Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
収録日時: 2022年8月31日(水)
厚生労働省に対し石綿ばく露の実態を示すことで作成された基礎資料、厚生労働省・環境省・国土交通省の三省共管で発足した石綿含有建材調査者制度の基礎、いずれも落合氏の尽力があってこそ成し得たものです。
落合氏の子どもから大学時代、石綿製造企業と石綿除去業の勤務時代を経て、厚生労働省ならびに国土交通省委員となられ、調査者協会の顧問である現在も、建設・除去現場の問題点を見つめ、現場の視点を忘れない「落合節」をぜひお聞きください。
これまでのご経験を記録に残すとともに、問題解決に向けて今後取り組むべき課題などについてもご提案いただきます。)
名取 本講演のタイトルは、「建設・除去現場の長年の経験から――公共に尽くす気持ちを忘れずに――」ということで、一般社団法人建築物石綿含有建材調査者協会の顧問、落合伸行さんにお願いしています。
2005年のクボタショックの直後ですが、厚生労働省は急増する石綿健康被害の電話相談に対応できずに、石綿ばく露の可能性がある全作業の把握と、石綿ばく露があるかの有無を判断するマニュアルを緊急に作ることになりました。その際に厚生労働省に委員として推薦されたのが、落合さんと私(名取)になります。
このマニュアルは、他の委員や厚労省の事務局との作業によりまして、2006年に、「石綿ばく露作業把握のための手引」という形で、1センチぐらい厚さの冊子に結実していきます。この手引きは全労働基準監督署に置かれて、担当官は全部これを見て、これは石綿作業ありと判断することになりました。この写真のほとんどを提供しているのは、落合伸行さんです。
厚生労働省の作業が一つ終わった後で、次は2008年ですが、国土交通省・社会資本整備審議会・アスベスト対策部会においても、建材の調査の方法はどうなっているという課題が起きて、アスベスト対策WGが開始されて落合さんは最初から委員として参画されました。
当時の日本では、ゼネコン、除去業者、解体業者各社の建築物の石綿含有調査は全くばらばらで、共通した基準や規格も書式もない中で建築物の石綿含有調査が行われていました。他の国は、国で統一した規格で建築物の石綿含有調査やっています。そのような中で、建設業、除去業、調査業、コンサルタント、自治体の建築営繕課の方々のご参加いただき現在の建築物石綿含有建材調査者テキストの元を作るまでに6、7人の委員で約5年間かかりました。このテキストにも、落合さんの写真、もしくは知恵が色濃く反映されています。
その後、落合さんは、煙突用石綿断熱材の専門家でもありますので、当センターから出ている書籍『建物の煙突用石綿断熱材』(アットワークス、2013年)の主著者として一生懸命に執筆されました。そして、その後になってようやく調査者の数が一定数になったこともありまして、2016年4月に、一般社団法人建築物石綿含有建材調査者協会(ASA)が設立されて以降は理事、後に顧問として、現在も石綿含有建材調査適正化に取り組まれています。
名取 それでは、落合さんに、子供時代、大学時代、その後の建材の現場にいた時代、公的な委員、ASAの順番で今日はお話ししていただきますので、よろしくお願いします。
落合 落合です。よろしくお願いします。 私は、昭和22年2月に、疎開先であった、茨城県大洗で生まれました。生まれてすぐに、実家のある、東京虎ノ門の家に帰ってきました。文部省の斜め前の横丁ですが、子供時代の遊び場としては、日比谷公園に5、6分、愛宕山に数分で行かれるような場所でしたので、あそこにカブトがいる、あそこはザリガニがいるなど、よく知っていました。つまり、都会っ子ではなくて、田舎の子と全く変わりありません。特に周りはバラックばかりでしたが、わが家はその中でも特に貧乏な家といいますか、子供心にも、俺のうちが一番貧乏だなと思っていました。
というのは、わが家はブリキ屋でした。これは、家の前の路地で、おやじがハンダ付けをしています。右側にハンダ付けの七輪がありますが、これで炭をおこして、ハンダ付けをしている図です。
これは、石綿の布です。毛布のようなものです。わが家には、これがありました。一番安っぽい炭を使うので、炭がパチパチ跳ねていました。床に落ちると燃えて焦げてしまうところですが、これは魔法の布で、いくら焦げても、さらさらと手をはたくとまた真っ白になる、そのような石綿布がうちにありました。石綿の毛布もありました。ハンダゴテをちょっと置いておくものです。
