Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
収録日時: 2023年10月20日(金)
公害訴訟などでは、訴訟を手がかりに、被害防止や救済のための新たな政策形成が目指されることが少なくありません。
建設アスベスト訴訟では、建設アスベスト給付金法が作られました。
民法学の第一人者としてアスベスト訴訟にも深く関わられてきた吉村良一氏は、こうした訴訟の典型としてアスベスト訴訟を位置づけています。
そして、これらの訴訟では、理論(研究者)と実務(弁護士)の協働が行われていることを、吉村氏はこれまで強調されてきました。
ご講演では、泉南アスベスト訴訟や建設アスベスト訴訟に理論(研究者)の立場から関わってきたご経験を素材に、「理論と実務の協働」のあり方について語っていただきます。
北見 皆さん、こんばんは。名城大学法学部の北見と申します。本日、「アスベスト問題を語り継ぐ」連続講座の第8回目ということで、「政策形成訴訟における理論と実務の協働-アスベスト訴訟を中心に-」との題目で、立命館大学の吉村良一先生にお越しいただいて、お話をお伺いします。
吉村先生は、法律学ですけれども、民法、とりわけ不法行為法、特に公害関連の訴訟などで非常に著名でありまして、アスベスト関連でも大変なご尽力をされているということで、こちらをご覧の方もご存じかもしれません。本日は、吉村先生にお話をお伺いいたします。
タイトルですけれども、政策形成訴訟ということです。訴訟というと、訴えを起こした人、起こされた人、原告と被告に対する判決というようなところになります。
その判決が結果として新しい法律を生み出したり、あるいは、政府の方針について変更させたり、このような、まさに政策に対して影響を与えるというようなことでありますけれども、訴訟のこのような側面にも重点を当てて、本日はお話を伺うということになります。
それでは、吉村先生にお話をお伺いいたします。どうぞよろしくお願いいたします。
吉村 吉村です。この講座は第1回目が宮本憲一先生だということで、光栄といいますか、大変緊張しているのですけれども、1時間ぐらいで、今、紹介のあったテーマについてお話をしたいと思います。
はじめに、自己紹介を兼ねて、私自身が公害訴訟にどのように関わってきたのかということについて、少しだけお話をしたいと思います。
私が学部の学生の頃、1960年代の終わりから70年代の前半なのですけれども、その頃に、いわゆる四大公害裁判が行われました。水俣病訴訟、四日市のコンビナートの大気汚染訴訟、あるいはイタイイタイ病です。いずれも1960年代の後半に提訴されて、70年代前半に判決が出てという時期なのです。その頃にちょうど学部の学生だったこともありまして、そのような訴訟に関心を持ちました。
それで、大学院に進学して研究者になるというときに、どのようなことをやろうかということを考えましたが、四大公害訴訟というのは、例えば、因果関係の問題や、あるいは企業の過失の問題など、そのようなことが主要な争点になっていました。例えば、イタイイタイ病の原因がカドミウムなのか、あるいはチッソには過失があるのかと、このようなことが争点になったのですけれども、いずれも原告勝訴の判決が出た後、では、責任が認められたとして、損害賠償の額をどのように算定するのか、あるいは、損害賠償というものは起こってしまった被害の救済ですので、被害を起こさないようにするためには、やはり差し止めが大事だと、そのようなことに当時の議論の重点が移ってまいりました。
その中で、私は制裁的慰謝料ということについて研究したのです。慰謝料というものはもちろん精神的な損害に対する補償なのですけれども、同時に、加害者に対する制裁的な機能もあるのではないでしょうか。公害訴訟では被告の過失の程度が非常に重いので、そのような慰謝料を通して、ある種の制裁的なことが図れないのかということが関心になって、そのあたりから自分の研究をスタートさせたということになります。
学部の頃に、私のゼミの先生は奥田昌道先生という、後に最高裁の判事になられた方です。そのゼミで「公害の私法的救済」ということで報告をした覚えがあります。何を話したのかは全然覚えておりません。資料も当時の青焼きのレジュメですので残っておりませんが、そのあたりが原点です。
それで、大学院に入って以後のことで言うと、公害訴訟との直接の関わりは、西淀川の公害訴訟です。西淀川というのは大阪市の西部、尼崎の隣ですが、そこにおける道路、あるいは工場による大気汚染被害です。1970年代の後半に提訴されて、最初の判決は1991年ですけれども、ちょうどその裁判で、私の大学時代の先輩であった早川(光俊)さんという弁護士さんから、弁護団の議論に参加してくれないかということでお誘いを受けました。行くと、もう亡くなりましたけれども、関西大学教授の澤井裕先生が、その弁護団の会議の議論の中でリーダー的役割を果たされていたのです。そのようなことを見て、やはり研究者というのは単に本を読んで論文を書くだけではなくて、そのような現場で、弁護士さんなどといろいろやりとりしながらやっていくということも大事なのだということを痛感しました。
それで、最初に書いた論文は、西淀川訴訟ではなくて、国道43号線訴訟についてです。国道43号線というのは大阪・神戸間の大国道ですけれども、そこの道路による大気汚染と騒音・振動被害です。これの一審判決が神戸地裁で出て、それについて評釈を書いたのが、私が公害問題で書いた最初の論文です。1980年代の半ばだと思います。その後、公害、薬害、あるいはアスベストのような労働災害であり公害であるような事件について、弁護団と一緒にいろいろ議論するということをずっとやってまいりました。
それで、最近10年は何をやってきたかというと、一つは、今日お話しするアスベストです。建設アスベスト、あるいは泉南アスベストの提訴の頃からいろいろな形で関わりました。もう一つは、2011年の3月に起こった福島の事故です。これについては、研究会を作って、その代表をしながら、いろいろな議論をしてきております。
そのような関わり方をする中で感じてきたことを、特にアスベスト訴訟に絞ってお話をしたいと思います。
吉村 まず、「政策形成訴訟」とは何かという話なのですが、これはいろいろな理解があると思いますけれども、先ほど言ったように1960年代後半から70年代の段階では、発生した被害は極めて深刻な人身被害でした。にもかかわらず、そのような被害が救済されないという事態の中で、いろいろな経過の中から、被害者、あるいは、それを支援する弁護団が裁判を起こしました。
