Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
収録日時: 2023年3月10日(金)
伊藤彰信さんは、労働組合の立場から長年にわたりアスベスト問題に関わってこられました。
講座では、港湾における問題の掘り起こしから港湾石綿被災者制度の設立に至った経緯、労働組合代表としてILO石綿条約会議に出席したいきさつ、1987年の石綿対策全国連絡会議の結成に至る経緯や、アスベスト規制法案の国会提出などについて紹介していただきます。
村山 ……今日の講座を始めていきたいと思います。今日は伊藤彰信さんにご登壇いただきます。伊藤さんは全日本港湾労働組合、全港湾の元委員長という立場でいらっしゃいます。1975年に中央本部書記局員となられたあと、ILOの石綿条約討議にも参加されたり、あるいはじん肺審議会の委員も10年間務めておられました。1987年に結成された石綿対策全国連絡会議の2代目の事務局長も務めておられます。さらには、全国港湾石綿対策委員長として2012年に確立した港湾石綿被災者救済制度について交渉を担当されました。伊藤さんには、こういった経歴の中で港湾における問題の掘り起こし、あるいは被災者救済制度の設立に至った経緯等をお話しいただければと思います。よろしくお願いいたします。
伊藤 今ご紹介いただきました伊藤であります。もう港湾を離れてから8年以上たちまして、記憶をたどりながら今日はお話をしたいと思っております。話は、では座らせていただきますので、よろしくお願いします。それではスライドを進めてください。最初に自己紹介ですけれども、先ほど村山先生の方からお話がありましたので、次に飛ばして3枚目のところまで進んでください。
今日私に与えられた課題は、労働組合からのアプローチということでありますので、労働組合がどのような活動を目指しながらやっているのかということをまず前提的にお話ししたいと思います。有名なILOのフィラデルフィア宣言で、「労働は商品ではない」ということですけれども、労働力を商品としてわれわれは売っていると、マルクス主義的に言えばそのようなことだと思います。労働力を売っているわけですけれども、命や健康は売っていない。ですから、働くということの前提としては当然、安全で健康な働き方ができるようにということであります。
昔の労災裁判の考え方は民法の不法行為という形でやっていたわけですけれども、2008年に施行された労働契約法の第5条に「使用者は、労働者の生命・安全が確保されるよう配慮しなければならない」と、いわゆる安全配慮義務が労働契約法に明記されるようになりました。これは一つの運動の成果だと私は思っておりますけれども、逆に言いますと、公務員は労働契約法上から外されておりますので、誰が安全を公務員の場合は見るのかといういろいろな問題があります。ここを全てカバーしながらわれわれは運動をしなければならないと考えているわけです。また、労働安全衛生法も本来ならば労働基準法の中に入っていた法律ですけれども、1972年に抜き出されて労働安全衛生法ができてきたという経過を考えますと、使用者の責任の問題を細かくいろいろと安全衛生法でやりますが、使用者責任をどのように追及していくのかという問題があるだろうと思います。例えば、建設業なり造船業なりで元請責任論がまだ労基法上は残っているわけでありますから、その辺も含めて使用者責任を追及しなければいけないのではないかと思っています。
労働組合というものは集団的な労使関係を形成するということでありますから、使用者側と集団で話し合って、自分たちの労働条件を交渉して決めて、それを労働協約として締結する。これが労働組合の役割であります。ですから、使用者というものをどのように捉えていくのかという問題があるわけですけれども、ここは法律論でいろいろな難しい問題も出てきますので、それを一応頭に入れた上で私の話を聞いていただきたいと……。
伊藤 ……言葉上、全港湾と全国港湾というものが出てきます。全港湾は私が所属していた組合であります。1946年に結成されて、49年に単一化した。一つの労働組合になったということです。全国港湾はいろいろな労働組合の集まり、協議体であって、それをまた連合体化していくという経過がありますけれども、1972年に業者側の団体である日本港運協会と産業別の団体交渉権を確立して、交渉する組織が必要だということで全国港湾という組織を作りました。74年に安全パトロール協定を産業別の闘いの中で確認しています。というのは、私たちの職場は1か所でやっているわけではありません。港のどこの場所で今日は働くのかというのは、その日の船の入り具合によって決まってくることになりますので、港単位の安全パトロール体制を作りました。これは労使同数で、いかなる場所にも立入権限を持って、作業中止権限を持つという協定であります。実際にこれが活用されたかどうかは分かりませんけれども、これに取り組むということで安全運動がかなり広がっていきます。