これは、うちの横丁、ここの横丁を出た右側が、文部省。この表通りに、石綿屋と言ったらいいのか、パッキン屋、ゴム屋と言うのか、そのようなものがありました。だから私は、アスベストを子供時代から知っていました。このかわいい右側が私で、左が兄貴です。この写真で言いたいことは、まずわが家には大人になるまでカメラがなかったから、これは誰が撮ったのだろうと疑問です。これは、実は、おやじが作った、ブリキのおみこしです。この頃、昭和25、26年の町会には樽みこしがありました。お酒を入れている樽が、おみこしになっていました。だけれども、わが町会だけは、ブリキでできていました。これをおやじが作ったということが自慢ですが、そのおやじは道楽で身上を潰しました。
したがって、私はずっと貧乏なまま来ました。いきなり学校が出てきますが、小学校の高学年から中学の頃は、家に帰ると家の手伝いをさせられますので、家に帰りたくありませんでした。私は、高校に入ったときから、職業を決めていました。絶対にブリキ屋だけにはなりたくないと決めていました。大学に行こうと、昼間は会社に入って、夜は大学という生活を送りました。高校時代はアルバイトばかりでした。アルバイトは、家に帰らなくて済むことと、家に帰ると家の手伝いをさせられるということがあって、バイトばかりしていました。バイト代で、大学に行こうと決めていました。高1のときから決めていました。
おやじは、私が大学にまで入ったことを知らないでしょう。入学した大学はお茶の水にありましたが、昭和42・43年、学校の中も荒れていましたし、社会も荒れていました。世界も荒れていましたが、それはベトナム戦争でした。この頃に培われたものですが、私は、信条として、権力やナンバーワンなど、強いものが嫌いです。まだ、「巨人・大鵬・卵焼き」という、前の前あたりの時代ですが、強いものに反感を覚える、ひねくれた性格でした。大学でも、私が取ったゼミは、若い先生で、6人しかいない、小さなゼミでした。先生が、マル経の先生――マル経とはマルクス経済学のことです――だったもので、よく、ベトナム反戦のデモ、特にそれからだんだん激しくなっていって、王子野戦病院闘争や学園紛争など、いろいろ激しくなってきました。だけれども、友達や先生とは、授業が終わってから一緒に酒を飲んだり、若い女の子のお尻を追っかけたり、マージャンをやったり、それなりの学生生活を楽しんでいました。マル経のような話になると、みんな、私より頭がいいな、偉いな、すごいなと思っていました。啄木ではありませんが、「友が皆、われより偉く見える日は…」という思いがしました。今でも、政治のことは分かりません。そのように、強いものに反感する、「判官びいき」というのでしょうか、「ほうがんびいき」というのでしょうか、強いものが嫌いなタイプでした。
昭和40年に、石綿製造企業に入社しました。昭和44年に夜学を卒業、つまり4年間は昼と夜のダブルヘッダーです。先ほども言いましたように、私はこの4年間非常に濃い時間を送ったなと、胸を張って言えます。恋もしたし、酒も飲んだし、学生運動もしたし、そして社会人でもありました。何よりも、会社に入ると給料をもらえるという、夢のような感じを受けました。最初に入った部署は吹付石綿課、そのような名前ではなく、建材一課、二課、三課というような名前ですが、吹付石綿課に配属されました。とても大きな課で、10数人いて、これにさらに工事部隊が何人もいるわけですから、非常に大きな所帯でした。私はそこで、新人、新入社員ですから、「落合、あそこへ行け」「ここへ行け」「見積書持ってってくれ」「あそこに集金に行ってくれ」などと、朝、会社に行ってみないと、私はその日どこに行くか分からないような状況でした。使い走りをさせられていました。来年になれば新入社員が入ってくると思っていましたが、私の後に新入社員が入ってこないから、私はいつまでも新入社員のような感じでした。工事をやっていますから、忙しいときは新人が工事部隊に呼ばれ手伝いをするのです。後から写真をお見せしますが、現場によく狩り出されました。
私は頭が悪いから、現場に何回も行かないと、雰囲気がつかめないのです。写真だけ何枚見ても、その写真の後ろにある、あそこの壁はできているのだろうか、床はどうなっているのかなどと、要するに、現場のことが気になってしまうのです。格好良い言葉で言うと現場第一主義と言うのでしょうが、頭が悪いせいです。