これらの裁判の特徴は、被害が集団的に発生していますので、原告の権利を救済するということが前提なのですけれども、原告は発生した被害者のごく一部です。水俣病などはもう本当に一部です。従って、その裁判で賠償を取れたというだけでは全然話にならないのです。
そうすると、その賠償が取れた、あるいは責任が認められたということを前提に、これは、ある弁護士は「一点突破・水平展開」ということを言われましたけれども、判決で一点突破をして、その成果を、同様の被害者を救済するということで水平的に展開するということが必要になります。同時に、訴訟というのは基本的には損害賠償請求です。お金を取るという話ですので、それだけでは公害被害の救済にはなりません。あるいは原状回復になりません。そうすると、その被害を手掛かりに制度を作らせる、あるいは金銭賠償ではない、いろいろな対応をさせるという、そのようなことが必要になってきます。
そのような位置づけの訴訟を「政策形成訴訟」と呼ぶのですけれども、ただ、私の見るところ、たしかに、四大公害裁判は公害政策に大きな影響を与えました。四日市公害の裁判が終わった後、当時の環境庁の長官が記者会見をして、このようなことを言っているのです。一つは、公害対策に全力を挙げて取り組みます。二つ目には、被害者救済制度を作ります。三つ目は、このような被害が起こらないために、事前のチェックのための制度が必要だと、この3点を記者会見で言っています。
それで、1点目は、1970年代前半の時期に環境基準が厳しくなったり、あるいは、様々な排出規制が強化されました。それから、2点目の救済制度という点で言えば、公害健康被害補償法という法律ができて、裁判によらずに被害救済を受けられるという制度ができました。ただ、残念ながら、この事前にチェックをするための制度を作るということについては、その時期に実現しませんでした。これは、要するに、今流の言い方をすると、環境アセスメントなのです。環境アセスメントについては、実に1997年にやっと法律ができたということで、この3点目は政策的には実現しなかったのですけれども、公害訴訟は、全体として当時の公害・環境政策に大きな影響を与えました。
ただ、私の見るところ、これらの裁判で、そのような政策形成を目標にして裁判が行われたわけではなくて、非常に深刻な被害者がいて、しかも、社会的な差別の中でなかなか自分たちの声が出せない、そのような被害者が、まず自分たちの権利を回復する。それが第一の目的だったと思います。従って、この四つの訴訟は、いずれも被告は企業です。国が相手の裁判はしておりません。水俣病は後に1980年代に、国家賠償訴訟とチッソに対する請求が併せて請求されました。最近で言えば、建設アスベストにしても、あるいは福島の賠償にしても、国の責任をセットにして追及するという訴訟がありましたけれども、これはやはり、国の責任を追及することによって、国に政策転換をさせるという、そのような狙いが出てきたからだと思います。
私が見るところ、政策形成訴訟ということで、政策形成を意図的に目標に掲げたのは、恐らくスモン訴訟だったと思います。薬害スモンというのは、整腸剤としてのキノホルムが昭和40年代頃まで非常に広く使われたのですけれども、それによって発生した被害です。これについてはいろいろな経過があるのですけれども、まず裁判で国と製薬会社の責任を認めさせるということだけではなくて、スモン被害を全面的に救済するために、損害賠償にとどまらない要求を形成していきました。例えば、スモンに対する医療制度や医療機関の充実やスモン手帳を発行するということです。あるいは、薬事法を改正して薬害が発生しないようにすべきだと、そのような要求を掲げながら裁判をして、いずれも弁護団は連携をしながら、最近亡くなった豊田誠弁護士によると、地裁の連弾で、次から次に勝訴の判決を取っていく、それで政策を実現するのだという、このようなことで、成功した事例かと思います。
その後、水俣病においても国家賠償訴訟が提訴されるようになりました。この時期、水俣病の認定による救済制度が行き詰まってきました。認定基準が、昭和52年に判断条件が厳しくなって、認定申請しても認められないという患者が増えてくる中で、認定制度が行き詰まってきました。それを突破するために、国の責任、あるいは熊本県の責任も追及するという訴訟が起こってきました。
アスベストもそのような政策形成訴訟だと思うのです。しかし、私の見るところ、訴訟によって政策を形成するということは、実になかなか難しい問題です。なぜかといいますと、当たり前ですが、裁判というものは原告がいて被告がいるのです。集団訴訟と言いますけれども、例えば、今の福島の賠償訴訟においては、数千人の原告がいる訴訟がありますが、これは、集団的に提訴していますけれども、個別に原告がいて、それで、その個別の賠償請求を認めるかどうかが問題となり、それが一つに束ねられているわけなのです。
そうすると、裁判というものは、特に民事訴訟は、原告と被告がいて、原告の請求権が認められるかどうかという争いになるのです。原告の請求権が認められるかどうかについては、まず法律の条文があります。例えば、民法で言うと、709条があります。そこには過失が要件として書いてあります。それで、過失があるかどうかと、このようなことが論じられるわけです。そこでは、政策そのものが正面から裁判で論じられるということはありません。
逆に、政策をあまりに意識して裁判をやられるということは、逆効果もあります。去年、福島の原発について、最高裁が国の責任を否定する判断をしました(令和5年6月17日)けれども、あの多数意見の中に、裁判長だった菅野(博之)さんは、原発というのは国の政策でやっているのだと、それを非常に強調して、だから、責任を認められないという方向に行ったのです。だから、政策そのものを論ずることは原理的に難しいですし、被害者の救済活動と逆に働くこともあります。
しかし、訴訟と判決が政策が大きく変わる契機にはなるという、このような非常に難しい、アンビバレントな関係があるということになります。従って、訴訟が政策形成機能を果たすということについては誰も否定しないのですけれども、それを訴訟の中でどう位置づけていくかということについては、まだ理論的にも未解明です。この点は特に建設アスベスト訴訟の話の中で、後で申します。
