Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
収録日時: 2021年10月16日(土)
2005年のクボタショックは、6月29日の毎日新聞夕刊一面に掲載された大島さんの記事から始まった。
当日のいきさつやその後の展開、アスベスト問題の出会いや長年取り組んでおられる原子力問題のお話しなどを伺いながら、アスベスト問題を最もよく知るジャーナリストとして、これまでのご経験を記録に残すとともに、問題解決に向けてメディアが果たした役割や今後取り組むべき課題などについて考える。
(視聴時間:57分5秒。肩書は 2021年10月16日(登壇当時のもの)
村山 よろしくお願いいたします。本プロジェクトの代表世話人を務めております村山です。よろしくお願いします。
今日は、先ほど南さんからご紹介がありましたように、毎日新聞の大島さんにお越しいただいてお話を伺うということにさせていただきました。
私の方から、簡単に大島さんのご紹介をさせていただきます。1986年に毎日新聞に入社をされた後、高知、大津、福井の各支局を経て大阪本社に移られています。その後、科学部から社会部、特別報道部などで原発核問題、それから、今日のテーマでありますアスベスト問題、労災問題などを取材されてこられました。現在は福井支局の敦賀駐在ということで、再び現場に移られて原発問題を担当されているということです。
アスベスト被害の救済報道については、かなり精力的に進めてこられまして、その内容を受けて、2006年科学ジャーナリスト賞、それから、2008年新聞協会賞を受賞されています。それから、今日持って来ましたが、岩波新書から『アスベスト 広がる被害』を2011年に出版されているということになります。
それでは、この後、大島さんの方からご講演をお願いしたいと思います。
大島 皆さん、こんにちは。毎日新聞の大島と言います。私に与えられた課題は、「アスベスト問題の解決に向けてメディアが果たした役割」ということで、これまでを少し振り返ってみたいと思います。
まず、取材のきっかけなのですけれども、先ほどもご紹介がありましたが、私は原発の取材などが結構長くて、以前に1990年ぐらいから3年半ぐらい、福井県の敦賀市周辺で原発取材をしていました。その関連でいろいろな人と知り合いまして、例えば労災の問題をやっている人、あるいはダイオキシンという環境問題、あるいは化学物質過敏症、シックハウス症候群など、そのようなことで接点にいる人から情報を得ていました。例えば、熊本学園大学の中地重晴教授から幅広い問題を教えてもらって、原発の問題とあわせていろいろな情報を聞いていました。
大きく言いますと、環境由来の健康被害、あるいは労災ということがテーマだったのですが、やはり大きかったのは、1995年の阪神大震災ですね。今まさにコロナでみんなマスクをしているのですが、当時の阪神間では、当初はあまりマスクをしていなかったのですね。しかし、この環境問題、アスベストに少し知識のある人たちは、マスクをしなければ大変なことになると知っていました。
マスクも、今から思えばとても簡単なもので、これでアスベストが完全に防げるかといったらそうではないのですが、それでも、比較的いいマスクを配っている人たちがいました。
そのボランティアの中にいろいろな人がいました。私自身は震災直後に、直接アスベストは取材していません。しかし、後ほどこの震災担当の記者になりまして、ここにある記事の97年に、当時マスクを配り続けた若者がいました。その人は地元の兵庫県立長田高校出身の浪人生で、東京や各地から来たボランティアの人たちに触発されて一緒にマスクを配ったという話でした。それで、そのような浪人生もいるという一つのエピソードとして取材しました。どちらかと言うと、アスベスト問題というよりは震災ボランティアという視点で記事を書いたということです。
ですから、私はまだアスベストを正面から書いたわけではなかったのですが、その1年後ぐらいに、先ほど少し言いました中地さん(当時環境監視研究所)から、「大阪でイギリスのNGOの活動家を招いたアスベストの講演集会があるので紹介してくれないか」と言われました。これが事前の紹介の記事なのです。私はほとんど当時、知識がなかったのですが、せっかく書く以上はと、アスベストとはどのような問題があるのかと、簡単に調べました。
そうすると、ヨーロッパでは次々とアスベストの廃絶といいますか禁止が進んでいるというところで、日本では95年にようやく一部の規制が始まったぐらいで、まだまだたくさん使われていた時代でした。これをきっかけに、ここに集まってきた人たちと知り合って、アスベストの問題や、労災の問題などいろいろ関心を持ち始めたということです。