もう一つは、若い頃から思っていましたが、工事現場のコンクリートの匂いと言うのですか、かび臭いと言ったらいいのか、セメントの匂い、あれが案外性に合っていたのです。あの匂いが好きでした。
それから、下に「メモ魔でカメラ小僧」と書いてありますが、右側に何冊かの手帳があります。50冊ぐらいあります。これ以外にまだ、もっと大きい、ビジネスダイアリーがあります。なぜこのようなことを書いたかというと、後年のことですが「会社がアスベスト除去工事をやるようになったときに、君たちがやってきた現場のリストを作りたいから、つまり、アスベストの現場が分かっているから、出してくれ」ということで、一生懸命、1時間2時間、もっとかかって、書いた覚えがあります。結局私しか、リストにしていなかったということです。リストといっても、現場名と、ゼネコンの名前、面積や受注金額程度です。このようなメモが後々、役に立っていました。
もう一つ、ここに「カメラ小僧」と書いてあります。わが家には大人になるまでカメラなどありませんでした。会社員になって給料をもらったときに、絶対にカメラが欲しいと思って、数回ボーナスをためて、昭和42年の暮れかな、アサヒペンタックスを買いました。うれしかったです。カメラでたくさん写真を撮りました。例えばモデル撮影会とか、自分の現場の写真もをたくさん撮りました。この現場の写真が後々役に立つとは思わなかったけれども、そのようなことをしていました。
あと私は、実は、初任給の給与袋から、最後の退職したときの給与明細まで、みんな取ってあります。もう1回もらえるわけではないけれども、捨てられないといいますか、自分が生きてきた証が欲しかったのです。昭和40年に最初に入った会社の給料は16,800円と、はっきり覚えています。
落合 石綿の有害性についてですが、ここはとても大切です。確かに昭和40年に入社した時の教育で、石綿ということではなく、“じん肺”の講義はあった。なんとなく、吹付課にいると、「吹付けはやばいよな」「あいつ、死んだよな」「あいつ、入院したよな」「あいつ、肺に水がたまったよな」ということがありました。うちの課では、うちの課という言い方でいいのかな、「金はたまらないけど、水はたまった」という表現が結構、ブラックジョークですが、ありました。うすうす、石綿は害なのだろうということは、なんとなく分かっていました。特に青石綿が悪いと評判でした。私は、この青石綿を売り込むのが好きでした。しなやかで、クレームがなかったからです。後々、これが自己嫌悪に陥るとは思いもしませんでした。後年知ったことですが、石綿を吸引してから30年40年で石綿関連疾患が(中皮腫や肺がんなどが:編集者注)発症するとものの本にたくさん書いてありますが、あれはうそです。もっと短い期間で発症した人を実際私は知っています(※編集者注:30~40年後に発症というのは中皮腫の場合の一般的傾向としての話で、石綿肺ならばく露から10年以内の短期に発症する場合も当然あり得る。)
会社の受付が2階にあって、1階から2階に上がる階段を、私と同い年の人間が、手すりで息苦しそうに上がってくるところを2回も見たことがあります。友達です。もう60年も前の話で、今も自分の発したこの言葉に悩みます。「おまえ、いいなあ。給料日だけ会社来るのか。」非常に冷たい、私の言葉です。60年たった今でも覚えています。泥地に顔をすりつけてでも謝りたいと思っています。彼は、若くして死んでしまいました。つまり、アスベストは、本当に怖い、人によって全然重さが違うということを言いたかったのです。もうじき私も向こうでしょうから、正式に謝りに行きます。
これは、吹付けの綿です。ここに石綿が入っていたり、あるいはロックウールが入っていたり、機械そのものは全然変わっていません。今も使えます。綿入れは、セメント袋を破って、ここに潮干狩りの熊手のような道具を使って少しずつ入れます。これは誰でもできる簡易な仕事だから、私がよく利用されていました。この袋を開けて、綿を機械の中に放り込むとここのホースから出てきます。
これが吹付けホースです。このホースの真ん中に、よくほぐれたアスベストまたはロックウールが通ってきます。これを拡大した部分が、これです。真ん中からロックウールやアスベストが出て、周りの水の圧力だけで付着しています。