もう1点は「理論と実務の協働」という話です。ご承知のように、司法制度改革の中で、法科大学院制度ができました。法科大学院ができた当初、あるいは作ろうとするときに、「理論と実務の架橋」ということがよく言われました。法科大学院の教育というのは理論と実務を架橋するものですというわけです。この意図は、これまでのわれわれ研究者である教員がやっている大学における法学教育は、実務に何の役にも立ちません。実務を知らないで理論だけやっています。それではだめなのだという趣旨で言われたのです。
これについては反論すべきこともたくさんあるのですけれども、私は、そうではなくて、この理論と実務の架橋というのは、理論と実務の様々な協力関係の中で、あるいは緊張関係もはらみながら、判例が作られ、あるいは法律が作られ、理論が作られてくる、そのような、いわば相互関係の中で理論なり法律が発展していくことをさすと考えています。そして、その発展のプロセスや成果を、将来、弁護士を目指す、あるいは裁判官を目指す諸君に教えるものだと、このような理解をして、この理論と実務の協働ということを繰り返し言っております。ただ、これも、後で触れる機会があるかもしれませんけれども、それほどきれい事ではなくて、やはり相当に緊張関係もはらみます。
公害裁判の話を先ほどしましたけれども、宮本憲一先生は、大著の『戦後日本公害史論』(岩波書店、2014年)を書かれています。その中で、日本の公害・環境政策を進めた大きな原動力は二つあるとおっしゃっています。一つは、地方自治です。地方自治体が環境政策、あるいは公害対策を積極的にやります。それをさせるために、地域の住民がそのような公害対策をする首長を、知事や市長を選んでいくということです。東京でも美濃部さんが都知事になられましたけれども、そのような方向での動きです。それで、自治体の動きが国の政策に跳ね返ってくるという、これが一つのルートだということです。
ただ、水俣もそうですし、イタイイタイ病の地元もそうですが、その地元において、被害者とそれを支援する人たちが少数派の地域があります。水俣に至っては、少数派どころか、水俣病の患者であるということすら公にできませんでした。そのような地域では、多数派ではないので、自らの政策を実現するための首長を選ぶというのはできないのです。そこで、もう本当に最後の手段として訴訟という道を選びました。
水俣病の第一次訴訟のときに、原告の団長だった方が集会で、「今日、ただ今からわれわれは国家権力に立ち向かうことになりました」と発言されました。それを聞くと、これは国家賠償訴訟ではないのに、なぜ国家権力が出てくるかという疑問を持たれる方がいるかもしれませんが、水俣病の患者は、最初は県に裏切られました。それで、国に持っていっても裏切られました。本当にどうしようもなくなって、自分たちの相手はチッソだけではなくて、その背景に県や国という権力があると感じられたのですね。従って、もう本当に決死の覚悟だという形になるのです。
その後、判決に至るプロセスの中で、いろいろなことがあるのですけれども、まず、弁護士は、当初は勝てると思っていないというところからスタートしま。従前の判例や学説ではとてもだめですというわけです。それで、それをどう突破するかということで、一見突飛な、突飛と言うと失礼ですけれども、斬新な提案をしました。学者はそれを見て、「いや、それちょっと無理じゃない?」というように、まず思うのです。しかし、よくよく考えてみると、という話になって、その議論のやりとりの中で、いくつかの成果が勝ち取られました。
他方、学者のほうは、外国の法理論などを学びながら、非常に斬新なことを言うのです。それはなかなか実務家に受け入れられません。弁護士さんも「いや、先生、それを言っても、ちょっと日本では通用しませんよ」という反応をします。しかし、それが突破口になることがあるという、このようなプロセスを多くの公害裁判は通っています。それを称して、私は「理論と実務の協働」ということを言っているのですけれども、それが典型的に表れたのがアスベスト訴訟だと思いますので、その話に移します。
吉村 アスベスト被害はどのようなものかというのは、もう今日ご参加の皆さんには語る必要はないと思うのですけれども、2005年6月のいわゆるクボタショックがありました。尼崎のクボタの工場周辺に悪性の中皮腫等の患者が出ていることが明らかになりました。このクボタショックが大きなきっかけになりました。もちろんそれ以前にも問題はあったのですけれども。
アスベスト被害は、いろいろな現れ方をします。工場内で働いているということであれば、これは労災なのです。それで、それが工場の外に出ると、大気汚染ということになります。それから、アスベストを含んだ製品、例えば、建材を使ったということになると、これはいわゆる製造物責任なのです。欠陥商品事故です。あるいは、アスベストの廃棄物から被害が発生します。このように、アスベスト被害というのは非常に多様な形で現れてきます。
そうなると、責任を追及するという議論をするときも、いろいろなタイプの訴訟が行われるというのが特徴です。労働者で言えば、建設アスベストの場合は、建設労働者ないしは建設作業従事者が被害者ですので、一種の労災型の議論で、そこで問題になっている法律は労働基準法や労働安全衛生法など、労災関係の法律です。それから、それが外に出てくるとなりますと、これは大気汚染に関わりますので、一連の大気汚染に関する法制度や法理論が使われます。あるいは、建設アスベストの場合は、これは一種の欠陥商品事故ですので、製造物責任法の制定以後であれば、これは製造物責任法、PL法です。それ以前でも、製造物責任という責任グループがありました。このように、多様な形で現れます。
それからもう一つは、アスベストは、やはり国が適切なコントロールをしないと被害が拡大します。そうすると、国が適切な規制をしたのかどうかという、このような形で国の責任が問われます。ですから、被告も、工場の雇い主、建材メーカー、あるいは国など、いろいろなタイプの訴訟になります。これが大きな特徴だと思います。
その中で、泉南アスベスト訴訟と、それから建設アスベスト訴訟を中心にお話をしたいと思います。大阪の泉南地域では、20世紀の初めから中小零細の企業が中心になってアスベスト製品を作ってきた。工場数は相当あったようですけれども、大部分が小規模です。それで、石綿工場は住宅地から農地の間に混在するという、そのような地域です。しかも、粉じんによる被害という点で言えば、戦前、1930年代から、当時の今の保健所に当たるところが調査したりして、かなり被害があるということが分かってきていた、そのような地域なのです。ただ、その被害は埋もれてしまって、顕在化してきませんでした。これが、クボタショックの後、弁護団によるいろいろな被害者の掘り起こしなども経ながら、裁判を起こしました。
