Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
収録日時: 2024/11/16(土)
アスベストは19世紀後半には欧米を中心に本格的な産業利用が始まり、世界で大量に使用されてきています。
日本でも近代化に連動して欧米のアスベスト製品や製造技術が流入し、国内でのアスベスト消費量の増加やアスベスト産業の発展、そしてアスベストによる健康被害の発生や規制・対策など、100年以上にわたるアスベストに関する歴史があります。
そのアスベストの歴史を網羅的にまとめた書籍『アスベスト禍はなぜ広がったのか 日本の石綿産業の歴史と国の関与』(中皮腫・じん肺・アスベストセンター編、日本評論社、2009年)の内容を中心に、この本の主な執筆担当者の一人である南氏にアスベストの基礎的な歴史について語っていただきます。
名取 それでは、アスベスト問題を語り継ぐ連続講座、第9回を開催したいと思います。本日の発表者は、南慎二郎氏です。南氏は、立命館大学大学院政策科学研究科の大学院生のときに、2005年クボタ・ショックを体験され、翌年の2006年から、大学で開催されましたアスベストのプロジェクトにも参加されて、その後も、2024年、今年に至るまでアスベストの研究者としてずっと活躍している方です。2009年に書籍『アスベスト禍はなぜ広がったのか』という本が出版されましたが、それももう15年前のこととなりまして、改めて、「著者が語るアスベストの基礎的な歴史」ということで、どのようなことが過去にあったのか、書籍の内容を中心にお話をいただくという、いつもとは少し違ったタイプの講座になります。
それでは、南先生、よろしくお願いいたします。
南 ただいま紹介いただきました、立命館大学の南でございます。「書籍『アスベスト禍はなぜ広がったのか』―著者が語るアスベストの基礎的な歴史―」というタイトルでお話しさせていただきます。
まず、本報告の背景や概要についてですけれども、これですね。まず、今回の報告のベースになる本ですけれども、『アスベスト禍はなぜ広がったのか』という、この本です。この本が、日本評論社より2009年に発刊されました。この本が出るまでの背景に関連してですけれども、まず、2005年クボタ・ショックがありまして、日本において特にアスベスト問題が大きな社会問題化しました。それに対応する形で、国の方で過去の対応の検証が行われたりしました。それなどは1972年以降を中心にまとめられてということですけれども、これに対して、中皮腫・じん肺・アスベストセンターの方でそれ以前のアスベストに関連する歴史のまとめ作業に取り組まれ出したということが、まずございました。それが、この本をまとめる上での出発点になりました。そのようなことで、中皮腫・じん肺・アスベストセンターの企画として、2006年から2008年の3年間に取り組まれたという流れです。
私は、2005年のクボタ・ショックを受けて、おおむね2006年から、アスベスト問題に関連して、ちょうどそのときに大学院生ということもありまして、身近な立命館大学の研究プロジェクトも立ち上がりまして、取り組み始めました。そのような中で、こちらのアスベストセンターの取り組みに声をかけていただくような形で、途中から参加する形にはなったのですけれども、この本の企画の初期段階から参加しています。そこから大体月1回程度、検討会議を行いました。その間に、それぞれが、各テーマや担当部分に応じて様々な箇所に行って、図書館等々に行って資料を収集してきました。また月1回の検討会議でそれを持ち寄って共有化して、それでまた検討を行うということを繰り返して、約3年間、その活動を続けました。その成果物としてまとめ上がったのが、この『アスベスト禍はなぜ広がったのか』という本です。
主に1970年代半ばまでの日本のアスベストの歴史を扱うということでまとめました。80年代以降はどうしてもそこまではカバーし切れなかったというところはあるのですけれども、これは資料の入手性などの背景もありまして、それは今後の課題ということで積み残しになってしまう形にはなったのですけれども、そのようにしてまとめた本です。
本書のまえがきから、この本の趣旨や目的と位置づけのようなところを抜き出しますと、それまでにあったアスベスト関連の日本の書籍は、もちろんアスベストの有害性や、この本を出す時点、2000年代まで行けば、それなりに有害性に関する医学書などの本は出ていたわけですけれども、もっと通史的な、世界のアスベスト産業と関連させる形で、日本のアスベスト産業の歴史や、それに付随するような健康被害の広がり、健康被害の拡大が防げなかったのかというような検証に関連する、その理由に関する記載は、やはり既存の本には少なかったです。なので、本書では、日本のアスベスト産業の通史と健康被害の拡大の責任に関する初めての書籍になると思われる、そのような本としてこの本はまとめるのだという、著者として参加したメンバーの共通の思いであっただろうというところです。その成果物として出されたのがこの本です。
この書籍の構成についてですけれども、まず、第1章でアスベスト使用の歴史ということで、世界全体的なアスベストの通史的なところや、基本的な情報、特に2章以降は基本的に日本の話が中心的になりますので、世界におけるアスベスト企業や、国際的にどのような業界が動いていたかなどは、第1章で俯瞰的に取り扱うということです。
それに続く第2章以降が各論的な話です。特に2章から6章にかけては日本における、一つは年代別にということで、大きくは、日本に限らず世界のアスベスト産業も、主に19世紀以降、鉱脈が発見されて発展してきてということで、日本においても明治以降、近代化以降から戦前までの時代がまず一くくりにあって、戦争をまたいで戦後の動きにつながっていきます。そのようなことで、まずは時系列的に各論的にまとめるというところと、あとは各局面での描き方も必要になってきます。アスベスト産業の場合は、直接的な製品企業もあれば、原料を採掘する鉱山の方の産業もあります。さらには、アスベストの場合は、どちらかといえば、民間の市場において、アスベストという価値のあるような、商品になるようなものがある、それを民間が市場で利潤を追求する中で、民間のレベルで産業が発展したというよりは、むしろ政府主導型、国家がアスベストという製品を求めるような形で産業が発展してきたという背景もあるわけです。さらに、アスベストは基本的に原料を海外から輸入してくる形で生産活動が行われますので、その輸入を担う部分の商社も非常に大きな側面として関わってきます。それらの各論、それぞれの側面を取り扱ってということが2章から6章という構成になっています。
それらをまとめた上で、アスベスト禍を防げなかったかというところで言えば、一つは、アスベストの有害性が十分に認識されていれば、このような危ないものを使っていては駄目だということで規制が必要になってくるので、では、その有害性の認識はどうだったのかという検証が第7章で扱われます。第8章は、それを受けての、そのような動向に対応する形で日本の規制はどうだったかというところに関する検証の話。それらを踏まえた上で、最終的に、実際にアスベスト禍はなぜ広がってしまったかという最後のまとめの検証が第9章ということで、本は構成されています。
南 まず、1章のアスベスト使用の歴史という点ですが、細かいレベルの記述に関しては、ぜひ本を手に取って確認していただきたいところですけれども、まずは、アスベストの基本的な、主に6物質ある、それらの物質的な特性や、クリソタイルの等級などの話です。
アスベストの基本的な情報の記述があって、次の既存製品へのアスベスト使用という点が特にこの本の核心につながってくるところです。この既存製品へのアスベスト使用という形ですけれども、アスベストの使用自体は、実は古代から確認されるものです。古代エジプトのミイラの包帯などもアスベストの布が使われていたというような話が既にあります。そのようなことで、人類は古代からアスベストというものを認識して使っていたという歴史はあるのですけれども、実際に工業製品として大量に、急激に大量生産、大量消費され出すのは産業革命以降であっただろうということです。正確には、19世紀以降ということになります。なぜ19世紀以降かは、鉱山の話とも連関します。