これは、学校の教室です。文部省から、学校の標準仕様で、天井にはこのようなものを使いなさいという仕様書がありました。吹付石綿が使われています。生徒の誰かが天井に紙飛行機をぱっとやったら、落ちてこなくて、刺さりました。これの厚みはだいたい10ミリと決まっていますから、これはロックウールではあり得ません。しなやかだから、アスベストでないとあり得ません。ロックウールだったら、脱落してしまいます、ということを言いたかった写真です。
これにはもう一つ、言いたいことがあります。照明器具です。吹き付けた後から、電気屋が取り付けています。この電気屋は、吹付工事の職人よりもさらに近場で、口を開けて、上を見ながら、アスベストをほじくって、取り付けています。かわいそうに、非常に濃いアスベストを吸っているでしょう。
これは、違う現場の、学校の廊下です。誰かがボールを廊下の天井にぶつけて、へこみました。野球のボールだったら、縫い目がきちんと出ます。おもしろがって、みんながやっています。月のクレーター状になっています。学校の廊下ですから、壁にドンだったら恋愛感情が出たかもしれないけれども、天井にドンは、アスベストが出てきてしまいます。
これは、石綿の付着力をテストしています。アメリカのバッテル研究所法といいますが、これをできるのは、多分、私しかいないと思います。もしご要望があれば、言ってください。1個250グラム、3個で750グラム、これがロックウールだったら1個もつきません。3個ついているから750グラム、吹付石綿は付着力が良いです。
これは岩綿吹付です。非常に珍しい写真です。柱が倒れたのではなくて、建物の斜めに、建物を補強するために、筋交いが入っています。これほど大きいブレスですから、耐火1時間で、厚みが35ミリあります。この現場の除去工事は、小指1本でできてしまいます。
これを見てください。天井裏の屋根裏を見た写真です。折板屋根に吹付けがあって、それが脱落しています。自然脱落です。ロックウール吹付けは付着力がないから折板屋根にやりません。もうできないと断ってしまいます。これは折板屋根ですから、夏場の暑いときは何センチも伸びてしまいます。それから、台風が通過すれば、気圧差でどんどん脱落してしまいます。
これは、人為的に、ボイラー室の壁が傷つけられています。雪国だったら、ここにスコップが立てかけてあったりします。このようなボイラー室はボイラーマンの牙城ですが、洗濯物を干したりしないほうがいい、傷つけないほうがいいということです。これは、床に転がっている配管です。機械室は歩きづらいから、このような配管の上を乗っていきます。乗るたびに、ここから珪藻土の保温材が飛び散っています。それは肉眼でも分かります。
これとこれは同じですが、地震の後ではありません。一度耐火被覆板、これはレベル2ですが、これが落ち始めるともう、その建物はエンドレスで、地震も何もなくても落ちるということを言っています。石綿粉塵を吸う以前の話で、これが頭に当たったら、けがをします。
名取 昭和50年以降、吹付け石綿の高濃度のもの、数十パーセント含有のものは減らそうという話になって、吹付け石綿は5%未満になりました。ロックウールの量が増えた時代ですが、その頃の製品の切り替えや、どのような状況だったかという話を教えていただけますか。
落合 ある年のある月から急に変わるということはあり得ません。私は転勤が多かったので、そのときは群馬県の前橋営業所に勤務していました。ここには倉庫がありました。倉庫の在庫がはけるまで、次の材料は入れません。だから、それほど急に変わるものではありません。2か月と書いてありますが、実際は、石綿の種類により例えば2年間、在庫があったりしています。だから、私のような、出先の者には、何年から急に変わったということはあり得ません。
もう一つは、アスベストオンリーの青、白、茶を1袋ずつ、補修のために前任者が私に置き土産で残してくれました。私もまた使った覚えがありませんが、後任の者に渡しました。これはとても大切ですが、昭和50年頃に会社は吹付材が石綿からロックウールに変わったと言っています。私は、ずっとそのように思っていました。
ロックウールの中に少しアスベストが入っていることなど、5%以下など、全然知りませんでした。カタログにも、「ロックウールに変わりました」と書いてあるだけです。だから、数%入っていることは、私は全然知りませんでした。そのようなことで、ある日を境に、全部ガラガラポンと変わったということではありません。私は特にこういう情報に疎かったので、突然変わったと思っていません。
