大変だったという。1970年に論文『泉南 石綿肺ガン実験場』を発表するとともに、石綿工場に押しかけ経営者と労働者にアスベストの危険性を訴えビラを撒いた。1972年、泉州石綿工業公害安全衛生協議会が『石綿肺という濡衣』を発表。梶本医師を「インチキ医者・・・精神異常者であり精神鑑定を必要とする人物である」と罵倒し、アスベスト被害実態の隠蔽を図った。2014年、最高裁は泉南アスベスト国賠訴訟でアスベスト被害での国の責任を初めて認める判決を言い渡した。

石綿工場で働き中皮腫を発症した労働者を病院に訪ねた。案内をした同僚も驚くほどに衰弱した労働者は、「わしらアスベスト者(もん)は、外の人には話ができん」と話した。多くのアスベスト被害者は自らのことでもあっても証言することが憚れる力が明らかに存在していた。

アスベスト使用を推進してきた人びとは、被害実態を隠蔽し被害当事者の声を封じ込めてきた。その結果が日本のアスベスト規制を遅らせ被害を拡大させてきたといえる。

アスベスト問題の写真を撮り始めたのは2000年。米海軍横須賀基地で艦船修理に従事してじん肺を発症した落合博文さんが「分かってもらえるかな。伝えてもらえるかなぁ」と最初の撮影に応じてくれた。そして、苦しく辛い病状のこと、「(アスベスト粉じんで)真っ白になった船内で仕事をしていた」と職場のことを語ってくれた。2012年、ホスピスに入院中の落合さんにローリ・カザン・アレンさん(国際アスベスト禁止事務局コーディネーター)は、アスベスト使用を推進してきた企業、政治家、役人たちのウソに対して「アスベストの真実を語ることができるのは、アスベスト被害者」と語った。落合さんは「アスベスト被害の責任は国と企業にある」との言葉を残した。  (今井明)

若くして旅立った「方」へ

主治医として担当した方、看取った方、支援団体(NPO法人)として関係の深かった方、ご遺族など心に残った方は数多くいらっしゃいます。2019年共同通信社から「医療欄の20回連載記事を書きません?」と申し出を頂きました。名取も61歳で医療の仕事をして感じた事、医療分野以外の方には余り伝えられていない医療分野のことで知って頂きたい事、石綿関連疾患で伝えておきたい事等自分をまとめる良い機会と思いお受けしました。癖のある文章は多くの人が受け入れやすくわかりやすい文章に担当の辻村氏により校正され大変感謝しています。2019年から下野新聞、秋田魁新報、茨城新聞、、2020年に12新聞、合計16新聞に掲載され、石綿関連疾患で数名の方を匿名でお書きしました。(https://www.asbestos-center.jp/research/natoriseries/最終閲覧日25年4月22日)

今回、私が書きのこそうと思った方は、本来生きられた時間を長く奪われた若い方の想いを繫いでいければと思ったからです。

中皮腫で亡くなられたのは、建設業の内装業の方でした、2003年に28歳前後、セカンドオピニオンで受診されました、1990年(15歳)頃から13年間石綿ばく露作業があった方で、治療をどうすればよいか、今後の人生で何はできそうか、労災申請のアドバイス、2月に1回外来にいらっしゃいました。国家公務員共済病院、都立病院など有名な病院に入院と通院されながら3年間通われました。2006年頃「もう通院もできない・・」と連絡があり見舞いを兼ねて病院に行き31歳前後で旅立たれました。物静かで仕事熱心な方でした・

肺がんで若くして旅立たれたのは、建築の大工さんで胸膜プラークのある肺がんになった方でした。15歳から24年間石綿含有建材(大平板、ケイカル板、フレキ)を加工する作業をされていました。妻と子供お二人は小学校でした。労災のアドバイスを受け早くに労災補償で療養費と休業費は支給されました。60歳を超す人生を夫婦は考えていらしたので、39歳の肺がん発症は突然すぎ考えを変更することに夫婦とも苦闘されていました。

石綿肺でこの20年で若くして亡くなられたのは、建築のはつり工43歳でした。斫り工は大規模ビル等で型枠コンクリートが設計と異なる場合に、翌日に呼ばれコンクリートブレーカで当該部分を切断加工、工事が順調にすすむよう修正する作業です。新築現場も多いのですが、吹付けアスベスト工事と上下階で混在となる場合もあり、コンクリートを大量にアスベストも一定量吸入する作業です。40台で在宅酸素を吸われている数名は、ほほ斫り工で、子供も妻も若くして苦労されています。

ドイツでは3年で石綿肺となる模式図が医学論文で知られていますが、まさに日本でも石綿製造工場では昭和20年代にあった話でした。

石綿肺で石綿製造大手工場に勤務した20台の男性のことを同期営業職が証言しています。「石綿肺は10年以内の短期で発症します。会社の受付が2階で、1階から2階に上がる階段を私と同年の人が手すりで息苦しそうに上がってくるところを2回見ました。友達です。60年前の話で今も自分の発した言葉に悩みます。「おまえ、いいなあ。給料日だけ会社に来るのか。」非常に冷たい私の言葉で、顔をすりつけてでも謝りたいと思います。彼は若くして石綿肺で旅立ちました。」

石綿肺は泉南で離島出身の女性が20台で数名り患されています。息切れがひどく実家に戻って結婚もできず、息切れが治らない中で工場裏の「ため池」に飛び込んで自死した方がいたそうです。泉南の方によると「大阪の女子中学生の間では、大阪の他の繊維工場と異なり、泉南は死ぬ繊維工場といわれていた」そうで、「離島のフェリー発着する集落では大阪同様の情報が知らされていて、離島でも人があまりいかない遠い集落の中学生に就職話が届いた」とのことです。2017年の原一男監督の映画『ニッポン国vs泉南石綿(いしわた)村』に一部が描かれています。 (名取雄司)