この訴訟の特徴は、国だけを相手にしていることです。これについてはいろいろな議論があったようですけれども、工場の責任といっても、もうその工場は現在存在しなかったり、法人格としても存在しないということがあったりした。それと同時に、そのような、いわば中小零細の工場が中心ですので、やはり、国が適切に法を作って、いろいろな規則を作って規制しないと被害が防げない。例えば、工場で働いている工場主自身がきちんと対策せずに、マスクもせずに、一緒に粉じんにまみれて働いていた、そのような地域です。やはり、アスベストがこれほど危険なものだということについては、誰が一番知っているか、誰がそれをコントロールできるか、このような点から国にターゲットを当てたのだろうと思います。
同時に、やはり、国に責任を認めさせることによって、アスベスト被害の救済を、先ほど言ったように、政策的にも転換していく、このような意図もあったというように私は認識しております。
裁判については、いろいろな経過があるのですけれども、平成22年に大阪地裁で最初の判決が出ました(大阪地判平22・5・19判例時報2093・3)。判決は、昭和34年頃には、石綿肺について被害が予見できた、47年頃には、47年というのはWHOが発がん性についての勧告をしたときなのですけれども、その時期には、肺がん・中皮腫についての知見が確立していた、従って、遅くとも昭和35年までには法律に基づく省令を制定して、局所排気装置を付けるように義務づけるべきであり、また、昭和47年に義務づけがなされるのですけれども、それ以後も、測定結果の報告と、さらなる改善を義務づけるべきであったということで、国の責任を相当に広く認めました。
しかも、この判決は、それ以後の判決と違って、国の責任は、全体の被害の3分の1や2分の1ではなくて、100%であるとしました。他に責任を負う主体がいるとすれば、その両者は連帯して責任を負うのだという、かなり思い切った判断をした判決です。
ところが、この判決が、それから1年半後、平成23年に、大阪高裁で原告の逆転敗訴になったのです(大阪高判平23・8・25判例時報2135・60)。その理屈づけは、一言で言えば、国の規制権限を行使すべきかどうかについては、労働大臣が非常に広い裁量件権を持っている、どのような場合にどのような規制をするかについては、労働大臣の専門的な裁量だというものクです。
ただ、その背景には、このようなことを言っているのです。「アスベストの弊害が懸念されるからといって、ある製品の弊害が懸念されるからといって、工業製品の製造・加工等を直ちに禁止したり、あるいは厳格な許可制の下でなければ操業を認めないというのでは、工業技術の発達および産業社会の発展を著しく阻害する。ひいては、労働者の職場を奪うことになりかねない」、このような、極めて産業重視的な発想があります。ただ、「弊害が懸念されるからといって」と判決が言っているこの弊害というのは、まさに人の命に関わる弊害なので、弊害が懸念されるからということでこのような広い裁量を認めていいのかということが、重大な問題だと思います。
ただ、実はちょうどこの時期に、国の責任については、ある種の、私に言わせるとバックラッシュなのですけれども、理論的な大きな後退がありました。国の責任を認めなかった判決がいくつも出ているのです。例えば、薬害イレッサの判決などです。その背景でどのようなことが問題になったかというと、このような論文が出たのです。論文を書いたのは訟務検事です。訟務検事とは、国が被告になった民事訴訟で国の代理人になる人です。身分的には検事ですけれども、多くは裁判官からの出向です。彼らが、連名の論文を『判例タイムズ』という雑誌(1359号)に載せたのですけれども、そこでは、被害回復の面で国の役割を重視していくと、事前規制型社会への回帰、大きな政府を求めることになって、それが現時点における国民意識や財政事情から妥当なのかと言っています。つまり、国の責任を認めすぎると、やはり規制をすべきだということになって、大きな政府になってきて、当時の新自由主義的な改革による、規制を緩和してやっていくという、そのような方向に逆行することになるのではないかということを書いた論文があるのです。
これは訟務検事の論文ですけれども、実はこの時期に、研究者の中でもそれに同調する行政法学者が出ています。名前を挙げれば、原田尚彦さんという、環境法で著名な行政法学者なのですけれども、国民の個々の安全について国が保障したり、責任を負うという風潮が強いけれども、そこまで行政依存を強めると、行政側は必要以上に規制権力を発動して国民生活に監視を加えると、そのようなことになりかねないので、行きすぎは是正すべきだということを言いました。
国の責任を肯定するについて、行きすぎだという議論は古くから言われてきたのですけれども、ちょうどこの泉南アスベストの大阪高裁判決が出た頃の特徴は、それを当時の規制緩和、あるいは新自由主義的な構造改革によって自己責任を強調する論調、同時に、国家財政が破たんしてきているので、これ以上国に負担させるわけにはいかないというような政策動向が、私に言わせれば、かなり露骨な形で出たきていました。恐らくそのようなものが背景にあったのだと思います。
規制緩和や新自由主義的な改革がいいのか悪いのかという議論は、それはそれとしてやったらいいのですけれども、やはり問題は、現代における様々な危険から国民の生命や健康を守るという、そのような現代社会における国家のあり方は、構造改革がどう進もうと、小さな政府か、大きな政府かに問わず、やはり、本質的な部分では変化はないと思います。加えて、規制と言っても、経済分野の規制から生命・健康の保護に直結する規制まで様々で、それを区別せずに、規制緩和、事前規制型社会への回帰は望ましくないという議論は、あまりに乱暴な議論だと思います。
ただ、一言つけくわえれば、経済分野の規制でも、例えば、スキーバスの事故が相次いでありましたけれども、あれは、要するに、規制緩和の中で過当競争が起こっているわけなので、経済規制であればどんどん緩めていいとは思いませんけれども、少なくとも人の命・健康に関わる規制については、それを緩めるということについては、やはり慎重であるべき、あるいは否定的に考えるべきだと私は思っています。