昭和50年という年、これはキーワードだと思いますが、安全衛生教育や、吹付けの一人親方です。まず、吹付の一人親方を説明すると綿入れとホースマン、ガンマンと言います。先ほどの写真はまともな会社ですが、綿入れを奥さんがやっていて、ガンマンをお父さんがやっている。要するに夫婦でやっているような吹付け業者は、全国にざらにいたわけです。だからこれは、一人親方なのです。当社では、建材会議の後に、月1回、安全衛生協議会が開かれていました。私は、何だかんだでサボっていました。これらを統括してロックウール工業会、私は後からこの会のメンバーになるのですが、そちらがやってくれていました。(*編者注: 法的には、アスベスト教育の実施の責任は国(旧・労働省)に、また【警告表示責任と同様、】石綿関連諸企業などにあると思います。)
特に安全衛生教育は「耳にタコ」でして、マスクさえやっていればいいというところがありましたが、現実はもう少し違います。
名取 すみません。このときには、アスベストが数%ぐらい入っているという話は、一人親方にも建設業の方にも徹底されていなくて、社員ともども、ゼロになったという認識の方が多かったのですね。
落合 全く、私は、カタログにも書いていないし、ゼロになった、材料は変わったと言われました。
名取 分かりました。社員の方も含めて、そのように思ったということですね。ありがとうございます。
名取 これ(特化則作業主任者証)を出していただいて、私たちが思ったことは、1975年からもう本当にアスベストは危ないからということで評価するのだったら、一番先に、落合さんのような人に、特化則の作業主任者資格を取らせるはずです。それが、昭和53年、3年後になって資格を取らせている。レベル1、もしくはレベル2のような製品を売ったり扱う社員であるのに、なぜ3年も遅く資格を取得させたのかと疑問ですが、そこはどうでしょうか。
落合 会社としては、特化則の資格は、耐火被覆課、要するに、吹付課特有のものだと理解していました。私は、このときはまだ前橋の前で、新製品を担当していたときで、吹付課ではなくなったから、取る必要がありませんでした。ただ、昭和52年に前橋営業所に転勤になって、営業所では全製品の担当になります。耐火被覆も担当になります。特に耐火被覆はメインの商品だから、「落合、おまえ、特化則作業主任者を取れ」と言われて、取りました。
落合 昭和42年、煙突の断熱材の販売を担当しました。この時点ではまだ新製品です。でも正確に言うと、昭和39年、この3年前に、煙突ではありませんが、違う目的で使われ始めていました。昭和42年に、カタログもなかったので、カタログ作りを始めました。2、3年間は売れませんでした。建材会議で発表するのが嫌で仕方がありませんでした。ただ、建築材料の物の売り方は、このときに勉強しました。まず、何でもいいから、ゼネコンの所長に、「こういうものができました。使ってください」と、無償で提供するのです。現場を写真に撮らせてもらいます。それから、設計事務所にPR、ゼネコンにPRです。でも、最終の目標は、建築材料の全メーカーがそうでしょうけれども、建設省大臣官房標準仕様書に(商品名は載らないが該当する製品として)掲載されることです。そうすると、左うちわの右扇風機のような感じで、売れ始めます。この煙突断熱材も、昭和44、45年ぐらいから爆発的に売れたと記憶しています。
名取 この点については、2013年に私たち中皮腫・じん肺・アスベストセンター等の編著『建物の煙突用石綿断熱材』(アットワークス、2013年)をご参照ください。
落合 煙突は、先ほどの本を見ていただければ分かります。ただ、煙突の調査は怖いです。簡単に上まで登っていかれません。
煙突の調査で見落としている人がいるのではないかということで、わざわざこれを入れました。この下には、煙突断熱材が入っています。実は、このトップの部分は、耐酸耐熱モルタルといって、その中にもアスベストが含有している可能性があります。含有していてもレベル3のモルタルですから、飛び散るわけがありません。どうせこの煙突の材料を除去するのなら、この耐酸耐熱モルタル、ジルカライトモルタルと言いますが、「ジルカライト」には「被せる」という意味がありますが、これも念のため除去しておいてください。煙突の点検口を開けると、ぼそっと中に崩れている煙突材が、扉を開けると飛び出してくることがあり危険です。今では「点検口」と言っていますが、私たちがやっていたときは、「灰出し口」と言っていました。石炭の燃焼時代の言葉で、石炭のガラを取り出すためのもので、それで灰出し口です。 煙突は、RCのコンクリートの煙突だけではなくて、超高層ビルにも煙突はあります。このような感じです。