とにかく、アスベストというものに関して世界の研究、Tweedaleらの著作から引用してきますと、そちらの議論においては、アスベストが1880年代に最初に世界市場に登場したときには、既に同様の効能を持つ他の製品があったということが指摘されています。では、なぜアスベストがそれほど使われるようになったかといえば、端的にアスベストの一番の魅力は低価格であるという点が第一に挙げられるというところです。
実際にアスベストが様々な製品に使われ出したということで、初期の使用例としては、例えば高温に強い、断熱性が高いということで、まずは高温を発する機関で当時主流だった蒸気機関等への保温材や、代表的な使われ方の自動車のブレーキライニング、上水道の石綿水道管、セメント管、また、電解隔膜という形で農薬製造にも必要なお話があります。これは戦後の使用の話で、また日本の中にも出てきたりはします。あとは、耐火被覆ということで、鉄骨建築などにもアスベストが使われ出したという話や、セメント製品、造船や鉄道や発電など、とにかく高温を発するところの保温・断熱材が主要な使われ方だったのですけれども、いずれの使用用途を見ていっても、アスベスト製品というものは、諸工業の進展の中で他の製品の代替品として登場した場合が多いということです。そもそも、蒸気機関の保温材なども、元々別の既存の商品があって、それに対してアスベスト製品がそこに参入していったというようなパターンが、他の主要用途も全て共通性があるわけです。だから、その使用例全体を見回すと、決してアスベストしか使えないと主張するのはかなり無理があるだろうという話につながっていきます。
アスベストの使用の概要の話が続きますけれども、世界のアスベスト鉱山に関連して、この辺りが、本格的に使用されるようになるきっかけにもなります。まず、主要なアスベストの種類であるクリソタイル、白石綿に関してですが、カナダ・ケベック州が主にクリソタイルの産出地で、そちらの方の鉱床が大体1860年から70年代ごろに発見されて、大規模な鉱床が発見されたとなれば、原料をそれだけ大量に産出して供給することができるようになる。原料が供給されなければ、それは使いようがない、製品は作りようがないわけですから、鉱山が発見される、鉱床が発見されることが、本格的な大量消費につながっていくという関係性です。そのようにして、まずカナダの地方の方で鉱山の開発が進みます。発見・開発・操業が続いていく。
一方で、もう一つ、カナダに並んで主要なクリソタイル鉱山に該当するのが、ロシアのウラル地方のバジェノブスコエ鉱山です。こちらが世界最大級の埋蔵量で、恐らく今も採掘が盛んに行われていると思われるものですけれども、こちらも、操業が開始されるのが19世紀末辺りで、1889年です。同じころ、20世紀前後ぐらいに、今度は南ローデシア、現在のジンバブエですけれども、そちらの方で鉱山での採掘が開始される。他にもイタリアのバランジェロ鉱山、こちらはヨーロッパ地域における最大級のアスベスト鉱山という立ち位置にありましたけれども、このような形で、世界の主要な鉱山は20世紀前半に開発・採掘が本格化していってということです。
さらに、クリソタイル以外で主要に使われたアスベストであるクロシドライト、青石綿、アモサイト、茶石綿についても、同じころに鉱山が発見・採掘されていきます。まず、南アメリカの方のクロシドライト鉱山は19世紀終わりごろに生産が本格化してくる。アモサイトについても同じく南アフリカで発見されて、20世紀初頭ぐらいから初期にかけて採掘が開始される。他にもオーストラリアで、青石綿の鉱山として有名なウィットヌーム鉱山も、20世紀半ばぐらいに採掘が本格的に行われるということです。
続いての話としては、世界のアスベスト企業についてですけれども、世界的に有名な三大企業と言われるものがアスベスト業界にもありました。この三大企業についてですけれども、まず一つめに挙げられるのがターナー&ニューウォール社という会社です。こちらは、イギリスのアスベスト企業です。このT&N社自体の設立は1920年でしたけれども、この前身の企業は1871年ですので、アスベスト鉱山が本格的に採掘される時代と、大体、時系列的には同じころです。こちらの本拠地は、マンチェスター北部のロッチデールという町にありました。主な製品としては紡織品やパッキング・建材・断熱材など、とにかくアスベスト製品を全般的に取り扱っています。世界的にもマーケットを広げて、鉱山開発なども手がけて、ケベック州のベル鉱山も保有していたということです。また、吹き付け材のリンペットを最初に開発してというような話もありました。これは次のマンビル社などもですけれども、結局、アスベストの場合はその後、健康被害の問題が出てきて、その被害に対して裁判が起こされたり、補償を求めるような動きも出てきて、当然ながら、そのような危ない製品ということになると、もう売れなくなっていってということで経営的にも立ち行かなくなって、これら、まずターナー&ニューウォール社も2001年に破産申請を出すという事態になったりするわけです。
続いて二つめの企業として、次の主要企業として挙げられるのがジョンズ・マンビル社です。こちらは1901年設立ですけれども、同じく、前身は19世紀中ごろです。こちらは全米最大のアスベスト企業で、本拠地はニューヨーク州の隣のニュージャージー州、ニューヨークの都心から比較的近い位置にあるのですけれども、そちらにマンビル市と、まさに企業の名前がそのまま市の名前になっている場所が拠点でした。主な製品は、屋根材・パイプ・断熱材・アスファルト製品など。どちらかといえば建材系の方が強かった感じですけれども、こちらも総合的な世界最大規模のアスベスト企業だった。かつては、アスベスト産業界におけるアスベスト・ジャイアント、アスベスト産業界の巨人だと言われたぐらい、一番主要な企業だったわけです。こちらも同じく、ケベック州のジェフリー鉱山を保有していましたけれども、アメリカで、アメリカはまさに製造物責任などの関係で、そのような危ない製品を売っていたということで訴訟が相次いでしまって、1982年には破産申請をして、このときはかなりアメリカの経済界でも大きな話題になったということも確認されます。
三つめの企業として挙げられるのがケープ・アスベスト社で、こちらもイギリスの企業です。こちらも20世紀前には設立されていて、主に南アフリカの鉱山の採掘などに関わった企業です。断熱材やセメント管の使用拡大にクロシドライトやアモサイトが拡大していく背景にも、このケープ・アスベスト社の存在があっただろうというところです。他にも各地に工場を建てて、イタリアやイギリスにも工場を設立していた、そのような企業です。
続いて、世界のアスベスト業界団体ということで、非常に様々な団体が出てくるので、ここでは全体的な話でまとめますけれども、おおむね、まず動きとして出てくるのは、企業として成長してきている中で、業界全体を推進していくような役割を担う団体として、20世紀前半辺りにはそのような団体が出てきます。それが、20世紀後半になってくると、これは今日の報告でも後半の話に出てきますけれども、アスベストの有害性が認識されて、アスベストは危ない、発がん性物質だということになってくると、やはり業界としては自分たちの製品が危ないということで売れなくなってしまいますので、そのような動きに対して、業界を守る方向で、アスベストが危険だということはそれほど、言うほど問題はない、きちんと管理・使用すれば安全なのだという、アスベストを安全に使っていけば、これほど役に立つ製品はないというようなことを主張していく、そのように展開するための業界団体として設立されたり、そのような運動を担っていくような団体として活動していくという流れです。この中で、日本の企業や日本石綿協会などもそれに関わってというような動きも確認されます。
南 続いて、第2章の話に入りますけれども、第2章では、戦前におけるアスベスト産業の形成ということで、その歴史をまとめたパートになります。まず、アスベスト産業の国産化に至るまでの話です。大体、日本の開国のころと、明治以降になって開国されて西洋からの近代化の流れが流入してくるという流れと、アスベスト産業が世界的にも登場してきて展開してくる時代と、大体タイミング的に重なるわけです。日本にも、そのような西洋の流れからアスベスト製品、アスベストというものの情報や、その製品が流入してきます。特に初期の場合は、初期の段階でもやはり様々な西洋のモダンな、といいますか、先進的な企業がベンチャービジネス的に出てくるわけですけれども、初期的にはアスベストの取り扱い企業は1890年代ごろには登場してきただろうということは、当時の資料などの断片的なところから確認できる話です。