全港湾の場合も災害の多い職場であります。当時で言えば炭鉱などの鉱山、漁業、林業、そして港湾。そのあとはずっと離れているという、大体このような形です。私どもは神戸などで先駆的ないろいろな認定闘争で闘った経過がありまして、それを集約して74年の安全パトロール協定を受けながら、75年から全国で安全闘争をどのように広げていくのかという運動を全港湾として展開するようになりました。私が全港湾に入ったのが75年ですから、76年の第2回労災職業病交流集会で、年に1回このような交流集会をやっていたのですけれども、そこの基調提起をしろと。入って半年もたたないうちに安全担当という仕事を仰せつかって、全く港湾の実態を知らないまま、安全とは何かという話を組合にしなければならなくなってしまった、という経過があるわけであります。
安全活動は法律的に言えば労使の協定の中でやるということですけれども、われわれは労働協約の中で闘うものだと、いわゆる団体交渉の下部機関として安全衛生委員会を位置付けて、そのような闘い方で専門部扱いとして扱う。安全衛生委員会で決着がつかない課題は団体交渉に戻して交渉する。このような形で労働組合としての安全闘争を闘ってきたわけであります。70年代に神戸の方でいろいろと港湾に起因する病気を見つけることができました。スライドで言いますと、港湾病の表を出していただきたい。そうですね。
これは当時、港湾で起因する病気というのは何なのだろうかということで、当時としては腰痛等ぐらいしかあまり一般的ではなかったのでしょうけれども、非常に細かい。これはどちらかと言うと、当時の神戸診療所をやっておりました岡山大学出身の伊丹仁朗先生が港湾病という考え方を作ってくれたわけですが、公衆衛生的な考え方が非常に強いということです。私どもは、そのような港湾労働が原因となるような疾病をなくしていくということで、運動を進めていくわけであります。
粉じんとの関係の話をいたします。最初に粉じんの認定闘争を取ったのが73年の大阪支部の上組分会闘争。これは倉庫内でシリコンマンガンの荷役をやっていた人でありますけれども、じん肺であるということで労災認定を取りました。ところが石綿肺の人に関して、これは74年にもう発見をしていたのですけれども、じん肺管理区分申請を行うということで管理区分申請を行ったら却下されたわけです。門前払いをされたのです。なぜかと言いますと、港湾労働というのは粉じん作業ではないのだと。粉じん作業ではない人たちからの申請は受け付けられないということだったのです。大阪支部の闘いはむしろ力ずくで取ったわけですから、機動隊導入の中でそれをはねのけながら認定闘争をやっていたという。このような時期ですから、きちんとした法律論で取っていくにはどうしたらいいかということで、随分作戦を考えました。
先ほどの港湾病概念から考えていって、港湾のどのようなところに今、病気に起因するような実態や労働環境があるのだろうかということで、全組合員に対するアンケート調査を77年に実施しました。ここで意外なことに、私は「足場が悪い」「クレーンの危険作業が多い」というアンケート結果が出てくるのかと思ったのですけれども、一番多かったのが「ほこりが多くて空気が悪い」という項目がトップだったわけです、作業環境としては。この時に、このアンケートにもアドバイスをいただいた佐野辰雄先生から「伊藤君、やっぱり俺の専門だから言うわけじゃないけども、じん肺から攻めたらどうやろうか」とアドバイスをいただきました。そのようなお医者さんが集まって、港湾病研究会を岡山大学に作っていただきます。太田武夫先生が研究会の主査のような形で、その他にじん肺の問題、運動器関係、公衆衛生学的な観点も入れた港湾病というものを考え出しまして、それを学会でどんどん発表していく。
次のスライドですけれども、いろいろとじん肺検診をやります。作業環境測定をやります。病理解剖も佐野先生にやっていただきました。それからいろいろと統計的な数字も出てきますので、疫学調査などもやって、81年に労働大臣に粉じん作業として認めろと。そして、労災認定ならびに管理区分申請を同時に1981年に行いました。粉じん作業とすることという要求に対しては、直ちに審議会に付託をされるという形を取って、85年にじん肺法施行規則の適用が改正されることになります。港湾荷役作業の一部を粉じん作業とすることが決まるわけであります。そのあと、私どもはすぐに企業に対してじん肺協定を結べということで、検診をやれ、退職者の健康管理もやれ、あるいは管理区分の認定を受けた人には特別退職金を払えということで、これはほぼ獲得をしていくことになります。
次のページはじん肺法施行規則の改正と解釈ということで、ここはかなり専門的なことなので話をしませんけれども、面白いのは、今まで労災認定の申請をやったところ「受け付けないよ」と言われていたのですが、今度は法律が変わったわけですから、「何だ、作業してなかったのですか」と。特に一部の鉱物しか認めていないのです、施行規則の中では。でも「やったことないですか」と「やったことがあったことにしましょう」と。そのようなことでがらりと変わるわけです、態度が。やはり、一つの制度ができるということはどのようなことなのかということです。85年4月から施行で、新しく粉じん作業に従事するということになりますから、就業前の健康診断を全員にやらなければいけない。誰がこの作業に当てはまるのかということになると、分からないだろうと。だから「全員にやれ」と会社に言うと、分からないので、しょうがないので「やります」という話になるわけです。このように、制度が変わるということは非常に行政上と言いますか、面白く態度が変わってくるなということが運動として分かりました。