超高層ビル。あらかじめ工場でワンフロア分づつ製作し、現場に搬入、これを上につり上げて、所定の場所で止めます。当然、超高層ビルは柔構造ですから、建物の揺れなどに対応するルーズ孔という工法などでやっていました。
ビルの屋上にある煙突です。これが時々、煙突の中が詰まってしまい、爆発することがあります。全国各地でこのようなことが起こります。バックファイヤーです。煙突上部の断熱材がなくなってしまいます。たまたま取り扱ったものが、これです。
これは全然違う現場で、いきなり、違法解体をやっています。材料が落ちています。これは、ちょうど10年前の私です。 昭和48年(1973年)に折板屋根用断熱材の担当となり、これもカタログ作りから行いました。
これは、石綿でできた毛布です。毛布のようなものを、折板屋根に貼っています。これは90メートルの屋根ですが、百何十メートルでも、何メートルでもできます。手貼りと機械貼りとがあり、これは、工場の屋根の高さまで足場を造って、折り曲がったときにはもう断熱材が貼られているという機械貼りです。工場や倉庫の屋根は、耐火30分を要求されていますから、国交省が、このような材料を使いなさいと認定したのです。
落合 ここです。この頃に、何とかアスベスト、何とか石綿というような会社が、どんどん(アスベストや石綿の文字の入らない)社名に変えていきました。なぜ変えるのかと思っていましたが、会社のトップは、この数年ぐらい前から、アスベストが問題だと分かっていたのです。私のような下々は分かりませんでした。平成6年には、私は千葉支店から呼ばれて、本社の石綿除去グループになりました。このときに、「日本石綿製品工業会」に委員として入りました。アスベスト除去をやっているときに、嫌な言葉で、「マッチ・ポンプ」や「グリコ」と言われました。「マッチポンプ」というのは、最初にマッチで放火しておいて、後から消防ポンプ車が火を消すような意味ですが、一方でアスベストを吹いて使っていて、その後にそれを除去するのかということです。あるいは、「グリコ」は「一粒で二度おいしい」という有名な意味ですが、吹いてもうけて、除去してもうけるのか、というようなことも言われたことがあります。
平成7年の阪神・淡路大震災の際も、その数ヶ月後に、建設省依頼の視察団で被災地を訪問しました。斜めになっているようなビルの中に入っていきました。その後日本石綿協会にも私は「吹付け部会委員」として入りました。この頃にはもうアスベストが社会問題になっていまして、この協会は立場が揺らぎ始めていました。何しろ私はこのメンバーでしたから、誰かから何かを言われたら、「アスベストは、管理して使用すれば安全」とか、口から出る言葉は、「石綿は、天からの最良の贈り物」などという言い方をしていましたが、実際の腹の中では、ほぼ全員が、違うこと、逆のことを思っていたと思います。
「クボタショック」という嫌な言葉がありますが、そのことは後から話すことにして、日本石綿協会が、クボタショックがニュースになるまでは、「Loveアスベスト」でした。それがいきなり、ある日を境に、「アンチ・アスベスト」になっていきました。8月15日の終戦の翌日のようなものです。8月16日に、ころっと変わってしまいました。世の中の組織は、それほど簡単に変わるのかと思いました。
私にとってショックなことは、昭和62年の学校アスベストのニュースです。当時の文部省が、学校の教室にはアスベストを使えと言っていました。当時、吹付の除去現場を見学に行った時の話です。これは、35年前の、除去工事の写真です。全面体のフルフェイスで、なおかつエアラインです。今どき、このような完全な装備で除去をやっている会社は1社もありません。
除去作業の現場は、かつて私が吹付工事を扱った学校でした。最初に見に行った時、現場までの道のりや校門に松が生えていて、二宮金次郎の碑があり、思い出して驚きました。この時に、俺はこれほど社会に悪いことをしていたのかと思いました。あの頃、1平米1,000円ぐらいで契約したはずなのに、アスベストの除去工事では、なんと平米30,000円というのです。これには驚きました。