ただ、初期の段階では、いきなりアスベストの製品を製造する技術が日本にはまだなくて、初期は海外製品をそのまま輸入してきてそれを使う、あるいは、アスベストの原料から糸を紡いで布を織るというような、それを工業的に作っていく技術がまだなかったので、石綿糸を、輸入してきた製品を分解して、そこから取り出して、それを原料にして製造するというようなことが行われていたことが、当時の資料や企業側の社史などでも語られる話として挙げられます。
そこから、海外製品に依存していくということでは産業発展的にも日本の貿易経済的にも不利、望ましい話ではないので、やはり国産化を進めていく流れになるわけです。やはり自分たちで作れなければ、商売としても厳しいですし、企業として経営発展していくためには国産化が重要だということになって、まず、1908年にアスベスト紡織の国産化に成功します。こちらは、主要な企業である、後のニチアスになる日本アスベストの工場が大阪泉南地域に建てられて、そこでアスベスト紡織が成功します。その工場を引き継いで独立してできたのが栄屋石綿という企業ですけれども、それが大阪泉南地域で地場産業としてアスベスト紡織業が展開してくる、そのときの中核的きっかけになるような存在としてありました。これによって、紡織の国産化が成功する、さらに1914年には石綿スレートの国産化にも成功することにもなります。
さらに1932年にはジョイントシートの国産化成功や、セメント管の生産・使用の開始という動きが出てきます。同じころには、ブレーキライニングの国産化をしていこうということで、その動きも見られます。曙ブレーキ工業の前身企業が登場してくるのも、この時期の話です。そのようなことで、戦前の時点で日本の主要なアスベスト企業は大体登場してくるということになります。
それを一覧表にしたものがこの表ですけれども、細かく一つ一つ見ていくと時間がかかりますので、漠と見せるだけになりますけれども、これに加えて、戦後、アスベスト製品の製造に関わってくることになる、後の株式会社クボタを加えれば、日本の主要なアスベスト企業は網羅されることになります。
そのアスベスト産業が国内で展開してくる、国産化が成功してくる、各アスベスト製品の企業も登場してくるという流れにおいては、実は国の関与が非常に確認される話です。特に軍事的な関与という点です。
まず、大きな日本史的な歴史の出来事として、1894年から1895年にかけて日清戦争があったわけですけれども、その際に清国にあったドイツ製戦艦を接収して、それを調べたところ、断熱艤装にアスベストが大量に使用されていることが確認されたのです。そのようなこともあって、アスベストに限らずですが、とにかく当時の日本では軍隊といいますか、海軍で、当時は海戦が戦争の特に主要な部分になりますので、やはり戦艦が必要になる。戦艦も純国産で造れないと、海外に頼っていると、やはり安全保障が保てないというところもありますので、戦艦の国産化ということで、戦争用だけではなくて船舶全般を含めての純国産化、パーツを含めての純国産化を国として推進するわけです。それを目的として、造船奨励法が公布・施行されます。
この動向を受けて、要するにアスベストの断熱艤装など、船のパーツとして使うアスベスト製品も国産化が必要だという流れを受けて設立されることになったのが、後のニチアスである日本アスベストという会社が設立されたということです。ニチアス、日本アスベストは日本における、名称そのままですけれども、日本のアスベスト産業の主要企業の一つだったわけですが、これはまさに日本の軍事的な目的と連動して、そのような政策と連動して登場してきた企業だということです。そのようなことで、戦前の石綿紡織製品の主な需要先は軍事部門だった、特に海軍だったということです。
このような話もあります。海軍に納品されていることが、言わば宮内省御用達のような形で、そうなっていることが品質の高さの証明とみなされたところもあったので、むしろメーカーとしては、海軍に納品している、採用してもらおうと努力したような動きもあったというようなことが、企業の社史などでも触れられている話です。
また、船だけではなくて、自動車なども物として開発されて出てくるので、今度は戦略兵器としての陸軍の自動車の重要性の高さから、陸軍関係者の勧めもあって、ブレーキ部品の主要メーカーになってくる曙ブレーキ工業の前身企業が設立されるという背景にあったわけです。同じくこちらも1936年に自動車製造事業法という形で、国産、国内の自動車産業の育成を図る、海外メーカーの排除を図るというような、国産の自動車部品産業を国として保護するということも行われて、それも後押しになって、国内におけるアスベスト産業、企業などが成長してくる、登場してくる流れができてくるということです。
あるいは、軍事関係だけではなくて民事的なレベルでの、国民の生活レベルに関連してもアスベストが推奨されて、民需が拡大してくるという側面もあります。まず、この動きとして最初に確認されるのが1908年に大阪府令、大阪府の自治体条例のようなものですね、当時の。その中の建築物取締規則の中で、石綿盤という名称、いわゆる石綿スレートのことですけれども、これを防鼠材として指定したということです。要するに、ネズミにかじられたりして、ネズミが繁殖することを防げるような建材で、そのような素材として指定されました。ネズミは伝染病を媒介したりして、やはり公衆衛生上、伝染病を防ぐ目的で、ネズミを繁殖させては駄目だからということで、そのための建材として指定されます。
続いて1912年に、今度は兵庫県の条例、規則において、石綿スレートを防火材料に指定する動きがありました。さらに、そのような自治体レベルでの、地域レベルでの、地方自治体レベルでの動きだけではなくて、1919年には内務省で、国として当時の市街地建築物法施行規則の中で、石綿盤を不燃材料に指定します。要するに、言い換えれば、公衆衛生や防災対策という、国民の生活を守る、安全を確保するための公共政策の中で採用や推進の動きが確認されるという話です。
さらに、災害にもアスベストは強いというような話が出てくるのです。1923年に関東大震災、1934年には室戸台風という、大規模な災害が日本を襲ったわけですけれども、関東は首都圏、室戸台風は関西・近畿圏、大阪などに被害をもたらした自然災害でしたけれども、その際に、どうも石綿スレートを施工した建物は被害がそこまでなかったというような、それだけ地震や風水害にも強いということが認められたというように、業界といいますか、企業の社史などを見ると、そのように認められたということで、復旧材として自分たちの建材が非常に需要が高まったということは語られていたりします。
また、1938年には日本標準規格、今で言うJISに相当するものですけれども、それで石綿スレートも制定されるということで、公的にも、主要な建材の一つとして、きちんとした品質できちんと生産・供給しなさいというものとして、石綿スレートが取り扱われるというところです。
それから、これは戦後も同じ動きになるのですけれども、石綿セメント管、要するに水道管ですね、これも、そのままですが、上水道の整備に連動するわけです。当時は、明治以降、どんどん経済発展・成長、戦後もまた都市化の流れの中で水道の需要が高まったということで、石綿水道管の需要が高まってという話になりますけれども、戦前は戦前で都市化が進んで、都市において上水道の整備が必要だと。ただ、上水道を整備しようと思うと、市街地全面的に水道管を敷設して工事をしなければいけないので、やはりお金がかかってしまう。そのような中で、当時の水道管としては既に鋳鉄管が素材としてあったわけですけれども、それよりも安価な商品の需要があったわけです。少しでも経費を下げて、建設費を下げて水道を普及させるためには、やはり安い製品が望ましいという話に連動して石綿セメント管の需要が、鋳鉄管の代替品、廉価品として需要が高まってという形の動きも、戦前の時点で確認される話です。