次のページは、その時に申請して出していた人に労災認定や管理区分申請の結果が下りてくるわけですけれども、これはうちの機関誌で報道した中でアスベストによる肺がんも認められたということであります。そのような功績もあったというのか、私は一応じん肺審議会委員に1986年からなるのです。ただ、審議会の委員になってもあまり楽しくなかったです。というのはどのようなことかと言うと、安全衛生管理は作業管理、環境管理、健康管理という三つの管理が必要なのだと。これは基本の基本になるわけですけれども、じん肺法という法律は何なのかと言うと、健康管理の法律なわけです。健康管理の法律でどのようになるかと言うと、「管理区分2が何人出ました」「3が何人出ました」と毎年報告を受けて、「あ、そうですか」で終わるのです。特別なことがなければ年1回の審議会で終わるわけです。
だけれども健康管理ということになれば、健康管理データがどのように作業環境の改善や健康管理の問題に役立っているのか。例えば、不可逆性というじん肺が管理3から管理2になったような人がいるのか。あるいは、1から進まないようにしなければいけない、2から3になった人は何人いるのか。それは断面で切っているだけですから分からないわけです。個人がどのように進行していったのか。その進行をなぜ止められないのか。あるいは、止めるためにはどうしたらいいのか。このような議論はないのです。本来はそのためのじん肺法で、健康管理を見なければいけないということで、この法律は作って数字だけ出していますけれども、データから見て本当に作業改善なり健康管理を進めていく上で役に立っているかと言うと、役に立っていないなという印象はずっと委員をやって思っていました。
それは置いておいて、次に総評・春闘共闘の取り組みについてお話ししたいと思います。70年代の頃は日本労働者安全センターというものがありまして、月に1回ぐらい夜に集まり勉強会を開いていました。当時の中心的なテーマはいわゆる突然死、今で言うところの過労死をどのように見るかということなのです。これは岡村弁護士などが一生懸命やっておりましたけれども、テクニックの問題が入ってくるのです。細かいデータをどのように集めていったらいいのかという話だったのですけれども、ちょっと私どもから言うと「飽き足らないな」という感じがしました。
その中で、職業がん研究会というものを作ろうと。実際にリードしてくださったのは、当時は北海道大学の渡辺眞也先生です。われわれから言うと、進行性の疾病というのはどうなのだろうか、離職後も発病するような病気はどのように捉えていったらいいのかという問題。もう一つは、公害との関連性の中でこの職業病をどう押さえていったらいいのかということで、職業がんという問題をテーマにした研究会をやろうと。有機溶剤、PCBの問題、アスベストの問題。いろいろな課題があったわけですけれども、それも研究課題にして行いました。ですから、どちらかと言うと認定闘争を重視していくという考えではなくて、認定闘争の中でも、離職後の問題や進行性の問題をどのようにこれから捉えていったらいいのかを課題にしていました。
そのような中で、被災者運動の中でもいろいろと運動的な分岐がありまして、認定を取ればいいだろうと、取った認定はなるべく長く打ち切り阻止という運動。私どもはそうではないと、むしろ職場環境を変えるところに重点があるのではないかと。ですから、認定を取った人がもう一回職場に戻って、二度と病気を発症しないような職場をどう作るのかがわれわれの運動の目的であって、認定者をほじくり出すというところが労働組合の運動ではないのだと考えておりました。そのような趣旨に賛同してくれた人たちと労災職業病被災労働者全国協議会を1980年に結成しまして、そのスローガンとして、「二度と労災職業病を発生させない職場づくり」を趣意書にして被災者運動を作っていったわけであります。
そのような意味では、当時の総評の運動の中で、これはまたあとで議論したらいいのかもしれませんけれども、随分あとですが、総評運動のやった労災職業病闘争はビジネス・ユニオニズムの運動ではないかと、社会的労働運動と相異なる運動をやっていたのではないかと私は批判をされたわけです。当時、60年代後半から企業上積補償闘争で協定を作っていく。ある程度それが進んでいって、70年代後半から総評運動の中でやろうとしたのは安全衛生職場協定、職場における安全衛生協定を作っていく。そのような運動をやっていく中で、運動的にいろいろな捉え方の分岐があったのではないかと思っております。
伊藤 ……ILO石綿条約の討議のところに入ります。ILOの石綿条約の討議の中で、職業がん研究会の中からこの問題にきちんと取り組まなければいけないのではないかという声がありまして、そこから代表を派遣しようということです。私が参加したのは86年の討議ですけれども、ILOの討議は2年討議ですから、私は2年目の討議に参加しているのです。第1回目の85年の第一次討議の時は、多分、炭労の伊藤さんだったと思います、出席したのは。そうではなくて、むしろ職業がん研究会の中から出そうという形で派遣者を考えていて、最初は多分、合化労連の方から出そうといったのが、急に行けなくなったので「じゃ、伊藤君、行ってくれないか」という話で回ってきたというのが実際の話です。