それがきっかけで、この記事は厚生労働省、当時の厚生省のデータですが、それを集めると、このように4年間で2,243人の人が中皮腫で亡くなったというデータがありました。「なるほど、これはバカにならない数だな」と思っていました。これは全国に載った記事なのです。このように書き始めました。
大島 この船員の方を取材するまでは、実際の患者に出会ったことがなかったのです。あくまでも、知識といいますか、いろいろな人に教えてもらったりして間接的だったのですけれども、この元船員が中皮腫になったという情報、ここから最初の取材が始まりました。
それはどのような方かといいますと、機関士といいますか、機関室で働いていた人です。その人が広島に住んでいて、電話でしか取材ができなかったのですが、「石綿の危険性を知らなかった」ということでした。証拠集めは困難だけれども、支援団体の助けを受けて同僚から証拠集めをやっていました。その人はあっという間に症状が進行して、私が電話したときにはもう、抗がん剤の投与を受けかなりしんどい状態になっていました。船員の方もアスベスト疾患になるのだなということで、このような記事になりました。
やはり、知識では分からないもので、自分で記事を書いてみて、「そうか、アスベストは45年ぐらい経って、はじめて発症するのだ、そんな昔のことは本当に覚えていないだろう」と思いました。実際に本人は吸ったという意識はありませんし、職場の状況もよく分からないし、そこにアスベストが使われていたということも、よく分からなかったということでした。当時、船員というのは、少なくとも国内では認定例が知られていなかったので、これで一つの記事になりました。
一つだけ残念なことがありました。それは何かと言いますと、この人、笠原さんという方ですが、実は1度も直接対話ができませんでした。電話だけでした。やはり惜しかったことは、これまでの取材経験から、アスベストに限らずですけれども、対面してお話を聞くのと、間接的に電話などで聞くのとでは、全然情報量も違いますし、おっしゃっていることに対する理解度が全然違ってきます。全く会えなかったので、とても残念に思いました。
記事では、この船員の方が、「船員で胸の病気になったらアスベストに気をつけろ」と、他の船員仲間に対して訴えたのです。そうすると、支援団体の連絡先を書いていた関係で、新聞を読んで知った同じ会社の船員が中皮腫になっていて、「自分もなったのですけれども、笠原と同じ病気です。自分もアスベストが原因ではないか」と支援団体に相談したわけです。
それによって、メディアが媒介することによって、もちろん支援団体を通じてなのですけれども、被害者と被害者を繋ぐことができました。
そのようなことで、ここで何が成立したかと言いますと、読者の情報を元にして新聞が記事を展開でき、官庁などの媒介はなく、その記事に対して別の被害者が「笠原と同じ病気なので私もアスベストが原因なのではないか」と相談して、結局その人も労災認定に至る、ということになりました。また支援団体からその人を新たに私が紹介してもらうことによって記事を書き、情報の循環が起きてきます。ということで、「ああ、これは新聞が果たせる役割だな」と私は思いました。こうした過程を通じて、アスベスト問題に対する新たな視点も見つけるともできました。
その次にお会いしたのが立谷さんでした。この方は兵庫県の加古川に住んでいた元国鉄職員です。当時はJRにいましたけれども、支援団体の方に紹介してもらって、これは加古川のご自宅に伺ったときの写真です。私が印象深いのは、このようなようすなので、どのようにして話を切り出そうかなと思っていたところが、いきなり立谷さんが僕に向かって、「死にたくない」というようなことを言い、それを繰り返すのです。その頃は、中皮腫は大体かなり厳しい病気、今はある程度有効な薬も出ていますが、なかなか難しい病気だと知っていましたので、大丈夫ですよなどとは決して言うことができません。二の句が継げませんでした。周りにご家族がいて、いろいろ話を聞きますと、この方は突然、60歳の定年直前に早朝野球をやっていて1塁を駆け抜けたときに、何かいつもと違って息切れがして、おかしいなと思って調べてみると肺に影があって、それで肺がんではなくて中皮腫でした。それは何だということで家族が調べると、中皮腫という病気は調べれば調べるほどなかなか厳しい病気で、自分の定年後に楽しい生活を送る、妻と一緒にどこかへ旅行に行くということが全部打ち砕かれてしまいました。それはもう一瞬にして起きたことなので、毎晩寝る前に、「今、昼間起きていることは夢に違いない」と言って寝て、起きたときに、やはりこの記事の写真のようにチューブに繋がれている自分を発見した。そんなことが三日三晩続いたと聞きました。