南 3章の内容に関するパートですけれども、日本のアスベスト鉱山開発の歴史という話です。
南 まず、かつて、一時期、日本においてもアスベスト鉱山が開発されて採掘されたという歴史があります。それに至る背景にあるのはこのような話ですけれども、とにかく、日本の国内においてアスベスト産業、企業が始まった当初から、主には、原料アスベストは輸入品だったわけです。そもそも世界の歴史からいっても、カナダなどで大規模なアスベスト鉱脈が発見されて大量に供給できるようになったから、アスベスト産業が展開できたということです。その流れの中だったから、日本においてもまずは海外から原料アスベストを輸入することから始まっていたわけです。とにかく原料アスベストは輸入品ということが標準だったわけです。
それが、戦争がそこに関わってくるわけです。1930年以降になってくると戦時色が強まっていってという流れになって、戦争になってくると、やはり国際的に、各国間の対立のような、敵国などになってしまえば当然、貿易なども全部止まってしまいますので、戦争状態になった場合は、それこそ海外からの資源が輸入できなくなってしまうということから、やはり自国内や勢力圏内で資源を確保する必要性が高まってしまうわけです。それで全国的に鉱山開発に乗り出す動きが出るわけです。
さらに、戦争の状態に突入してくる1940年代には国家主導、政府によって補助金の交付などもされて、北海道や九州を中心に開発が進むことになりました。いっときは年間1万トン以上というぐらいの、かなりの採掘量が生産され採掘されたというようなことがありました。
同時期に、この本ではそこまで十分に取り扱えてはいませんけれども、朝鮮半島でも、当時の日本の勢力圏内ということで、そちらの鉱山開発も行われて、採掘が推進されたというものがあります。そのときに朝鮮半島で開発された鉱山などは戦後、そのまま韓国のアスベスト産業に継承されるという流れになっていきます。それで韓国のアスベストの歴史にも連関してくるという話です。そのように歴史もつながるという話ですけれども。
戦後になってくると、また改めてアスベストの輸入が再開されます。そうなってくると、国産原料は市場から急激に姿を消していく流れになります。なぜならば、アスベストは、単に量さえ採れればそれでいいわけではなくて、アスベストにも品質があるわけです。基本的にアスベストは鉱物繊維ですけれども、繊維の長さが長いほど、品質が高い。そのようなものの方が、紡織製品など、糸を紡いだりするには望ましい、品質の高い製品を作れるということから、基本的に長繊維のものが品質が高いということになります。ただ、日本の場合はどうしても、採掘できるといっても、やはり短繊維の、品質の低い、グレードの低い原料アスベストしか、なかなか採掘できないという事情があったわけです。それで、海外から良質な原料アスベストが入ってこないのであれば、仕方なく国産を使わざるを得ないという話になりますけれども、輸入再開して品質の高いものが入ってくる、原料アスベストの輸入が再開されるということになってくると、当然ながら、品質では全く国産では勝てないわけです。さらに輸入品は、価格的にそれほど国産品が安いというようなことでもなければ、基本的には太刀打ちできないということになります。だから、各地の鉱山も、輸入が再開を始めてくるのに連動して、1950年代にはほぼ閉山していくということになります。国内でも特に優良といいますか、たくさん採掘がされ得ていた、それだけ採算性が高かったと捉えられる、国内有数だった鉱山の野沢鉱山も1969年、山部鉱山も1974年に採掘中止となります。これらは北海道の富良野の方の鉱山でしたけれども、この時期はまさに、アスベストの消費量が一番ピークに来るところです。大体60年代、70年代などは、特にアスベストの日本の消費量が非常に多かった。そのような、需要が高いときにもかかわらず採掘中止となると、日本の国産の原料はどうしても品質的には海外の輸入品とは太刀打ちできないということを、まさに表しているでしょう。
続いて、国家統制の4章のパートの内容ですけれども、とにかく、戦前のアスベスト産業は当初から軍需が推進してきたわけです。それは2章の内容で触れたとおりですけれども、そのように、国主導的に企業に統制をかけていくという流れは、戦争が開始して以降、強まっていく流れです。これは一般的には戦争の、日本の歴史の話ですけれども、大体、日中戦争に突入するころになってくると、ますます、それ以降、終戦までは戦時体制に入っていく。まず、国の動きとして、軍需工業動員法や輸出入品等臨時措置法、臨時資金調整法などの法律が制定されるというものですけれども、これらは端的に、生産力、物資、資金を戦争のために確保することが主目的だったものです。それらは翌年には国家総動員法として、それらの統制は再編・強化されていくことになります。
このような全般的な国の動きを受けて、アスベスト製品も軍需一辺倒になります。スレートに関しても、民需ではなくて軍事施設などの建材を優先的に、そちらに供給しろという流れになっていきます。パッキンやブレーキライニングはまさに戦艦や、当時は戦闘機など、当然軍用自動車、そのようなもののパーツとして使われます。それ以外に使うことは制限されるような話です。
これは鉱山開発と連動するような話ですけれども、当然ながら、先ほども触れたとおり、戦争状態になってきて、まず、ソ連が対日アスベスト輸出を禁止する。1940年以降になると日独伊の三国同盟成立の流れの中で、カナダ、南アフリカ、アメリカからの輸出に制限がかかる。1941年度に入ると、アスベスト輸入は途絶しただろうということです。そのようなことで、勢力圏内の鉱山での原料確保に走るという、先ほどの3章の話があったわけです。
一方で、原料が確保できないとなると、その中で、限られた範囲で原料を確保することと、もう一つ、代替品で補おうという必要性も出てきたり、そのような考え方も出てくるわけです。現在でもアスベストの代替品として使われるものですけれども、その代表的なものであるグラスファイバーや岩綿といった、人工的に作る鉱物的な繊維素材の開発が、実はこのころに始まっている。それは、アスベストが戦争の事情などで十分に原料を確保できないから、その代替品が必要だという流れの中で開発が進んでいくということです。ただ、当時は恐らくまだ開発が始まったところだから、岩綿、ロックウールなどは品質も低かっただろうし、使える原料アスベストも、国産品などは先ほど触れたとおり品質が低いということで、それを使うのだから、どうしてもアスベスト製品そのものの全般的な品質低下を招いたという話もあります。
これも歴史の動きですけれども、43年には軍需省が発足されて、軍需会社法が制定されることになります。基本的に、軍需会社に指定されれば、とにかく国の戦時生産に企業は従わなければいけない、従業員もそれに従わなければいけないというような縛りがより強くなってくる。とにかく、国のためにアスベスト製品を作りなさいという指導が入れば、それに有無を言わさず従わざるを得ないという形で、統制が強化されていくというようなイメージです。
戦争が最終的には、歴史の話として終戦を迎えてということで、戦後になっていきます。原料統制や配給を担っていた組織はそのまま戦後すぐはいきなり、とりあえず継続的に動いていたのですけれども、GHQの占領下になって、その中での指示によってそれらは解散して、いったんはリセットされるということになります。
そのため、アスベスト業界としては民需への転換が急務になってくるのですけれども、国としても、そこで民需に合わせて様々な産業、戦後からの復旧・復興という流れで動いていく形です。そのような中で、戦後の事情としては、まずは食料の増産が急務だということがあったわけです。食料を増産しようと思えば、そのための肥料も必要になってくるということで、肥料の増産のための需要が高まる。化学肥料の原料になる硫安の製造のためには、当時の製法としては電気化学工業で作るわけですけれども、その際に、パーツとして電解隔膜、電解布というものが必要になります。当時は、主流な電解布の素材としてあったものが、一番都合のいいといいますか、適した素材ということで、原料としてアスベストがあったわけです。国としては各アスベスト紡績企業に対してその増産、どれくらい生産できるかというようなやり取りを始めるのですけれども、ただ、メーカーとしては増産したくても原料がなければ作れないという問題に直面するというような話にもなります。当初は国内在庫・生産分に依拠するしかなかった、ということです。