当時の討議の中で日本政府はどのような主張をしていたかということですけれども、ここに4点ほど書きました。使用禁止には反対をする。作業環境測定の方法で日本的なものを認めさせる。この二つは成功しています。あとの二つ、解体は資格を持つ業者にさせるということには反対をする。環境汚染の防止に対しては反対をする。これが日本政府の対応だったわけです。考え方から言えば、アスベストは安全に使用すればいい。使用禁止は絶対反対。作業環境測定を場の管理という形で世界的に認めさせようということです。そして環境問題に関しては反対しようと。だから、アスベスト条約というのは労働問題のところを扱うのであって、環境問題ではないのだという形で主張展開をしていくわけです。
討議に参加いたしましたけれども、アスベストの使用における安全ということで、労働側としては使用禁止の方向性だけでも入れさせようではないかというところをかなり議論しました。けれども、むしろ発展途上国の方が、安全に管理するというところで条約を作ってくれと。せっかくアスベストを使えるような工業レベルまで発展してきたのに、ここでまた先進国から代替品を売りつけられるようなことでは困ると、産業の発展のためには、という意識がかなりありました。ですから、私は初めてそのような国際会議に出て、国際的な問題でアスベストを禁止していくという、段階的にどのような形でやっていくのかというプロセスを、代替品の促進も含めて対策をトータルに、総合的に考えなければいけないとむしろ参加して学んできたと思います。もう一つの問題は、この国際会議においては南北問題をクリアできるような手法を持っていないと国際的な基準は作ることができない。そのようなことが石綿条約の討議に参加して私が学んできたことです。
日本に帰ってきて、せっかく政府のお金でジュネーブまで行かせていただいたわけですから、この条約は批准をさせようと。批准させる運動を日本で作ろうとは考えておりました。総評は解散していくことでしたし、日本労働者安全センターの取り組み方が非常にある意味では一面的な運動しかできていなかったことを考えて、総評も解散するし、日本労働者安全センターも解散させていかなければいけないのだと私は考えておりましたので、それに代わる運動をどのように作っていくのかということであります。安全衛生問題を長期的、全国的に取り組める課題として、アスベストという問題に取り組む必要があるのではないかと。
もう一つは、やはりナショナルセンターが解散していくということですから、市民運動とも連携した視点での運動を、公害問題も含めてですけれども、どのように労働運動の中に作っていこうかということです。この辺は当時の自治労の顧問医でありました中桐先生と、かなり今後はどのようにしていくのかを考えました。安全センターが解散することでは、全国にある、地域的に作られている労災職業病センターなり、安全衛生センターなりの全国組織を作る必要があるのではないかということで、田尻先生にお願いをして全国組織を作ってくれという形で、総評の解散を迎えていくわけであります。
石綿対策全国連絡会議の活動についてです。次のスライドです。ここはいろいろなところでお話をしていますので簡単に話しますと、結局、例えば建設業協会に行って「何でアスベストを使うんだ」と言うと、「私どもは施工業者ですから、設計図に合う通りにやります」と。建築士協会に行って「何でそんなのを使うんだ」と言うと、「国の基準でそうなってるんです」と、火災防止のためには「ここにこのように使え」となっているのだと。国に行くと、「それはやっぱり火事の原因で」と。日本のように住宅がすぐ隣と接近しているようなところでは、やはりアスベストを使って防火対策をしなければいけないでしょうと。アメリカのように土地が広くて、隣と50メートルも100メートルも離れているようなところだったら関係ないかもしれないけれども、日本はどうしても必要でしょうというようなことです。でも、むしろ日本の火災の原因の一番はたばこなのです。たばこを使っている限りどうなのですか、という話になるわけです。そのようなところで行政との交渉をしていました。自動車工業会に行って、「日本から輸出している乗用車は全部ノン・アスベストなのに、何で国内向けの自動車にはアスベストを使ってるんだ」と言うと、「ちゃんと法律で認められているからです」と、「ヨーロッパは禁止されてるからです」と、見事にそう言うわけです。そのようなことで、どうしてもこれを禁止に持っていくためには、行政措置で法的にも禁止に持っていかなければいけないということがあります。