それで、そのような話を聞いて、このような病床に行くにつれ、なんて厳しい病気なのだ、家族も辛い想いをさせられるのかと実感しました。その原因は何から言えば、自分の仕事である、あるいは環境であるとわかり、「ああ、大変なことが起きているのだな」と思いました。
先ほどの笠原さんも、この立谷さんも、やがて、「笠原さんは、残念ながら亡くなりました。お通夜はうんぬん」、あるいは、「立谷さんも亡くなりました」というようにして、支援団体の方から私に連絡が来るのです。
つまり、この人たちのことを私は記事して、それなりに成果を上げて満足するのですが、その後にこの人たちの訃報がメールで追いかけてきます。「これはどういうことなのだ」と、今まで取材した人の多くが半年ほどに亡くなり、船員だった笠原さんは、記事から3週間後ぐらいに亡くなり、ということで、「死」という情報がすぐに追いかけてきます。「これは大変なことが起きているのではないか」と実感しました。
それで、アスベストをご存じの方は言うまでもないのですが、このように突然の発症がありまして、原因が分からなくて精神的に不安定になります。ちょうど潜伏期間が平均40年と言われていますので、仮に20歳で最初に吸ったとしますと、先程申しましたように、定年後を楽しみにしていても、ちょうど定年前後に発症するということですね。
それから、もちろん休業によって収入が減ります。それと、やはり家族の被害というものはまだまだ書けていないのですけれども、甚大な被害ですね。周りを囲む人たちですね。そのようなものを見ると、これはものすごいことが起きていると思いました。
そのような人たちが、この当時、2003年から2004年ぐらいにかけて、新しい職業で次々と現れたのです。「あ、今度は運送業、今度は」という感じで、そのたびに記事にするのですけれども、そのたびにまた訃報が追いかけてくるという、何か迫ってくるものがありました。
ここにいらっしゃる、当時、早稲田大学教授の村山先生が、このような中皮腫の発症数の予想をするグラフを持っていました。これはあくまでも予想です。けれども、これは本当に日本でも起きるのか私は記者として事実で確認しなければいけないので、本当かなと思ってこのグラフを見ていました。
ところが、今、言ったように、実際に自分の取材で次々といろいろな職種に広がっているということが分かっていました。これで私に何が起きたかといいますと、この知識と実感の一致です。今まで知識にしか過ぎなかったアスベストの危険性が、やはりこれは絶対起きているのだと、目の前で起きているのだということを実感したわけです。
大島 それで、アスベストの取材を地道にやっていました。ただ、世間的に言いますと、マスコミの中でも、5本の指か10本の指かは分からないですけれども、本当に一握りの者しか取材をしていなかったということで、むしろマスコミの中でも、「アスベスト問題は、もう終わっているのではないか」と言っている人もいたという状況の中で取材を続けていたのですが、その中で、次のような中皮腫の患者に出会うわけです。
それは、元自衛隊員や主婦、経営者の女性、元証券マンです。自衛隊というのはこの中では比較的アスベストと接点がありそうなのですが、この人に限って言いますと、いろいろ支援団体が調べても出てきません。なぜだろうという疑問が残りました。
やがて、これが大変なことになるのですけれども、たまたま、ちょうどアスベストをこれからさらに取材しようと思っていたときに、クボタ神崎工場に近接したJR尼崎駅近くで福知山脱線事故が起きました。これが2005年の4月25日で、後々死者が107人となります。私は当時は、大阪の科学環境部にいましたので、もう当然この問題に張り付きで、私の中からは一瞬アスベスト問題は消えざるをえなかった。脱線事故取材をずっとやっていたのですね。しかし、後から知ったことですが、ちょうどこの頃が尼崎のアスベスト被害者がクボタと接触を始めるという時期でした。
そのようなわけで、この時期は私がとても専念するような状況ではなかったのですが、ちょうど落ち着いた頃にアスベストの取材を再開しました。そのときにまずお会いしたのが、この一番手前の方ですけれども、前田恵子さんという方です。経営者の女性の方で、後々、その次の土井さんという方にもお会いして、さらに早川さんという元証券マンの方に会いました。この方々が、自分の職業上はアスベストとは結び付かないのに中皮腫になるということがありました。
それで、いろいろ聞いていますと、この前田さんがクボタと接触し始めているという話で、そうしますと、「何だろう、公害かもしれない」という話になったのですね。それでこの取材をするのですが、やはり必須だったのは、クボタ自体への取材ですね。そこでいろいろ考えまして、次のような取材をしました。