そのようなことで、戦後早くから輸入促進の動きがありました。まず、早くも1946年4月には、商社を中心として日本石綿輸入協会が設立されるという動きがありました。同じときに、当初の目的としてはアスベスト利用の研究開発や業界の親交等ということで、戦後、日本のアスベスト業界の主要な業界団体として存在して活動していた日本石綿協会が、このときに設立されます。ただ、この設立当初の真の狙いは石綿輸入の再開促進だったというようなことが、アスベスト企業の社史で語られていたりもします。
輸入促進は参議院などにも請願が出されたりという形で、業界と行政が協力する形でアスベストの輸入再開に働きかけていくということが動きます。それでようやく1949年には原料アスベストの輸入は再開されていきます。1950年には民間貿易ということになりますけれども、輸入するためにも、それに使えるお金はどうしても国によって制約がかかっていたということで、自由にお金を投資して輸入してくることができなかったということです。
一方で、このころにカナダの鉱山のアスベストの値段が高騰して、メーカーがその代わりに南アフリカから輸入できないかという活動なども見られるようになってきた。そのようなことで、戦後にも改めて国内メーカーと海外の鉱山との間の交流が徐々に活発になっていった様子が、各資料からうかがえます。
最初は割り当て制、メーカー割り当て、商社割り当てなど細かくあるのですけれども、1959年にようやく石綿製品の貿易自由化になって、さらに1962年10月には原料アスベストの輸入も自由化されるということになりました。
このころに、このような出来事もありました。それが日米石綿問題という出来事でして、これに絡むのが、最初の方に紹介した、世界的な有数のアスベスト企業だったジョンズ・マンビル社です。当時としても、やはり世界の主要なアスベストメーカーとして業界をリードするような立場だった。日本の企業などもそこに訪問視察などで交流を行っていたということで、もちろん、先進的な製品技術などを持っているので、日本のアスベスト業界にとっても模範であるということですけれども、それが直接的に日本に乗り出してくるとなると、日本の市場を席巻してしまうということで、国内メーカーからすれば驚異的な存在でもあるという位置づけにあっただろう。
このジョンズ・マンビル社の日本代理店だった東京興業貿易商会という会社があったのですけれども、これはまた商社の話でも出てきますけれども、この東京興業貿易と小野田セメントが日米石綿工業という会社を設立して、ジョンズ・マンビル社の投資を受けて製品の製造を計画したのです。これを作りたいということで国に対して申請を行ったのですけれども、これに対して日本の主要企業が反対期成同盟を設立するなどで対抗する。様々な政治的な介入も入ってきて、最終的には日米石綿の方が申請取り下げということで、ひとまず事態は収まります。
このときはジョンズ・マンビル社が日本に進出してくることはいったん阻止された。このときは国としても国内産業の保護という形で動いたわけですけれども、一方で、その後にまた1958年に久保田鉄工、後の株式会社クボタ、こちらとジョンズ・マンビル社がカラーベストという建材の技術援助を受ける申請をした際も、同じく反対運動が起こったのですけれども、このときは認可される形になって、国内産業に動いたり、あるいは海外からの技術の導入を後押しするような形で国も関わっていた。そのような、国の関わりも見え隠れするような出来事があったという歴史の事実です。
南 ようやく次、1960年代のアスベスト使用の話のところです。戦後になって、今後は民需を中心としてアスベスト消費が増加していきます。先ほど出来事として見たとおり、1960年前後で貿易自由化になって、それで1960年代にアスベストの輸入量が急増してくるという流れにつながっていきます。各製品も、出荷量も比例して増加していくということになります。
主に高度経済成長での伸長産業・分野とも連動していて、紡織製品に関しては発電所や石油化学コンビナート、交通分野等、セメント製品はフレキシブルボード等で、いろいろな形での、建材需要ですので、高度経済成長で都市化が進む流れの中で、建設、建材の需要も増加して、それに連動してアスベストの建材の需要、製品の需要も高まってという流れです。
さらに、これは戦前も似たような話がありましたけれども、戦後も改めて建築基準法で1950年に石綿スレートが不燃材に、1964年改正で耐火構造材に規定されるということで、防火のために、火災対策でこのような製品を使いなさいというところにアスベストが指定されてという形で、使用が奨励されていく流れになります。
これも戦前と同じですけれども、セメント管も、戦後もまた改めて水道整備が全国的に推進されますので、主に1950年から70年代初頭にかけて盛んに生産・使用が行われてということです。
特徴的な製品として挙げられるものが、吹き付けアスベストの使用開始。吹き付けアスベストは、1932年にイギリスで開発されて世界に普及してくることになるのですけれども、日本で確認される最初の使用例としては、日本アスベストが1955年に国鉄客車の熱絶縁材としてトムレックスを施工したという話が記録として確認されるというところです。とにかく1950年代後半辺りから徐々に吹き付けアスベストが国内に入ってきただろう、それで急速に実用化や普及が進んでいったのだろうというところです。ただ、吹き付けアスベストに関しては当初から、施工時に発じん量が多いということは確認されていて、既にイギリスでは、40年代にはこれは危ないということが指摘されていたりもしました。粉じんのひどさも、当初から日本企業においても認識されていたので、ある意味、イギリスの方から、そこでなかなか売れにくくなっているから海外にも売り込んでというような流れを感じさせられるような話ですね。
それはともかくとして、1970年にはシカゴやニューヨークでも吹き付けアスベストの使用禁止ということで、実際このころには世界的にも規制が入って、ちょうどそのころは日本でも規制の動きという流れになりますので、日本でも1975年に原則禁止ということになっていきます。
続いての話ですけれども、戦後の政府の関与のところです。一つは、日本産業規格、JISの中でアスベスト製品が規格制定されて、品質的に高品質なもの、これくらいの品質で生産しなさいということが国の主導で行われていくような形です。ただ、JISの石綿関連の製品を制定していく中においては、メーカー側、ユーザー側も関わって構成されるので、メーカー、アスベスト業界側の意向などもかなり反映されて、このようなものの制定が推進されていったのだろうというところです。
また、通商産業省と業界との関係は明確に業界紙等から確認される話ですけれども、基本的にアスベスト業界のアスベスト製品を主に管轄するのが通商産業省の窯業建材課に該当します。こちらの方から行政指導などがありますので、基本的には業界との関係は、やはり交流は行われていただろう。日本石綿協会の業界紙などでも、大体、毎年年頭、年始の挨拶では、必ず通商産業省の窯業建材課の担当者が挨拶を載せるということが恒例になっていました。
南 続いて、商社とアスベストの話ですけれども、戦前の話はさらりといきます。日本アスベストなどの企業も大倉財閥との関係が深かったこともあって、戦前のアスベスト輸入に大倉産業が関与した可能性なども考えられるということが、断片的な資料などからもうかがえるところです。三井物産などは、戦前の段階でカナダのアスベスト・コーポレーション社からアスベストを輸入していました。戦後、カナダのナショナル・アスベストの代理店になっています。浅野物産も戦前から輸入を行っていたり、グループ企業に、主要なアスベスト企業だった浅野スレート等がありますので、そちらに原料供給していたのだろうということは考えられます。曙ブレーキの設立に関与したところが、実はアスベスト輸入業を当時やっていた斎藤誠司商店でした。こちらはカナダのジョンソン社から輸入していたという記録があります。先ほども出てきた東京興業貿易という会社ですけれども、これはジョンズ・マンビルの関係もあって、そこの社員だった人が設立して、その後もジョンズ・マンビル社の代理店として動いていくという存在でした。野沢石綿も直接的にカナダを訪問してアスベスト輸入を行っていたことが、戦前の業績として、あります。