では、どのようにアスベスト規制を進めていくのかということですけれども、私が石綿対策全国連絡会議の2代目の事務局長になったのは第2回総会でなったわけです。2回総会でスウェーデンの労働組合の顧問医のペーター・ウェスターホルム博士を呼んだのです。この人はアスベストのILOの会議における労働側スポークスマンだった人です。やはり段階的、総合的な対策をやるにはスウェーデンから学ぶ必要があるのではないかということで呼びました。どのように規制していくかが分かったわけですけれども、それから石綿対策全国連絡会議の運営委員の会議は勉強会ばかりです。日本の法律の規制はどうなっているか。それから、もう一つ参考にしたのはアメリカの化学物質の規制のやり方。そのようなことをずっと勉強していて、1年以上勉強しました。それでやっと政策提言を作ったわけであります。輸入から製造、使用、解体、廃棄までの総合対策を作って、アスベスト対策の基本計画を立てて、そこに労働者や市民も参加して、代替品を作ってやっていこうではないかということです。
この政策提言を作る時に、自治労の中桐先生が言ったのは「こういう政策を言う時には、必要性と可能性をきちっと言わなければいけない」と。そうしないと通らない、夢物語でおしまいになってしまうと。可能性というのは、要するに放置していたらどうなるのか。必要性ですね。そのところを中桐先生に、「じゃあ、何人死ぬかデータ出してくださいよ」と私が言ったのです。そうしたら、日本にデータがなかったものですから、アメリカなどの統計を基にして「これくらい被害が出るだろう」と言って、対策が必要なのだと説明をする。そのあと、そのような研究をなさったのは村山先生で、「10万人死ぬぞ」と言ったら、やはりマスコミが飛びついてくることになるのですけれども、そのようなことを言って政策を提言していかなければいけないのではないか。それを基にして運動を始めました。
伊藤 ……制定運動ですけれども、当初は参議院の環境委員会から出そうと。一番弱いのは、逆に言うと日本の場合は、労働対策でいったら「安全に使ってますから」というところで逃げられてしまう可能性があるので、環境問題から攻めたらどうだろうか、ということで清水澄子先生にお願いをして、参議院の法制局との法案作りに入ったわけですけれども、全然らちが明かないのです。そもそもなぜ環境問題でやらなければいけないのか、というところから来るものですから。すったもんだとやっていて、説明しているのですけれども、参議院の法制局は全くやる気がなかったです。しょうがないので、衆議院の労働委員会で行こうという作戦に変えまして、五島正規先生にお願いをして「じゃ、もう法案を作っちゃえよ」と言って、古川景一弁護士の方に法案を作ってもらって、そこで衆議院の法制局と議論をする。すると、一応こちらから案を持っていっていますので、「ここまではちょっと」というレベルで交渉が進んでいって、規正法を作ることができました。それを92年に提出するわけですけれども、議員運営委員会で廃案になってしまうのです。議院運営委員会には法案を廃案する権利などないのです。どこの委員会に付託するかを決めなければいけない委員会が、当時は竹下内閣がいろいろとがたがた問題になっていたところですから、もうこのようなものは付託しないでおこうということで廃案になってしまう。
当時はアスベスト規制法を作ったら、いろいろなところからいろいろなリアクションが出てきます。石綿業界の大手はほとんど代替品を完成していたのです。石綿製品の製造はほんの数パーセントしかやっていない。むしろ扱っているのは中小の方が問題だったわけです。中小の石綿業者と随分懇談をしましたけれども、禁止されるのはいずれそうなっていく道筋なので、むしろ代替品に転換する時に、政府から金を取って転換した方がよほどいいのではないのかということで説得をしました。これにはかなり応じてくれました。代替品を製造しているところは、何しろ賛成です。表に出て言っているかどうかは別にして。商社は今までアスベストを輸入していた商社ですけれども、賛成なのです。石綿処理工業協会というものがありまして、アスベストの吹き付けなど、アスベスト製品からアスベストを除去するためのいろいろな製品を商社は輸入していたわけです。石綿処理工業協会という協会を作って、私どもを積極的に応援してくれました。そのようなことがある。
ところが、私が「まさか」と思ったのは、連合は反対したわけです。連合は賛成しなくても妨害はしないだろうというのが私の読みだったのですけれども、見事にだまされました。署名を持っていったのを拒否されるのは予想通りだったのですけれども、連合が反対した理由は、石綿産業で働く労働者の雇用がなくなるからだという論理なのです。この論理は今でも通用しているわけです。なぜ原発を反対しないのかというのは、原発で働く電力産業の労働者の雇用が奪われるから原発を維持推進していくのだ、というのが連合の今の立場ですから。連合の反対理由は労働者の雇用が守られないと、そこで安全にやればいいのだという考え方です。これはずっと一貫した連合の対応です。
次のページに、94年の法案に反対したことが細かく書いてあります。石綿スレート協会や労働組合のいろいろな代表が連合に申し入れをしてそうなって、社会党の当時の労働大臣だった浜本さんがそれを受け入れた。村山内閣だったので、「アスベスト規制法案を通してくれよ」と浜本大臣にも言ったことがありますけれども、浜本大臣が言ったのは、広島の原爆援護法を作る方が先で、「そっちをやらせてくれ」と言っていたのです。けれども、どうも裏で、この報道を見ると連合に言われてそれも社会党が飲んだと。連合の意向を飲んだというのが事実なのかなと思います。