ただ、そのような判決が出たものですから、私はその段階で、何とか理論的にも反論しなければならないということで、若手の行政法の研究者の力を借りて、『法律時報』という雑誌に特集を企画したりしました(82巻4号)。この判決は、泉南の問題に関心を持っている研究者にとってはほとんど予想外で、私は、国に責任があることを前提にして、地裁判決の100%の国の責任を維持させるためにどうしたらいいかという意見書を高裁向けに書いたりしていたのです。この泉南アスベスト事件についてはドキュメンタリー映画があります。原一男さんという、「ゆきゆきて、神軍」という有名なドキュメンタリー映画を作った方の、「ニッポン国VS泉南石綿村」というドキュメンタリーです。非常に感動的なものなのですけれども、その中で、大阪高裁判決の直後に、弁護団の谷(真介)さん、あるいは伊藤(明子)さんという、当時はまだ若手に少し毛の生えたぐらいの年代の方で、今はベテランですけれども、彼らが涙ながらに不当性を訴えるシーンがあるのです。弁護士がそこまで当事者に入れ込んでいいのかという議論はできると思います。ただ、やはり、そこには、単に依頼者と代理人というだけではなくて、人間的なつながりが間にあるということが表れている、私は弁護士にとっては一つのあるべき姿だと思います。
それで大変だということで、ここから、研究者との協働が進められていきます。今日もZOOMで参加されていますけれども、村松(昭夫)弁護士の書かれている論文(労働法律旬報1837号)には次のように書かれています。弁護団としては、法律学者と研究会や懇談を行い、批判のポイントや視点についていろいろな示唆を受けた。そのような学者たちも法律雑誌などの雑誌にいろいろな反論を書いていきますが、それをその都度、高裁、あるいは最高裁に向けて理由補充書として出していった。そのようなものが全体として最高裁の判断を導いたのだと、このような指摘をされています。まさに理論と実務が協働しながら、大阪高裁を克服して、その後、二陣訴訟が、一審で原告が勝ち、高裁でも原告が勝ったのです。大阪泉南訴訟については二つの大阪高裁判決があります。一つは原告全面敗訴、一つは、恐らく最高裁よりも優れた判断だったと思いますが、二陣の大阪高裁判決、これが並んで最高裁に行きました。結果的に最高裁は、一定の時間的な限定はありますけれども、責任を認めた、このような経過があります。
泉南の特徴は、政策形成ということの関わりなのですけれども、この最高裁の判決が出た後、国は謝罪をするということになって、結果的には、訴訟の当事者でなかった人も含めて、アスベストの被害者が国を相手に提訴をし、提訴をしたら最高裁の基準で和解をする、このような形での解決が図られました。その後、多くの関係者、被害者に、厚労省が通知をするという中で、かなりの人数の方が救済を受けています。これはB型肝炎の救済方法と同じで、提訴をして和解という、そのような道筋の中で、原告以外の被害者に対する救済を広げていった。このような結果だと思います。
吉村 さて、それで、建設アスベスト訴訟の話ですけれども、建設についても、国の責任はもちろん大きな争点でした。特に、当初、争点になったのは、いわゆる一人親方です。建設作業に自らも従事している事業者です。これは労働災害としての補償の対象になるかどうかというのが大きな争点になったのですけれども、これが最終的には一人親方も認めるということになりましたので、国の責任については、ここでは省略をします。
もう一つは、建設アスベストの場合には、建材メーカーが被告になっていました。ただ、アスベストを含んだ建材を製造・販売しているメーカーはたくさんあるのです。それで、建設作業従事者のアスベストへの曝露という点、そのような危険状態を作り出すことにおいて、メーカーは少なくともその一部に何らかの程度においては寄与しています。ただ、では、どのメーカーがどの程度寄与したのかということは、およそ証明が不可能なものです。それから、作業従事者のほうも、建設作業というのはいろいろな現場を渡り歩きますので、いろいろなところに行っています。そうすると、加害者が特定できないという、そのような問題が出てくるのです。ここをどう克服するかというのが、理論的に言うと最大の争点で、ここで少し法律の専門的な話をします。
民法の719条1項という規定にはこう書いてあるのです。「数人が共同の不法行為によって他人に損害を加えたときは、各自が連帯してその損害を賠償する責任を負う。共同行為者のうちいずれの者がその損害を加えたかを知ることができないときも、同様とする」。つまり、数人が共同で不法行為をしたということになると、その共同の不法行為が原因になったということさえ証明できれば、この数人の加害者の行為が被害を発生させたということの個別の証明は要りません。共同でやったということが要件なのです。これが719条1項の前段です。
同条後段は、民法典の起草者の挙げた例で言うと、例えば、5、6人の人間が、一斉にある方向に向かって石を投げた。それで、そのうちの石の一つが人家に当たって、窓ガラスを割ったということが起こったとします。しかし、誰が、つまりどの石が割ったかは分かりません。数人がやったのですけれども、誰の行為が原因かが分からない。このときに民法典の起草者は、だからと言って誰も責任を負わないというのはおかしいと考えたのです。従って、政策的な意図から、その場合には、その石を投げた者全員については、因果関係を推定します。それで、自分の石ではないということを証明できたら責任を免れるけれども、証明できなかったら責任を負うという、そのような規定なのです。これらの規定を使うことによって、多数の建材メーカーがいるけれども、誰のものか分からないということを何とか法的にクリアできないか。これが最大の争点でした。
その上で、もう一つの問題は、被告をどうするかということです。当初、全国の訴訟では、国交省のデータベースに載っている四十数社の建材メーカーの全部を被告として、これらが共同不法行為者だという裁判をやったのです。ただ、これについては、当初の段階では裁判所は否定的でした。例えば、横浜地裁の判決を書いた江口とし子裁判官は、後に転勤になって、大阪の建設アスベスト訴訟の控訴審の裁判長になったのです。それで、横浜地裁で原告は負けている、その人が今度また同じ裁判になるということで、これはもう忌避するしかないというように当初思ったようですけれども、その江口さんが大阪高裁では責任を認めたのです。そして、判決の中で、当初の原告の主張は、集合体としての原告らが、集合体としての被告らに対して不法行為をやったという構成になっていたと述べています。アメリカなどはそのような訴訟の形態があるのです。class actionです。日本は、例えば、1,000人が裁判をしていても、これをわれわれは集団訴訟と言いますけれども、集団として訴訟はやりますけれども、理屈からすると、1,000人それぞれに不法行為の損害賠償請求権があるかどうかなのです。従って、四十数社が皆、共同不法行為者だというのは少し無理な主張をしているのではないかというように、どうも裁判所は受け取ったようなのです。この点、去年、急死をされた京都大学の潮見佳男さんが、この段階で被告側から意見書を書いているのですけれども、彼も、日本の損害賠償の仕組みから言って、集団対集団という訴訟はなじまないという意見書を書いています。このような形で、当初は責任が認められないということになってしまいました。