戦後になって、先ほども出ましたけれども、46年に日本石綿輸入協会が、商社が関わる形で設立された動きがありました。戦後になって、各アスベストを戦前も扱っていた輸入業者なども再開していくという流れです。三井物産など主要な、日本における商社が大体アスベストの輸入にも関わっていたということがうかがえます。
南 続いて、第7章の話です。いよいよ対策に関連する部分ですけれども、アスベストによる健康被害の認識という点です。海外における認識について、ここではこのような事実として確認していきます。
まず、石綿肺に関連してですが、これは世界的にまず確認されるのが1906年、マレイ医師がイギリス議会に死亡事例を報告したということで、アスベスト死亡の例があって、1924年にターナー社のロッチデール工場で働いていたネリー・カーシャウという人が亡くなったのですけれども、この人を病理解剖したクック医師により、この人はアスベストを大量に吸って、いわゆるじん肺的な病気になってということで、その病名を「石綿肺」と命名しました。これが最初に石綿肺という病気が出てくる話ということです。
さらに1928年に、イギリス政府の命で監督官のミアウェザーとプライスが調査を行った。それで、勤続年数に応じて罹患率が上昇していくということが、その調査結果で確認されるということです。このような調査結果を受けて、イギリスでは早くも1931年の時点でアスベスト産業規則を制定する。とにかく、大量にアスベストの粉じんを吸えば健康被害をもたらすのだということから、そのような規制が早くも導入されるということです。
同時期ぐらいに、ILOでも1930年にけい肺に関する会議で石綿肺が取り扱われるということがありまして、じん肺に関する世界各地の研究成果を整理して、それを1932年に出版するということが行われました。さらに、当時はILOの支部が東京にもあって、このような形で当時の情報、知見に関しては、日本に伝わっていたことは十分想定されるということですね。
次に、肺がんに関してですけれども、石綿肺の被害がまず先行的に認識されたわけですけれども、1930年代にはイギリスやアメリカで、肺がんを併発した石綿肺の患者の症例報告が相次いで確認されてくるということです。1943年にはアメリカのヒューパーが、アスベストによって肺がんが引き起こされているということで発がん性を指摘して、これが一つ、世界において、アスベストは発がん性物質である、危ない、有害物質だということが、恐らく専門家の間で共通認識的になっただろうという出来事として想定されるのが、第7回サラナク・シンポジウムがありました。こちらは非公開で行われたのですけれども、業界からの資金提供で、アスベストの発がん性に関する研究を行っていたサラナク研究所というところがありました。こちらが開催したじん肺症に関する会議で、その第7回の会議として行われたのが1952年の話です。このときに、先ほどのミアウェザーという人が石綿肺併発の肺がんの発症率が増加していることを報告するということです。
この会議を受けて、ターナー社のロッチデール工場の顧問医師だったノックス医師が、過去に実施した記録を再調査したところ、高割合で肺がんの死者が確認されたということです。これをドール博士という研究者に紹介して、それでドール博士がターナー社の調査を行って、その調査結果の報告が1955年になされます。それがドール報告と言われるものですけれども、これによってアスベストによる肺がんの発生というものが確定的になったと捉えられる報告です。
続いて、中皮腫に関してですけれども、1917年にイギリスのロンドン病院で中皮腫患者が初確認されたと言われています。1930年代には胸膜関連のがん症例も報告され始めました。
ここでも、やはり中皮腫に関して一番明確に示すことになるのは、1950年代後半におけるワグナーらによる南アフリカでのアスベスト鉱山地帯の住民における中皮腫発生の調査です。この調査結果が、1959年のヨハネスブルグで開催された、じん肺に関する会議で研究成果が発表されました。これによって、アスベストによる中皮腫発生が決定的になっただろうというところです。短期間のばく露でも、アスベストが中皮腫の原因となること、特にこのときは青石綿、クロシドライトですけれども、中皮腫の原因となることを明らかにしたというようなことです。
さらに、他の主要な動きとして紹介すべきところとしては、次に、セリコフグループによる疫学調査です。こちらはニューヨークのマウントサイナイ病院におられたアーヴィング・J.セリコフ博士が取り組んだ研究グループがありまして、そちらの方でアメリカのアスベスト断熱工632人で、調査が行われた63年1月時点で255人は既に死亡していたのですけれども、これを対象とした疫学調査がありました。その結果として、死亡者での肺がんの発生率が通常の6から7倍、中皮腫は1%以上の高率であったということです。さらに近隣ばく露による一般住民の危険性も、このときにセリコフらのグループによって指摘もされるということです。この結果は、1964年に開催されたニューヨーク科学アカデミー主催の国際会議「アスベストの生体的影響」において発表されました。この国際会議も、アスベストの有害性を世界に知らしめるという役割を担ったような会議です。
さらにイギリスで、ニューヨーク、トンプソンによる環境ばく露の調査も、実はこのころには取り組まれているという話があります。ロンドン病院で過去50年間に中皮腫診断された患者のうち、職歴・居住歴が判明した76名を調査して、このうち40名において職業ばく露および家庭内ばく露が確認されたわけですけれども、それ以外の36名は、それがなかったわけです。職業ばく露も家庭内ばく露もなくて、さらにその36名の約3割はケープ社の、イギリスにあったアスベスト工場から約850m以内に居住していたということがあった。要するに、環境ばく露によって被害を受けたことが非常に疑わしい被害例が確認されたということです。この調査結果は上の、ニューヨーク科学アカデミーの国際会議でも発表されました。このニューハウス、トンプソンによる調査がイギリスでも社会問題化して、イギリス海軍が青石綿の使用を停止してしまったり、ケープ社の当該アスベスト工場が閉鎖に追い込まれるというような出来事が、実は既にこのころにはありました。
続いて、日本における健康被害の認識についてですけれども、日本での石綿肺の報告は1928年に行われただろうということです。先ほどのILOの国際会議の話や業績などは、1931年に内務省の技師だった人が紹介するということが、実は先駆的にありました。その当時のアスベストの著書、アスベストの本に関しても、そのような健康被害の紹介が既になされています。
国内的な大規模な調査として紹介すべきは、1937年から1940年にかけて内務省保険院の調査として行われたものです。調査対象としては、大阪府泉南地域、大阪市、奈良県において、14のアスベスト工場を対象にして健康障害調査が行われた。アスベスト工場で働いていた労働者の調査です。勤続年数が高いほど、高率の石綿肺に罹患していることが確認されたわけです。さらに、20年以上の勤続者は100%石綿肺を罹患していたという結果が、戦前には既に国内でも確認されていたわけです。戦争でその辺りの動きが中断してという形ですけれども、1952年から、改めて石綿肺研究が再開されて、宝来善次や瀬良好澄が奈良県や大阪府、東京では吉見正二らがアスベスト工場での検診・調査を行って、さらに労働省が、1956年から1959年に石綿肺の診断基準に関する研究が実施されて、それらの成果が反映される形で1960年のじん肺法の制定につながっていく、じん肺法の中で石綿肺が取り扱われる、アスベスト工場の健康管理等が扱われるということです。