伊藤 港湾の話に戻ります。港湾のところで、先ほどじん肺法が適用になったということですから、石綿も含めた安全荷役協定書を作ろうということで日本港運協会に申し入れをしました。労使専門委員会を作ってやろうではないかということになりました。もうILOで条約がありますし、そこのじん肺法もできましたので、作ることに関してはほとんど問題なく、私は全国港湾の役員ではなかったのですけれども、交渉担当は伊藤がやれと。業界側は港湾の災害防止協会に一任するから、そこと交渉してくれということです。災害防止協会というのは労働省の天下りのようなものですから、法的には大体「こうこうこうですね」と言うと「はい、そうですね」という形ですっと確認書はできました。いろいろとここに書いてあるような、連絡のやり方や荷姿をどうするか、作業のやり方などをやったわけですけれども、これによってどう変わったかを写真で皆さんにお見せしたいと思います。
これは77年7月に測定をした時の作業です。はしけから岸壁に積み出しているところです。左側の方は、はしけ内の作業。右の方は、ちょうど上の方にアスベストが吊られて降ろされようとしているところですけれども、そこの下で作業をしているというのがこの写真です。次のスライドをお願いします。
これはその時とはちょっと違うと思いますけれども、手かぎを使って作業をやっているところです。大体このアスベストが50㎏です、1袋。二重梱包されていますけれども、このような状態でした。その次のスライド。
これが80年の時の大阪港で、コンテナに積んできたアスベストをどう作業しているかということですけれども、ここでも手かぎを使っていました。次のスライドです。
協定を結んだあとどのように変えたかと言いますと、左側はコンテナから出すのですけれども、全部手作業でやっています。手かぎは使わない。ゴム手袋でやっています。それからマスクも付けていました。後ろの方にちょっと集じん装置が置いてあった。掃除機ですけれども、本当に真空性があるものかどうか分かりませんが、そのようなものを置いて作業をしているという写真です。右側の写真は、ビニールの二重梱包のアスベストを積み上げて、それをまたビニールで巻いて行う。このような作業で粉じんが飛ばないようにしているということで、実質的な職場環境の改善に来たというところです。
次のスライドですけれども、緊急特別健康診断の実施。クボタショック以降にいろいろな問題が起きてきた時に、過去に石綿作業をやった人の健康診断をやりますと、退職者をどうするかということです。基本的には企業責任。ですけれども、企業が潰れてしまったところはどうしますかと。それは国が肩代わりしましょうと。では、港湾で働いていた日雇労働者の石綿の健康診断は誰がやるのですかという話で、ここで政府に「国が責任を持ってやりなさい」という申し入れをしました。1年間ぐらい検討されましたけれども、「分かりました」ということで特別検診を実施することになります。
ここで、港湾の登録日雇港湾労働者というところをお話ししておきたいと思うのですけれども、職業安定所に登録をした人を優先的に港の作業に就けるという制度です。それまでは定期健康診断は日雇労働者にはありませんので、誰がやるのだということで、国に作業を申し入れて、交通費は地方自治体が持てなどと、いろいろなことを勝ち取ってきました。腰痛の認定に関して言いますと、非災害性の腰痛はどうするのだと。どこで発症したのか。一応、法的には発病した直前の事業者が責任を負うことになるのですが、転々としていた日雇労働者の場合には、「うちの企業では、法的にはそういうことになるけれども、休業3日分は出しませんよ」と。そして「メリット制からも外してください」と。そのようなことをやることによって、逆に認定を取りやすくなっていくのです。
日雇いからわれわれが運動を始めた理由は、もう一つ裏の話をすれば、日雇労働者には厚生年金がないからです。退職後はどうするのだということで、健康診断をやったら職業病の一つや二つ出てくる。それで休業補償も取って老後の生活を何とかさせようということで、日雇労働者の定年制を向こうから言われてきた時に、われわれが逆手に取って健康診断をやるようになった。これはある程度裏の話ですけれども、そのようなことがあるのです。
港湾の被災者との問題のところですけれども、クボタショックが起きてから、急に被災者救済の補償をやれと全国港湾が要求するわけです。私はまだその当時は全国港湾の役員ではなかったのですけれども、はっきり言いますと、この運動は企業救済の運動です。どのようなことかと言うと、急に被災者が起きて裁判闘争にでもなって、何千万かの金を1度に払わなければいけなくなった場合はどうするのだと、企業が潰れたら困るではないかというところからの発想がかなりあったと私は思います。ですから、あまり私は乗り気ではなかったのです、この運動は。けれども、春闘の賃金交渉に影響するように基金を積みますからということで、妥結の要素に持っていかれたりしてやってきたのです。
では、本当にこの基金をどう作るのだと。積み立てたところまではいいのですけれども、どのように使うのだという議論を2010年からやるようになります。業側は何を考えたかと言うと、労使とも被災者ですと、国がやった政策です、だから国を一緒に追及しましょうというのが使用者側の立場だったわけです、港湾の場合。アスベスト4者協議の場というものができまして、労働側が要求したというよりはむしろ業側が要請をしたということで、厚生省、国土交通省、港運協会、全国港湾による協議の場を作って2回ほどやりました。何をやったかと言いますと、結論的に言うと次のチラシを作っておしまいだったのです。