「御社と中皮腫発症との関係を疑っている住民がいるけれども、どう考えているのか」という質問を出しました。それから、尼崎にあった工場が神崎工場と呼ばれていたのですが、「神崎工場のアスベストの使用実績はどのようなものですか、教えてください」と、それから、「御社の従業員の被害はないのかですか」ということで、そのあたりをぶつけて、何回かクボタ本社に通って質問しました。
当時、この取材の目標としては、やはり通常ですと、企業防衛といいますか、メディアが迂闊に証拠なしに書くと、報道に対して訴訟に至るという可能性もありますね。そのようなことも念頭に置きながら言い分を聞きました。
それから、「本当にこの公害を示すような証拠があるのか」ということを、やはり考えるのですね。それから、重要なことは、このクボタという会社が何らかの関係性を認めるのか認めないのかということですね。認めないなら、「認めない」と書かなければいけないし、認めるのだったら、「認める」ということです。ただ、最終的には、目標としては、この被害が起きているということを知らせる最も大事なことは、企業の実名で報道するということですね。それで、この実名報道を目指して、先ほどの質問をしていきました。
幹部に会う中でやり取りを繰り返していきますと、「見舞金を検討しています」という答えが何回かのやり取りで出てきました。1回記事を書きかけたのですけれども、「少し待ってくれ」と言われたこともありました。その後も取材を続け、クボタ社内での被害者のデータと一緒に、この記事にあるように周辺住民に対して「見舞金検討」という内容にすることになったのです。それが2005年6月29日の夕刊でした。
これは第1面掲載の記事で、死者の数で言いますと、当時は圧倒的に社内が多かったのです。10年間で51人も死亡、累計で79人でした。このように当時の直近10年でも、甚大な被害が起きているということを示していました。この情報はクボタが提供してくれたので、それに基づいて書きました。このときは、他の企業もアスベストによる労災の情報を公開するべきではないかということもあわせて書いています。
しかし、本当に大事だった記事はこちらです。住民5人も中皮腫という、先ほど紹介した、前田さん、土井さん、それから、早川さんという方です。この3人は当時ご存命の方でした。残りの2人は既に亡くなっていて、うち1人が確か先ほど原因が分からなかった元自衛隊員の方でした。いずれにしろ、生存者3人を含む5人が中皮腫発症の被害があって、見舞金をクボタが検討しているという記事を書きました。
この毎日新聞の夕刊が出ます。実際に一般の人の目に触れるのは最も早くて14時半ぐらいなのですけれども、それでその直前にクボタに「書きますよ」と通告したのです。クボタはその夕方、大阪市にある本社に各社を集めて会見をします。ここから、大変なことになりました。
スタートは、遅い社と早い社がありましたけれども、およそ半年間、ずっとこのアスベスト問題の報道で戦争状態が続いていきました。
そのような中で次々とクボタの周りの被害者が判明していきます。これは8月の20日ぐらいの時点の記事で、5人で始まった周辺住民の中皮腫患者が21人になって、どんどん広がっていきます。これは毎日新聞の記事ですが、各社も同じような記事を書いています。
これで思ったことは、この患者さんたちを取材していくと、社会に及ぼすいろいろな可能性があるということですね。最初は5人で始まった被害者の報道がどんどん、うちだけではなくて他社、もちろんテレビも、本格的な報道を開始して、 それぞれ相談窓口などを書くと、どんどん被害に気づく人が毎年増えていきました。後にクボタが認定制度のようなものを作るのですが、最近およそ350人が、主に中皮腫で被害者として認定されました。
もちろんこれは、新聞だけでやったのではなくて、むしろ患者さんと支援団体の方、その人たちが動いたのが大きかったのです。私はその動きを丹念に追いかけて、それで多少は企業側にも取材して記事にしました。この被害者が救済された結果が出たのは、第一には、やはり患者さんたちが立ち上がったということなのです。私たちはその側面援助のようなものができたかなと思っています。
やがて自治体や官庁も被害を伝え、情報公開に動き出します。ですが、基本的にはやはり患者さんと支援団体と報道の関係。ここから、報道の循環といいますか情報の循環を、他社も含めてつくり出すということになりました。
最終的には、これは同じ2005年の12月の記事ですが、クボタが責任と謝罪を検討しているという話になります。翌2006年の4月には、患者1人当たり最高で4,600万円補償するということになりました。救済金制度と呼ばれるのですが、クボタに取材すると、「実質的には補償と言ってもらっても差し支えない」と言っていました。