次に、肺がんや中皮腫に関連して、先ほどお話をした海外の知見が先行的に紹介されているので、恐らく、遅くとも1950年代前半から、アスベストと肺がんの関係については、海外の情報などは日本国内に入ってきていただろうと考えられます。実際に1956年にがん研究のいわゆる専門書、学術書において、アスベストを肺がん原因物質に列挙している例が確認されていたりもします。実際に、1950年代末ごろに労働省の研究において、工場で石綿肺合併の肺がんの症例が既に確認されていて、それは1960年には報告されていたということです。このころに同じく、アスベスト作業で肺がんになって労災認定を受ける例も出てくるという話です。1965年に労働省の委託研究で、じん肺と肺がんとの因果関係に関する研究ということで、石綿肺患者に肺がんの合併が多いことを認めるというような内容でした。
1966年には、国際対がん連合の東京大会として第9回世界がん会議が開催されました。ここには、先ほどの世界の動きから出てきた、アメリカがん研究所のヒューパー博士やイギリスのドール医師などが参加しています。報告論文にはセリコフ博士なども関係していた。この中で、アスベスト関連の五つの報告がなされました。アメリカの中皮腫以外についても報告がされたということです。1969年の東京での第16回国際労働衛生会議でもじん肺セッションが取り扱われたということで、この辺りでも、恐らく確実に、世界で認識されてきたアスベストの有害性、肺がんや中皮腫を引き起こすという情報は確実に入ってきていただろうということです。つまり、1960年代後半にはアスベストと肺がん・中皮腫の関係の認識は定着だろうということです。
そのような専門家といいますか、医学関係のところでの認識が進む背景もあってということですけれども、社会一般においてもアスベストが問題として認識されるようになってくるのも大体このころの話です。1970年に朝日新聞の記事があって、ここで大きな、センセーショナルな見出しで、「石綿粉じんが肺ガン生む 8人発症6人死ぬ」。これが、先ほど大阪の方で調査の瀬良たちにより、大阪府泉南地域の工場労働者の石綿肺合併で肺がんによって健康被害を発表したことが大きく報道されるということです。
続いて、東京都内の交差点で大気中からアスベスト繊維が検出されるということで、これも報告されて、翌日の新聞で大きく報道されました。要するに、大気汚染物質としてアスベストが飛散しているのではないかという話です。当時はまさに公害問題も非常に大きく社会問題化しているときなので、いわゆるアスベスト公害論という形でも社会において問題視されたという流れです。
さらに、一般向けの新聞記事、報道記事という形で、ニューヨークなどでアスベストが規制されてきていますというような、海外動向も含めてアスベスト問題を包括的に扱うような記事なども発信される。このような形でアスベストの発がん性や公害問題が社会的にも大きくクローズアップされることになって、国会の審議でも取り扱われる動きが確認されます。まずは、先行的に、1971年に労働省がアスベスト発がん性に初めて言及した通達なども行われます。規制の動きは次の章で続いて扱いますので。
それに対してアスベスト業界の動きですけれども、実際に原料輸入や、向こうの企業との交流などで現地訪問などを日本の企業側もしていたわけです。そのときに、現地の鉱山などで粉じんが多い、このような防じん対策に取り組んでいるというような情報を得て、それを実際に業界紙などで紹介しているということも確認されます。また、労災認定でアスベストの肺がんが認定される件数が1960年ごろからあるわけです。基本的に労災認定がされるに当たっては、当然そこのアスベスト企業で働いていた人が認定されるということであれば、企業と全く関係なしに認定されることはまずあり得ないので、労災認定を通じてそのような被害が出るというようなことから、認識は十分明白にできていただろうということです。
また、このような動きも見られます。1960年以降、ワグナーの先ほどの南アフリカの中皮腫の報告があって、そこでメインでアスベストを取り扱っていたケープ社は危機感を募らせて、自分のところの、元々イギリスなどでは販売が難しくなってくるから、だから、世界各地へ販売強化するという動きを見せ出しただろうということです。
南 次に、8章に該当しますけれども、日本の規制です。それに対してのアスベスト産業の動向ということで、ここは年表的に簡単にいきますけれども、細かくは全体的な労働安全衛生規則などが戦後にできて、防じんマスクの規定や局所排気装置に関連する技術書の出版などの動きもあって、1960年に大きな法律としてじん肺法が制定されて、まずはここで石綿肺が対象にされる形で規制が一応は導入される形になります。局所排気装置をつけろというような通達も出てくるのですけれども、一番大きな動きとして次に出てくるものが、1971年の特定化学物質等障害予防規則、いわゆる特化則の制定です。さらに、このころは労働基準法の中の規則としてしか労働安全衛生が扱われていなかったのが、それが独立して扱われる形で法律が改正される。さらに、1975年には特化則が改正されたということで、ここでようやく明確に、この法律は発がん物質に対する法規であって、その中でアスベストを扱っている、イコール、明確にアスベストが発がん性物質であるということで、規制が行われているということが明確になります。1976年に労働省通達があるのですけれども、ここで代替化推進や青石綿の規制強化があって、おおむね、このころの規制の動きはこの辺りでひとまずは到達点を迎えるという流れです。
これに対する検証ですけれども、まず、特化則の制定時期が妥当だったのか、これ以前に予防の観点から対策が取れなかったのかという点ですけれども、これは先ほどから確認しているとおり、肺がんや中皮腫に関する海外知見は既に1950年から1960年代に文献や国際会議で取り扱われていたわけですから、全く情報がなかったですというようなことは言い切れないでしょう。
さらに、特化則そのものの中身の、規制内容の妥当性ということで、規制を屋内作業に限定して、屋外作業を対象外にしていたということが一番の、当時としては規制が不十分だったと言わざるを得ないところです。要するに、建設業などで建材を取り扱う労働者などが完全に対象外になってしまっていたということです。また、屋内作業であったとしても、配管修理のような臨時作業は想定外になっていたということも、本の中で指摘を行っています。そして、保護具の取り扱いに関しては、作業現場に備えつけなさいという義務の形で、その作業に従事する人に使用しなさいというような義務化はしていなかった点も欠陥だろうというところです。あるいは、局所排気装置を使うか、もしくは防じんマスクを使いなさい、どちらかさえやればいいというような二者択一の扱いになっていたということも不十分でしょう、当然ながら両方やるべきでしょうというような話です。
それから、1975年改正で吹き付けアスベストの原則禁止が行われたり、1976年通達での青石綿の規制値強化で使用が大幅に、青石綿に関しては制限されるということはあったのですけれども、原則禁止といっても、含有率は5%以下を除くという例外規定もあったわけで、これ自体も不十分だったのですが、これ以外に関しては、とにかくアスベストの粉じん対策をしていれば、とりあえず製品が作れて使用できるという状態を継続させてしまったわけです。いわゆる管理使用の扱いということで、結局はその後、70年代、80年代、90年代を通じて、アスベストはその後もずっと大量に消費が続いてしまいます。さらに、このような規制が強化されている動きの中で、産業界側もアスベスト公害論や発がん性物質論に対しての反論を展開する動きも出てくるわけです。
南 ようやく最後のまとめの章ですけれども、まず、有害性の認識についてのまとめです。これは先ほど話したとおりですが、既に1930年の段階でけい肺に関する国際会議が行われていたし、ILOの石綿肺を含む資料の作成がありました。国内的にも、直接的に1937年からの泉南調査があった、内務省が調査を行っていたということです。既に戦前の時点で、イギリスも規制を入れているという動きもあった。
さらに戦後も、がん会議や労働衛生会議などの国際的な取り組みは3、4年に1度は開催されていて、専門家の間でも、先ほど出てきたサラナク研究所のシンポや南アでのじん肺国際会議、1964年のニューヨークアカデミー国際会議があった。東京でも世界がん会議なども開催されていたということから、この時点ではアスベストの危険性、有害性は十分に認識されてしかるべきでしょうという話です。