そこで、弁護団のほうは、いろいろな議論の経過の中で、建材メーカーを絞るという作業をします。これはいろいろな絞り方があるのですけれども、職種によって、あるいは被害者ごとに、原告が少ない京都などは被害者ごとの絞りができるのですけれども、首都圏などの訴訟は多いので、やはり職種ごとです。それで、それを製造・販売する、つまり、被害者の曝露の起因となった可能性の高い建材メーカーを絞っていきました。絞った上で、それらの建材メーカーのシェアを明らかにします。このシェアを使って証明するのです。
シェアを使って証明とはどのようなことかというと、例えば、シェア10%の建材メーカーがあったとします。その建材メーカーの製品が、原告が作業していたある現場に到達した確率は10%になります。10%のシェアですから。逆に言うと、到達しなかった可能性は90%です。この段階ではいかんともしがたいのですが、では、その建設作業従事者が、仮に10の作業現場を転々としているとします。そうすると、1回目にその建材に出くわさなかった確率は90%ですけれども、1回目、2回目、3回目、4回目、いずれにおいても一度も出くわさない確率は、0.9の2乗、3乗、4乗していくということなのです。そうすると、出会わなかった確率は、もしシェア10%であっても、10乗すると約35%程度になるのです。それで、20%だったら、1回も出会わなかった確率は11%ぐらいになって、裁判の証明というのは大体十中八九でいいと言われていますので、それに近いことになってきます。
このような理屈は、これは弁護団が考え出した理屈ではなくて、ある研究会で、後に東京高裁でこの事件を扱った永野厚郎さんという裁判官が、アメリカの留学経験の中で学んだこととして、そのような認定の仕方もあるのだということを報告されたそうです。それを、当時立教大学におられた前田陽一さんが論文(判例評論661号)で紹介したのです。それが大きなヒントになったのです。
従って、途中から、各訴訟で原告は建材メーカーを絞って、シェアを明らかにして、マーケットシェアによる到達確率を出しています。それで、先ほど言いましたように、6人の人が暗闇に向かって石を投げたと言いましたけれども、問題なのは、当たるかもしれない方向に投げた石だけなのです。6人はこちらの方向に投げたけれども、1人は投げたけれども、全然反対の方向だったとなると、これはもう論外なのです。従って、アスベストに被害者が曝露する可能性のある、そのような建材、このような絞り方なのです。それで、それをシェアによって明らかにしました。
シェアに基づいていろいろ調べると、そのシェアどおり使われているのかどうかということが問題になります。ある学者(内田貴・NBL1087号)は、実際は、そのような、サイコロを振って当たるかどうかという話ではない、従って、このようなシェアを使った確率的な認定などはできないと批判をしました。そこで、例えば大阪訴訟の弁護団では、そのシェアどおりに、シェアに近い形で当該現場において使われていたのかどうかというのを、可能な限り明らかにします。例えば、公共施設などについては、図面が残っています。そのようなものを調べてくると、大体シェアどおりになっているというわけです。そのような意味での補強もしながら立証していきました。
その結果、京都地裁が初めて認めたのですけれども、高裁段階では四つのうち三つが認めました。それで、京都、大阪、神奈川、東京の四つの訴訟は、いずれも最高裁に双方から上告されました。この最高裁が四つの裁判の上告を受理したときに、最高裁というのは、上告があったら全部を審議する審理するわけではありません。審理すべき事柄はいくつかに限定されています。建設アスベスト訴訟でも、例えば、国の責任を認めた判決については、国の上告を受理しないという判断を判決の前に出しました。このように、上告の受理・不受理の決定を示すことによって、判決が出る以前に、大体どのような方向に落ち着くかというのは見えていました。
その結果、この段階から建設アスベストの被害者に対する給付金を作れという議論が始まったのです。これは後で少し触れますけれども、判決が出た日に、与党の自民党と公明党の関連の議員のプロジェクトチームがまとめを行って、次の日に、国と原告弁護団が基本合意書を交わしました。判決の日と、その次の日にそれができているというのは、実はその前提があるからなのです。もう方向が見えてきたという中で政治が動き出して、それが、判決が確定したということで、急速に動いたというのが大きな特徴です。
建設アスベスト給付金制度の特徴は、最高裁判決を前提とした救済を、後続の原告だけではなくて、未提訴の被害者にまで広げたという点です。ここがみそなのです。後続訴訟はたくさんありますけれども、ただ、やはり、それは被害者の一部です。まだ提訴していない人についても最高裁基準で救済するのです。しかも、これは、裁判所に提訴して、それで和解ということではなくて、行政的な救済制度として作るのです。従って、申請をして、それについて審査をして認めるという、このような仕組みを作るというのが、与野党一致で何と6月9日にできているのです。判決が5月17日です。それで、18日に合意ができて、6月9日に法律ができています。私もいろいろな事件を見ていますけれども、これだけ急激に話が進んだのは建設アスベストだけだろうと思います。
給付内容は、これは国の責任を前提にして、しかも、給付は単なる社会保障的な給付ではなくて、損害賠償、つまり慰謝料であるということを明記したわけで、最大1,300万円となっています。これは、国の責任が2分の1ぐらいだろう考え、慰謝料として裁判で認められているのは、2,000数百万円なのでその半分だという、このような理屈なのです。お金を出すのは国であり、建材メーカーについては、これに対してお金を出すということはしていません。この法律の中に付則があって、その他の関係者については今後検討していくとされているのですけれども、現時点で建材メーカーはお金を出していません。これは給付金制度の大きな限界で、これをどうするかというのが課題となります。この点については、後でまた説明します。