落合 平成15年に、私は石綿除去業の会社に転職しました。このときはリストラ時代で、何回かのリストラでみんな仲間が去ってしまって、会社からいなくなって、寂しさもありました。ただ、私は、教育ローンや家のローンも残っていましたから、会社を辞められませんでした。勇気がありませんでした。ただ、何年か後に除去業者から誘いがあって、その会社に入りました。ただ「除去」という言葉に、抵抗感がありました。後ろ向きの仕事といいますか、何もなくなってしまう仕事です。個人的には建築が好きなので、ものを造る、後々に残るクリエイティブな仕事をしたかったのに、除去というのはマイナスのイメージがありました。
ただ、やっている途中で、アスベストの除去業は、案外おもしろい部分もありました。内装工事など、いろいろな建築工事をやりましたが、石綿除去作業のレイアウトは、どこに何の機械を配置して、誰をここに投入してというようなプランニングが重要であり、これほどおもしろい仕事は、建築では考えられません。これはもしかしたら天職ではないかと思いました。神様から、「おまえはこの仕事をやれ」と言われているような気がしました。若干ですが、社会にアスベスト現場を広めてしまった罪滅ぼしの意味もあります。だから俺の仕事人生は、プラスマイナスゼロのような気がします。モノを作って社会に貢献するというようなことでもなく、何か意味があったのかという気がします。今はもうこの年ですから、もう何もできません。ただ、誰かから質問があったら、今日もありましたが、丁寧に答えてあげたいということが、私の使命だと思っています。
クボタショックです。アスベスト工場だったら被害はあるだろうと思っていました。しかし、周辺住民までもが発症していることが、正直に言うと、ショックでした。
「行政の巡視能力の強化を求む」とスライドに書きました。労働基準監督署の技官は、現場に来ると、10分、20分現場にいます。「何月何日何時に行きます」と言うと、われわれが彼らを出迎えます。そして彼らが巡視します。あらかじめ私たちが段取りをつけていた現場を回るのです。実際には、見てほしくないところはいくらでも小細工しようと思えばできます。つまり、労働基準監督官よりも、われわれ石綿作業主任者のほうが、格段に現場も知っているし、どこが良い、どこが悪いと分かっています。つまり現場を預かる石綿作業主任者の強い倫理観と余裕のある受注金額、余裕のある工期が必要なのです。技官の増員と能力アップは重要です。
基本的にGメン制度を望みます。何月何日に行くなどと言わないで、いきなり現場に行って現場を巡視するような制度がいいなと思いました。イギリスには、アスベストの状況を監視・監督する官庁があると聞きました。日本の労基署の職員たちは、単に、作業が適正かどうかです。分からないことがあって、私は聞きに行ったことがあります。どうしてもできないような除去工事の現場があって、「どうしたらいいですか」と聞きに行ったら、「適切に対応してください」と言うだけです。「適切に」としか言いません。これは相談しに行くだけ無駄です。だから、「適切に」とは、「適当に」と同じ意味合いなのではと思っています。
多くの問題はアスベストの除去業者側にあります。対象物を除去、無くしてしまう仕事だから、やりようによっては何とでもなります。工期を1か月もらっても半分でやれと言ったら、できてしまいます。そこに問題があると思います。手抜き工事や隠蔽などは確信犯、犯罪行為です。
一方、それよりも問題なのは、そもそも建物の事前調査のときに石綿含有建材を、調査員の能力不足、眼力、知識の無さで見落としてしまうことです。それによって建物の解体工事が行われてしまうのです。
落合 2006年、厚労省の委員だった時代があります。名取先生はじめ、労災病院の先生、産業医、東京労働安全衛生センターなどと一緒に委員になりました。
いろいろな職業の方が石綿関連疾患になっていると聞いて驚きました。例えば、歯科技工士、家具屋さんの人たちがなぜアスベストに関係しているのかということです。そのような人たちのために、アスベスト関連の仕事現場の写真集を作成しました。写真集で、「あなたは、このような仕事をしていましたか」、これが何十ページにもわたっています。電気工事の人や石屋さんなどで石綿関連疾患にかかった人にこれを見せて、「そうです」とか似たような作業をしてました、と言うと、労災認定の参考になりました。