国の産業界への関与という点ですけれども、これも、これまでの話のまとめですけれども、戦前・戦中は軍需、軍主導でアスベスト産業が発展してきたという歴史があるわけです。国側が特定の製品分野の製造の要請や、品質や性能に係る規格の制定、植民地での鉱山開発や工場の展開という動きもあったわけです。
戦後は民需転換ということがありましたけれども、そこでは通商産業省が国内産業保護や、海外からの技術移転などに関して産業育成をサポートしていたという側面もありましたし、業界側も海外企業との取引を通じて、海外でのアスベスト健康被害に関する知見を得ていたと推測されるのですけれども、それが現場レベルでの労働環境改善や法規制の導入には生かされなかっただろうというところです。
結局のところ、なぜアスベストがそれだけ長期にわたって広く製造・使用されたのかという点については、これはスライドの最初の方でも挙げたとおりですけれども、やはり安かったというところが一番のアスベスト製品の魅力だったのだろうというところですね。実際に他の製品よりも安価だったと捉えられます。最安値とまでは言わなくても、吹き付けやスレート建材も、同系統の製品の中では比較的安価な部類に入っていた。アスベストの性能からいって、丈夫で長持ち、火に燃えない、耐火性が高いというようなところの性能が高くて、なおかつ安いということで言えば、やはりそれは製品としての魅力。有害性さえなければ、非常に便利な、魅力的な製品だということになります。なので、やはり安いということが一つ。性能が高くて、なおかつ安いということが恐らく大きかっただろうというところです。
一応グラフで示しているのは水道管の値段に関するグラフですけれども、これも端的に、元々、既存の鋳鉄管と石綿セメント管を比べた場合、やはりセメント管の方が少し値段水準が安かったというような点ですね。
さらに、安くて便利だという一方で、それが安全であれば、魅力的な商品で、使っていればいいではないかという話になりますけれども、もちろん、それが有害な製品だ、危ない製品だということになれば、それは安いからといって使用すべきではないという話になりますが、有害性の部分が十分に周知されなかった。だからこそ、安全な、使っていていいのだろうというような流れになっていたことも考えられます。業界や国側は十分にいろいろな情報など、実際に労働省なども石綿肺や肺がんの研究もしているわけですから、1960年代には有害性を認識していたわけですけれども、やはりなかなか末端労働者や一般住民には周知されなかったのではないかということが考えられます。
もし、危険性を知っていたとしても、やはり立場上、そのような仕事ぐらいにしかなれない、貧困や差別的な立場にあってアスベスト産業に従事せざるを得なかった場合もあったのではないか。それは泉南の事例などからも示唆される話です。細かくは資料を、ぜひ本を確認していただきたい話ですけれども、立場上、危ないけれどもこれぐらいしか仕事がないというような人たちが従事していたのではないか。そのような立場の低い人が働くことで、そのような安い労働力があってこその製品の低価格だったのではないかということも考えられます。
世界的な動きとしては、既に60年代、70年代には欧米での健康被害の社会問題化を受けてということで、先ほどもケープ社の話が少し出ましたけれども、海外企業が日本を含む東アジアの方に、アスベストの生産や販売を増強する形で移転してくるという動きがあるわけです。この動きは、日本の方はまた日本の70年代以降規制強化されて、今度は日本企業が、近いところの海外ということで韓国に進出して、韓国に進出したアスベスト工場が今度はそちらの規制強化でインドネシアに移転するような事例もあるわけです。そのような形でどんどん世界的に連鎖していく。アスベストの危険性が認識されて規制が強化された国から、まだ規制が導入されていない国へとどんどん移転していく。これはある意味、各国間に情報格差がある、アスベストの有害性に関する認識に格差があるから、それを意図的に利用して、ここはまだ危ないと認識されていないから、まだまだ売れるというようなところへ移転していった。これが結局、日本も含めて世界規模でアスベスト禍を広げていった大きな原因ではないかということを、本では大きな問題提起として挙げているわけです。
最後の話、議論ですけれども、アスベスト禍が広がることは必然だったかというところです。アスベストの製品は安価で高性能だった、だから、アスベストはやはり安い製品で、利潤を稼いで経済成長・発展していくためにということでは非常に都合のいい物質だった、だからアスベストは近代化や経済発展に必要だったと捉えるような、評価するような説明もあり得る話ですけれども、これは安直な見解であるとわれわれは捉えて、もしくはそのようなことを意図的に強調することによって、アスベストは皆にとって必要だった、社会にとって、皆にとって必要だったから仕方ないという形で、アスベストの使用自体の責任を曖昧にするような論法であると捉えざるを得ない話です。
安い、安価であるという点ですけれども、これは明らかに間違った認識だろうということです。確かに、生産・販売時点でのコストは安いかもしれません。でも、製品のコストは、ライフサイクル・コストですね。その製品の廃棄段階までも含めてのコストを考えなければいけない。アスベストは廃棄までの将来的な経済過程を考慮した場合、その土地でばく露によって健康被害が発生してしまう、それで死者が増加することによって様々な被害をもたらす。これはまさに、お金には本来的には換えられないような絶対的な損失であるということになりますね。それでも、被害者に対しては救済・補償というものが何かしら求められるものになりますから、それは当然伴います。実際に日本の場合はアスベスト救済法や労災補償など、近年では建設労働者の裁判もあって判決も出て、被害者に対する救済・賠償等が行われているわけです。それらはかなり社会全体が多大に負担しているコストということにもなっています。
さらに、新たな健康被害の予防のために、アスベストはきちんと防じん対策を取って丁寧に扱わなければいけない、廃棄段階もきちんと管理して行わなければいけないということで、非常にそれにかかる直接的なコストも発生させてしまうわけです。つまりは、その国の社会にとって多大な苦痛や負担を強いる商品であるという点が、結局のところ、アスベスト製品の本質である。だから、アスベスト製品は非常に高価な商品である。高価というだけではなくて、とてつもない問題を引き起こす、苦痛をもたらしてしまうような製品であるということです。
そもそも、アスベストは産業発展などに必要だったから仕方ないのだという議論に対してですけれども、これも最初のスライドのところで指摘したとおり、アスベスト産業の歴史からも明白なわけです。多くのアスベスト産業は、既成製品の代替品として登場してきた。実際に日本や諸外国もそうですけれども、全面禁止、ほとんど使用できなくなってくるという中においても、経済は結局、何ら支障もなく動いているわけです。われわれは別に、アスベスト使用全面禁止になって何か困っていることはあるのかということです。逆に、かつて使ったアスベスト、残ってしまっているアスベストの処理に苦慮してしまって、それでコストがかかって大変だということが現状なわけです。少なくとも、中には、アスベストぐらいしか、この製品は当時の技術的には難しかったということはあったかもしれないけれども、それでも、消費量が最も多くを占める一般的な建材に使われたアスベストに関しては、建材はそれこそ種々雑多ある建材の中の一製品にしかすぎないわけです。そのような使用に関しては、明らかに必要不可欠性はゼロに等しいと言わざるを得ない。そのようなことで、やはりアスベストは使い続けた、仕方なかったのだというようなことは明らかに、非常に短期的、短絡的な経済コスト的な部分でしか説明が、それしか言いようがないという話です。だから、社会がそれを仕方ないのだと言うことは明らかにおかしな話ですね。
少し駆け足になりましたけれども、この『アスベスト禍はなぜ広がったのか』の本に関しての報告ということで、まずは以上とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。