ただ、協議の場での議論はどのようなことかと言いますと、かなり厚生労働省は構えていまして、裁判に訴えられるのではないかということで、「今まで適切にやっておりました」と、「当時の知見に基づいて」と、それしか言わないわけです。ですから、私どももいろいろと実態を説明しましたけれども、責任論を論じるのではなくて対策を議論する場なのだと説明して、特に被災者の健康管理や退職後の問題などはどうするのだと。それから、基金についての労働側の考え方は、企業上積補償の考え方でやっていました。けれども港運協会側は、当然一企業や一産業ではできないので国のお金を入れろと。港湾でここまで基金を積み立てたのだから、あとは国の金を足せと。それだったら責任製品を作った業界などから金を取ってこいと、国が、というのが業側の言い方です。このようなところでいろいろな責任問題の話になります。
ここで一つ企業上積補償の問題で言いますと、一般の場合は業者は保険をかけています。企業損害責任保険を保険会社が作っています。ですから労災をできていた場合に、上積補償の分も保険会社からお金をもらってできるわけです。けれども、アスベストに関してはないわけです。アスベストに関しては保険がないのです。金融庁に行ったり損保協会に行ったり、いろいろやりました。でも当時は規制緩和されているのですから、どのような商品を作るかは、国が指導する問題ではなくて業界が勝手に決めることです、というのがお互いの話なのです。
ここに参考と書いておきました。そもそも保険で免責されている事項は何なのかと言うと、戦争は免責されています。地震も昔は免責されていました。けれども阪神大震災以降は、小田実さんが騒いで地震保険ができるようになったわけです。イラクに自衛隊を派遣した時には、非戦闘地域に派遣したわけですから、けがをしても免責はないはずなのです。どうしたかと言うと、小泉は保険会社に「イラク派遣用の特別の保険制度を作りなさい」と言ったわけです。「じゃあ、あんたらはそうやって国に言われて指導受けたら保険を作るんだったら、アスベスト保険作ればいいじゃないか」と業界と随分交渉したのですけれども、結果的にはだめでした。というところで、港湾の石綿被災者救済制度を作る時に、われわれの基本的な考え方は、企業上積補償を産業別に作っていくという考え方で交渉をやっていたわけですけれども、ここは断念をいたしました。そして業側の考え方、いわゆる企業救済のための制度を作ることを受け入れるという形にしたわけです。ここに救済制度の内容ということでいろいろ書いた。要するに、事業者救済のための制度であるということです。結論から言いますと、そのような制度を業側が作ることを組合は了承したことが労使交渉の結果になるわけです。制度の次、2を。ここは弁護士等も入れたという形で、何しろ支払ったことに対してその一部を業側が基金から補償することになりました。
その次ですけれども、全国港湾の立場はどのような立場なのかということで、上積補償協定という形ではなくて、「補償水準は裁判水準で結構です」と言いました。上積補償協定ですと死亡は4,000万ぐらいの金になるわけですけれども、裁判相場で言いますと先週のあれで2,500万ですか。大体その程度でお互いに暗黙の了解という形で、訴訟を訴えなくてもきちんと補償してもらえるという立場でやりましょうということで、この制度を作ったわけであります。次。
国の責任についての話ですけれども、当初は登録日雇港湾労働者を原告とする国に対する訴訟を準備することを考えていました。けれども、いろいろとやっていて最大の問題は屋外作業だったということです、港湾労働が。今も建設作業の場合でも、まだ屋外のところまでは勝ち取れていないということです。ここをどうするか。ここが突破できなかった。もう一つは、適切な原告がいなかった。そのような形で、この研究に関しては港湾国賠訴訟検討会を2年間くらいやったわけです。ここは言っていいかどうか分かりませんけれども、弁護団を中心に作業をしました。もう一つは、港湾石綿検証会議ということで勉強会をしました。最終的なところで訴訟はできないと判断したわけでありますけれども、一応、勉強の成果は『労働法律旬報』に私が文章を書くことにしました。被災者救済制度ができましたので、裁判で訴えることを損害賠償請求ではなくて調停という形でやるということで、裁判所に持ち出すというやり方で取っております。
終わりになります。組合の安全衛生活動というところですけれども、目的は認定闘争ではないのです。職場改善闘争です、私たちが目的として労働組合がやろうとしていることは。補償よりも予防なのです。予防をどのようにしていくかが労働組合活動である。よく「保護具をつけて作業をさせろ」という人がいるのですけれども、安全衛生法を読んでいただいても分かるように、保護具というのは備え付けておくものであって、突然、緊急事態が発生した時に使うもので、私たちが働く時には保護具はつけないで働くのが当たり前なのだと。これをすぐ「保護具をよこせ」「健康診断をやれ」「危険手当をよこせ」と、大体労働組合の運動はそうなのですけれども、それは間違いだと。そして、作業管理、環境管理、健康管理をどのように予防に役立てていくのか、総合的な対策を考えていかなければいけないのではないかということです。