大島 それで、このようなクボタの動きもあり、国会なども動いて、石綿健康被害救済法が成立し2006年3月27日に施行されることになります。
このときに、先ほども言いましたけれども、企業、官庁の情報公開が進んできます。これもびっくりしました。今まで全然出さなかった企業や業界団体などが、「どれくらいの認定者がいる」「どれくらい使っていたか」などを一斉に出したのです。出さなかったらまずいことになると思ったのかどうか分からないですが。
このときに、最大の情報を持っていたのは厚生労働省でした。といいますのは、労災認定ということを通じていろいろ調べて、調べた上で労災認定します。これはアスベストと何らかの関係があると認めた時だけ認定するし、認定しないには認定しないなりのそれなりの理由が必要だということで、企業の情報などはたくさん持っていました。
クボタショックが起きた2005年7、8月に、厚生労働省は過去に、どのようなところで、どのような事業所でアスベストによる労災認定がされたかということを公表したのですね。これはある意味、それまでに比べれば衝撃的なことでした。
これを公表することによって、先ほどの船員の方は日本郵船という会社でしたが、それと同じ会社に勤めていた人が同じ病気になりまして、「では、僕も補償されるのではないか」と気づいたわけでした。似たように、いろいろな工場が、もちろんクボタもそうですし、いろいろな工場がありますが、そこで何人認定されたということが分かれば、「自分も認定されるかもしれない、されてもおかしくない」ということに気づきます。「この中皮腫という病気は、実はアスベストが原因だったのだ、しかも、これは勤めていた会社で認定例がある」ということで、そのような人たちが次々と駆けつけて、また認定に繋がるということになっていくわけです。そのような意味で、この厚労省の公表はとても重要だったのです。
そのようなこと、今言ったメリットのようなものを、当初は厚生労働省自体が説明していたのですが、最初の公表から1年経った2006年の夏になっても、次の情報を公表しないということになってしまいました。どうしたのかということで厚労省に取材すると、「公表のメリット・デメリットを検討している」という話になって、彼らに言わせればデメリットは、「これによって事業所側から情報が出にくくなってしまうのではないかという心配だ」と言っていたのです。そのように後ろ向きに転換してしまいました。
そのように公表しないということだったので、これはもう記事にするしかない、ということで、「公表拒否」という形で記事にしました。一面トップの記事でした。
しかし、これでは厚生労働省は動きませんでした。関西の支援団体の方が、このような情報公開で黒塗りの労災決定の資料のようなものを入手しました。ほとんど事業所名などは黒塗りになっているのですけれども、これを見ていくと、いろいろとキーとなることがあります。それは何があるかといいますと、この横列が一つの認定事例なのですが、その一つひとつを見ていくと、労基署の名前や、あとは疾病名、あと業種コードですね。業種コードというものは、例えば、石綿の製造業が分かったり、あるいは、造船業が分かったりということです。
このデータを整理していくと、このような図が記事で作れたわけです。岡山の労基署の管内では、これは船のマークで造船業を意味し、造船業で32人が認定されていることを示します。大きなところでいいますと、長崎も同じように造船で63人認定でした。とりあえずこのようなことが支援団体との協働で分かりました。この時点では企業の実名は出していません。なぜならば、厚労省が出した黒塗り資料では企業名が出ていないから推測するしかなかったのです。それで、われわれ取材班がどうしたかといいますと、疑われる企業に、「これは御社に関するデータではないですか。実数を教えていただけないですか」というファックスを送りました。
例えば、この「長崎労基署管内では造船業63人認定」というデータがあったので、それで三菱重工長崎造船所に、「このデータがあるのですけれども、ほとんどおたくのデータではないのですか」というふうに質問するなど、合計50社ぐらいにこのアンケートを流しました。その結果として、このような表が出来上がります。これは公表した企業の名前ですけれども、厚労省が公表していなくて、支援団体とうちで独自に、「自分のところではこれくらい出ている」と公表した企業が約40社ありました。実はここには造船業は全く入っていないのですが、一方、クボタやニチアスなどが入っています。そのようなことで、かなり独自の情報が集まってきたわけです。