さて、それで、アスベスト訴訟における理論と実務の協働なのですけれども、四十数社相手に裁判をやるということで進んでいくのですが、私の記憶が間違っていなければ、2011年5月に、これは大阪の提訴の直前ですが、京都と大阪の弁護団と議論をする場を持ちました。そこで、私は、「いや、四十数社相手に共同不法行為はどう考えても無理だ。もうちょっとその関連性の強い企業を絞っていくべきだ」というように言いました。その場の雰囲気は何となくそうだなとなったのですけれども、結果的には、全国で足並みをそろえるという形で、四十数社相手の訴訟として開始しました。ただ、これが、先ほど言ったような受け取り方の中で、はっきり言って、連戦連敗をして、その中でどうするかという議論をしたのです。
それで、全国の弁護団の企業責任を担当している弁護士さんたちと、私が立命館大学のキャンパスに場所を取って研究会を行いました。相当回数をしました。当時はまだZoomなどは使っていませんので、リアルの研究会でした。その研究会に、私の後輩である立命館の石橋秀起さんや、後に淡路剛久先生、成蹊大の渡邉知行さんにも加わってもらって、4人の連名意見書を出しました。村松さんは座談会(環境と公害51巻3号)の中で、この意見書が大きな影響を与えたのではないかと言ってくれていますけれども、これは弁護団から頼まれて意見書を書いたということではなくて、このメンバーが一緒に議論をして作り上げたものです。まさに理論と実務の協働の中で作り上げられてきたものだと思います。
江口裁判長の横浜地裁判決は、「こうしたら、もうちょっと何とかなるのではないか」ということを言っているのです。そう読める部分があります。横浜判決が出た当初は、弁護団などは、国の責任も否定し、メーカーの責任も否定しているので、不当判決だと言っていました。それで、その不当判決を書いた裁判長が、また大阪高裁の裁判長かというような感じになったのですけれども、よくよく見ると、「弁護団、もうちょっとこういうふうにしたらどうですか」というメッセージが含まれていたのです。それに気がついて、そのメッセージをどう受け取ろうかというようなことで、先ほど述べたような絞り込みをしていったのです。シェアについての議論、あるいは、絞り込んだ上でシェアを明らかにしてというように進んでいきました。そのような意味では、江口さんの問題意識にどう向き合っていくかということでやっていきました。
この訴訟については、高裁段階ぐらいで、早稲田大学の大塚直さんが、「この段階で訴訟の構造が変わった。最初は集団対集団の訴訟だったけども、そうではなくて、普通の訴訟になった。そういう構造に変わったというのが最大の特徴だ。そのことを踏まえて最高裁は判断すべきだ」ということを書きました(判例2404号)。最初の訴訟が集団対集団という訴訟だったのかどうかについては若干留保がいるのですけれども、少なくともそう受け取られたことは間違いありません。それが絞り込みなどの議論の中で変わっていったのです。それが、理論的な突破口になっていきました。
ただ、厄介なのはここから先なのです。そうすると、最高裁を含めて、責任を認められた建材メーカーはそれほど多くないということになりました。給付金制度ができた時点では10社ぐらいでした。その後、いくつかの訴訟で広がっていますけれども、建材メーカーが、仮に当初被告になったのが四十数社としても、責任が裁判で認められているのが十数社なのです。例えば、クボタなどは相当アスベストを使っているのですけれども、入ってないのですね。
そうなってくると、判決を突破口にして、建材メーカーを巻き込んで制度を作らせるというときに、そこが非常に大きな問題になっています。政策形成訴訟はある政策の実現を目的とするのですが、訴訟である以上、その訴訟でいかに勝つか、法律要件をどう満たしていくかということで、議論せざるをえません。そうでないと勝てませんから。ところが、それで勝ったとしても、その水平展開するという点で非常に大きな困難に直面することになります。
このあたりについては、最高裁判決後の座談会(環境と公害51巻3号)でも議論しましたけれども、一言で言えば、確かに最高裁が責任を認めたのは十数社ですけれども、最高裁が責任を認めなかったのも、それ以外のメーカーにまったく責任がないと考えているわけではないのです。要するに、個別の因果関係、原因・結果の関係が証明できないので責任を認めることは難しいけれども、やはり、アスベストを作り出して、このような状況を作り出したことについては、何らかの寄与をしているし、責任があるという、これは大前提だったのです。そのことを手掛かりに、この給付制度に建材メーカーをいかに引っ張り込むかということが、大きな課題になっていると思います。
吉村 さて、最後に、残された課題について数点申します。
建設アスベストについて言えば、一つは、責任が否定された職種があります。屋外作業を主としてやってきた、いわゆる屋外工をどうするかということです。それから、最高裁が責任を肯定した期間は比較的短いのです。それを超えた被害者をどうするか。それからもう一つは、アスベスト建材を使った建物の改修・解体の中で被害が発生します。アスベストを使った建物だということが分かっていれば、それなりに対応が取れるのですけれども、実態としてそれがなかなか難しい。そうすると、改修・解体工についてどうするかという、これが今、裁判で問われていますけれども、実は最高裁は認めていない判決を一つ出してしまっているのです(令4・6・3判例時報2543・2544合併号)。ただ、アスベスト被害というのは、基本的には過去に起こった被害ですけれども、解体・改修の問題をきちんと処理しないと、今後も被害が拡大します。それに対して責任を負うのは誰かということを議論する必要があります。これについては、最高裁はそのような判断をしていますけれども、4名の研究者(吉村、渡邉、石橋、長島光一・帝京大)が意見書を出しています。さらに、政策的に言うと、建設アスベストの一時金給付金に対して、建材メーカーに応分の負担をさせるという課題、これが大きな課題です。
もう一つの大きな課題は、アスベスト被害の救済については、労災関係の補償制度があります。それ以外については、クボタショックのときに、当時、環境大臣は小池百合子さんですけれども、隙間のない救済をするのだということで、健康被害についての救済法ができました。本当に隙間がないかどうかという問題があるのですけれども、最大の問題は、この労災補償の水準と、この救済法における水準が随分違うことです。最大の点は救済法には遺族補償年金が含まれていない点です。