ここで知る権利、参加する権利、拒否する権利という権利の問題を言っております。先ほどの労働契約法の考え方は、使用者が安全配慮をする義務があると書いてあるけれども、労働者の安全に働く権利がどこにも書いてないのです。そもそも日本の労働法はそのような考え方です。使用者が配慮しなければいけないことであって、労働者が権利として働くということにはなっていないわけです。この辺の問題を言うと、被災者から言われるわけです。「こんな権利を要求しないでくれ」と。「それだったらおまえ、逃げときゃよかったんじゃないか」と言われたら、「そうじゃない、逃げろと言わなかったおまえが悪いから賠償が取れるんだ」という考え方です。この辺をどのように権利・義務の関係を作っていったらいいのかと思っております。
伊藤 最後になりました。ノン・アスベスト社会の実現を。やはり単なる補償を取るということではなくて、予防のためには総合的な対策が必要だろうと。あと、アスベスト対策基本法というものをもう一回実現するための運動を考えていかないといけないのではないかと思っております。この間にコロナの中でいろいろと考えたのですけれども、感染症とはそもそも何なのだということです。日本の場合には労災か、それとも私病か。公傷病か私傷病か。ここで二分論になるわけです。労災保険法になるわけです。ここを止揚しないと、私は感染症の場合は誰が感染させた加害者なのか、誰が被害者なのかが分からない病気なのではないだろうかと。だから労災認定闘争をコロナでやることは私は賛成です。でも、この問題をどのように今後考えていったらいいのかというところに、われわれの運動は力点を置くべきではないだろうかと思います。
がんの問題は、職業がんから出発してずっとこの運動をやっていましたけれども、まだ解決していません。退職後はどうなるのか。進行性の病気をどのように見ていくのか。この間に病気休暇のような形で、病気を持った人が働くにはどうしたらいいのかを考える時代に今、なったのではないかと私は思っています。そのような意味では、労災認定闘争をしなくても済むような社会をどうやって作っていくのか、ということが私の目標でしたし、医療保険は一元化していく必要があるのではないかと。だからメリット制を廃止することによって使用者責任をなくしていこうということではなくて、労災保険は労働者無拠出で使用者が出している金なのだから、金の出し方は勝手に考えろというのが私の考え方です。
さっき言ったように日雇いの人、あるいは公務員や副業を持つ人がこれから増えてくるだろうという中で、誰が使用者責任を単独で負い切れるのかといったら、負い切れないだろうなと思います。だからメリット制の問題はある程度免除しながら、それでいて労働者がきちんと医療を受けられる。働けない分の生活補償、休業補償を取れるような制度を私どもは目指すべきなのではないだろうかと思っておりまして、そのような意味で労災は将来的には医療保険を一元化して、財政の出し方はそれぞれに考えてくれと。自動車損害保険なのか、労災保険なのか。労災保険の中でもメリット制をどのように生かしていくのかは、それなりに業者が考えてくれればいいことなのではないかと。私どもが要求するものは、安全に働ける、病気を持ちながらでも働ける職場であって、きちんと治療をする時には、十分な治療と休業補償が付くことができる。そのような社会を目指して労働運動をやっていかなければいけないのではないかと考えております。
最後にもう一つ。「若い人へ」ということがありました。若い人に伝えてくれということですけれども、昔、このじん肺の問題でスズキ先生などとも一緒に地方を回った。いろいろな現場を回って、被災者の話を聞いて、その時に学生が参加してこのような発言をしました。「そういうひどい病気に遭った人たちの実態をもっと暴くために、私は弁護士になりたい」と言った学生がいました。私はすぐさま「それは間違いだ」と、「そのようなものを出さないためにはどうしたらいいか」と、「医者になりなさい」とその学生に言いました。ところが、これほどじん肺の問題を長くやってきますと、今日、私の隣に座っている村山先生は都市工学ですよね、専門は。
村山 社会工学。
伊藤 社会工学というのですか。『アスベスト対策をどうするか』という本を作る時の研究会に、東工大の原科先生が「うちの大学院で、アスベストに興味を持っている人がいますから」と言って連れてきたのが村山先生だったのです。その時に初めてお会いしました。もう、ですから30年以上前の話ですけれども、これだけアスベスト問題は社会全体に広まっているところですから、弁護士の問題あるいはお医者さんの問題しかり、公衆衛生学的な観点ということだけではなくて、もっと広いところから世の中を見る必要があるのではないかとつくづく感じております。そのような意味で、若い人がどのように社会を作っていくのか、あるいは医療保障制度をどう作っていくのかを考えながら、運動を担っていっていただければと思っています。以上です。
村山 はい……。