私は石綿製造会社にいたので個人的には加害者意識というか罪悪感があったのですが、先ほどの本が、私がたまたま行った呼吸器科の病院の診察室のデスクに挟まれていました。それを見た時、私は素直にうれしかったという思いと、これで少し社会に恩返しができたかなという、思いがありました。
もう一つは、名取先生に紹介されて、国土交通省社会資本整備審議会アスベストワーキンググループの委員をやりました。5年間もやった長い会でした。厚労省の担当者や、国交省の若い担当者は、熱意と誠意があって頭が良くて、やる気がありました。この人たちを見たら、3年先、5年先に良い法律ができるなと、正直に言うと、期待に胸が膨らんでいました。ところが、その人たちは、2、3年で替わっていってしまいます。せっかく覚えたアスベストの知識がなくなってしまいます。そしてまた違う人が来ます。少しづつは良くなっていくのでしょうが、劇的に石綿問題が解決するなという感じはしませんでした。 石綿問題は緊急に法整備しなければならない、さしせまった問題なのにどこか対岸の火事見物のような気がしました。
これは今から10年ぐらい前に作ったテキストで、見たことありますよね。これは私です。それを言いたかったのです。お母ちゃんが撮ってくれました。「遺影にしましょうか」と言われています。 現場では天井などいろいろなところをめくっています。この左手です。 国交省で、調査報告書の形を作りました。テキストで言うと、第3章。何もないところから、本当にやりました。わが人生で、厚労省と国交省のワーキングの委員のときが、一番働いたでしょうね。昼間は会社の仕事をやって、帰宅後に真夜中までは、このような仕事を毎日やっていました。
落合 建築物石綿含有建材調査者協会(ASA)の設立の一メンバーになりました。石綿含有建材を見わける目を養おう、本当に現場調査を任せられる人が必要など、エキスパートをつくりたかったのです。この協会には社会的使命があると思います。
でも、この1年、2年、このような(設立趣意に適うような)特定のメンバーではなく、国は一般調査者を10万人、20万人つくりたいのだそうです。2日間の講習でテストに合格すれば、誰でも取れるという仕組みです。
私はこの(一般調査者の)制度には反対です。このような現場実習も無いような、含有建材を見分けられないような人に資格を付与して、明日からの現場に即応させるような制度は逆に危険だと思っています。
私は60年ちかくアスベストに従事していますが、アスベストに関しては産廃や、医学、法律そのほか多岐にわたりとても難しいです。とても2日間で分かるような講習ではないと思っています。ただし、建築関係の方が総花的なカリキュラムですが、少しでもアスベストの勉強をするという意味では、いいことだとも思います。
私はこの石綿問題は、間違いなく公害だと思っています。日本の四大公害、イタイイタイ病や水俣病などがありますが、それらは全部、原因企業が特定されているし、基本的にはもう解決した問題です。でも、このアスベスト問題だけは解決していません。原因企業が多すぎるという点と、建築基準法をはじめ国が石綿の使用を推進してきたなど、過去の公害とは性格を異にしています。 また現在進行形の石綿関連疾患の人が増えており、建物の解体工事もこれからがピークになります。
日本は災害大国、台風や地震などで壊れた家の建材がゴミとしてたくさん排出されます。 あの中にはアスベスト建材が入っています。
厚労省や国交省、環境省だけではなく、垣根をこえて(だって文科省や総務省だって関係しているから)、「アスベスト庁」のようなものができたらいいなと2、3日前に言ったら、名取先生が「オーストラリアにはあるよ」と言われて、さすがと思いました。日本は公害大国だったのだから、その対策の先進国になるべきだと思います。
ASAについてですが、狭く、石綿だけではなくて、われわれが残した負の遺産、例えば有害化学物質。ヒ素、セレン、亜鉛、水銀、鉛、PCB、農薬、幾らでも挙げればきりがないほど、あります。スウェーデンのグレタさんだったら、怒り出すかもしれません。名前が悪いだけで、あの子が言っていることは正しいと思います。 グレタさんのように、もしかしたら、環境について勉強したいという生徒、若い学生がいるかもしれません。その人たちに、建築の資料を残してあげたいと思っています。
また、ASAが狭くアスベストだけではなく、広く環境問題を扱うような団体になればいいなと思っています。私がどこまでできるか分からない、できるだけ頑張りたいと思っています。