なぜ違うかというと、現行の救済法は、責任を前提としないのです。環境省の説明によると、見舞金のようなものだとされています。労災補償のほうは、基本的には賠償ですので、そこの差が非常に大きいのです。これをどうするのかということが課題になります。今回のアスベスト給付金は、それぞれその上に乗りますので、これが乗ったからといって、この格差は是正されません。この格差を是正した、普遍的な救済制度をどう作っていくかということが課題になっています。
一言付け加えれば、これもなかなかややこしいのですけれども、建設アスベスト給付金法、あるいは労災の問題は、労働行政ですから厚労省の管轄なのです。それに対して、石綿健康被害救済法のほうは環境省の管轄です。それで、環境省のほうに「アスベストの判決が出ているし、給付金ができた。だから、それに合わせて救済法も改正を」と言っても、「いや、あれは厚労省マターですから」と、こうなるのです。そのような中で、なかなか議論が進みません。ここをどのように突破して、言わば、普遍的な制度を作っていくかということが、今、課題になっています。
これに関わっては、私も参加した研究グループが三つの提言を出しています。一つは、令和4年(2021年)の5月17日に建設アスベストに関する最高裁の判決が出て、その後、給付金法ができた、その直後に緊急提言をしました。その後、2021年12月に、新たな制度ということで、石綿救済法との格差を埋めるための制度についての提言をしました。それから、追加提言としては、給付金制度にメーカーを巻き込むという場合に、やはり、メーカーの拠出について何らかの基準が要るのですが、どのような基準で、どのような負担をメーカーにさせるか、これについての一定の試論を提起しました。このあたりは立命館大学政策学部の森裕之教授が専門ですので、大分知恵をひねってもらって、建材メーカーをいくつかのグループに分けてみました。責任を認められたか、認められないかだけではなくて、基本的にはアスベストの使用量をベースにしながら、最も多いグループから、そうではないグループまでグルーピングして、それぞれが応分の負担をする、このような提言をしています。これをどう実現していくかというのが問われているのではないかと思います。
すみません、雑ぱくな話で申し訳ないですけれども、とりあえず私の話は以上で、あと、またご質問等々があればお答えしたいと思います。どうもありがとうございました。
北見 大変ありがとうございました。
北見 若い方向けのメッセージというのでしょうか、今後このようなことをしてほしいというようなことを、メッセージ的にいただいてよろしいでしょうか。
吉村 若い人にということですので、理論と実務の両方についてそれぞれ要望したいと思います。
弁護士さんには、特に若い人には、ロースクールご出身の方を含めて、やはり、思い切ったことを言ってほしいのです。いや、このようなことを言ったら、裁判官や学者がばかにするのではないかということで恐れずに。弁護士さんたちは被害者と向き合っているわけです。それで、目の前にいる被害者を何とかしないといけないというときに、乱暴でもいいから思い切ったことを言ってほしいのです。思い切ったことを言えば、それを何らかの形でフォローするということは、ベテランの弁護士や、あるいは研究者の役割です。
弁護士の役割というのは、これはロースクールの学生によく言うのですけれども、普通は、イメージとしては、当事者が弁護士事務所に相談に来る、それで代理人になって仕事が始まります。しかし、公害裁判の場合、そのような話ではないのです。まさに被害者の掘り起こしをしながらやっていきます。そのときに、「いや、学説がどうであれ、判例がどうであれ、何とかしないといけないんだ」という形で議論を提起してほしいのです。ロースクール出身の人たちは判例が非常に大事ということで、最高裁の判例があったら、「もうだめだ」とすぐ言うのです。そうではなくて、そのような最高裁の判例もこれまでの先達が作ってきたと考えて、大胆なことを言ってほしいのです。
研究者のほうは、何が大事かというと、やはり、現実を見てほしいのです。研究者の現実とのかかわり方というのは、これは難しい話で、私も悩んだことがあるのですけれども、研究者として一本立ちするためには、それ相応の作法があるのです。法律学者であれば、特に民法学者などは、修士論文の最初の論文は外国法でないと、そもそも評価されません。だから、私もドイツやスイスの慰謝料を研究しました。しかし、ドイツの慰謝料の議論と公害裁判というのはすごく距離があり、その距離をどう埋めていくのかについて悩みがありました。
ただ、やはり、そこで基本的な力を身につける時期と、そのような現実に飛び込んでいくという時期の取り方というのも、これは人それぞれで一概に言えませんが、難しい問題です。私の指導する院生などに対しても、そこはなかなか気を使うのですけれども、最初から、幹が育たないうちから現場に飛び込んだ結果、大成しなかったという人をたくさん見ています。ただ、幹を作ることに終始して、常に外国の法律を紹介することしか物を言わないという研究者もたくさんいます。
そこのバランスをどう取るかですけれども、そのバランスの取り方は、いつの段階で現実のこのような裁判の中に飛び込んでいくかというのは、これはもう人それぞれの契機です。私の場合は、先ほど挙げた、私の大学の先輩だった早川さんという、まあ、怖い人ですけれども、彼に引っ張り込まれたのですが、30代半ばのことです。
だから、その時期はそれぞれですけれども、やはり、現実との関わりで法律学はあるのだという意識を持っていけば、どこかの段階で、その現実に飛び込むという契機は訪れると思います。ただ、そのような研究者が、そもそもどれだけ育っているのが深刻な問題です。つまり、現実がこうだと、それで、何とかしないといけないという問題意識を、どうしたら養えるか、これは本当に難しいです。私などは、はっきり言って、学生時代の様々な学生運動など、そのような中から問題意識を形成しましたけれども、それを今の若い人に期待するのは無理ですから。
そうすると、やはり、現実に救済されるべき被害者がいるということに対するシンパシーを持つというところからスタートしていって、そうすると、心ある研究者はその声を聞くし、弁護士はあのようにむちゃくちゃ言っているけれども、これは何とかしていかなければいけないという議論になってくるという、そのようなことかなと思います。