それで、このように2007年12月3日の新聞ができました。一面と社会面と、解説面、さらに中面のデータの特集ページを作って、全部で5ページの大特集を組みました。それを見て厚労省が動いて、当時の舛添厚労相が、「早期に公表する」と決断しました。
後々、1年ぐらいして、厚労省にいた知り合いがやはりうちの記事を見て、「大変なことが起きている」と、厚労省内で騒ぎになっていたということでした。
結局これで、国との情報を公開するか、しないかという戦いについては、こちらが勝利したといいますか、支援団体と報道機関の連合軍のようなものが厚労省に勝てたということになりました。
これで労災情報の再公表が実現して、結局アスベストの労災認定は、もう原則的に全部事業所名公開ということになって、それが今、何年になりますか、15年ぐらい経ちますが、これが恒常化しました。これはとても貴重なことだと思っています。
大島 その後、どのようなことを取材したかといいますと、やはり印象深かったのは、大阪南部の泉南の石綿訴訟です。この記事は、高裁判決で原告が逆転敗訴したときのものです。そのとき、取材して出てくるのは、弁護団の副団長の村松昭夫先生です。元々、西淀川の公害訴訟などで辣腕を振るった方で、その方からいろいろ話を聞きました。そのときにとても印象的だったのは、この原告敗訴となった二審の高裁判決に対するコメント「経済優先の暴挙」でした。
私の普通の感覚では「アスベストで犠牲になられた方は、経済成長の犠牲になった方なのだから、それに報われるように補償されなければいけない」と、このような考えが普通ですが、この判決は逆で、「経済成長への犠牲は付きもので仕方がないのだから我慢しろ」という判決だったのです。これは許せないなということで、今でも記録が残っていますが、この弁護団の弁護士さんたちが泣きじゃくっているような、そのような場面もありました。それで、後にこれは最高裁でひっくり返って、やはり国は責任があるということになったのですが、このようなこと「逆転の逆転判決」は起きるのだなと思いました。
また訴訟の話になりますが、後に、今度は建設アスベスト訴訟がありました。これは皆さんご存じだと思うのですが、当初のスタートは東京・神奈川で原告側が負けそうな雰囲気が漂っていたのです。ところが、一つ京都地裁判決のあたりから、「どこまで証拠を積み上げたらいいか」という話で、ある種、蓋然性といいますか可能性といいますか、そのようなものを積み上げていって、ほぼ間違いないだろうということで認定するということになってきました。
このときのこの記事は、私が書いた記事です。最初は原告が負けているのですが、ずっとあとは原告が勝って国は負け続けています。この高裁に至るまで、ずっとです。こちらはメーカーでしたが、少なくとも国においては、「これだけ負け続けているのだから、もう諦めなさいと、もう最高裁の判決を待つまでもなく政治主導で早期解決を図るべきだ」と主張しました。結局このときは泉南訴訟と同じように、国はいくら敗訴しても訴訟を継続していきました。問題としては、特に国が関与する問題の、問題解決の迅速化、それが今後も課題であろうということです。今、建設訴訟で問題になっているのは、屋外作業の作業員の認定です。これは、労災認定はされているわけですから、それで全く賠償がなしかといいますと、納得できないなと思います。これもやはり早めに迅速に道筋を付けるべきだと考えています。
大島 村山先生らと一緒に英国に取材に行きました。そこで見た印象を一言で言ったら、「進んでいるな」ということでした。今とても危険度が高いのは、建物に潜在しているアスベストの除去作業なのですけれども、その除去作業をいろいろ国内で取材すると、「とてもいい加減」と聞きます。もちろんきちんとやっているところもありますが、見えない中で、ほとんどチェックされずにいい加減な除去が行われています。英国では除去業者に厳格なライセンス制度がありまして、そのライセンス制度で、失敗するとそのライセンスを取り上げられというのです。運転免許のようなものです。車で重大な事故などを起こしたり重大な違反をしたときは免停になります。ところが、日本のアスベストについては、違反しても免停制度はないということです。免停制度どころか取り締まる警察官がいないというような状況になっています。これはもうスピード感を持って英国のような制度を導入するべきだと実感しました。
しかも英国では、単なるライセンスだけではなくて、ふだんから資格を持った人たちのための研修制度がとても充実しています。日本では、事前などに石綿の有無を判断する石綿調査者(建築物石綿含有建材調査者)という制度はあって、しっかりした団体があります。しかし、石綿の除去ということに関していうと、まだまだしっかりした制度がありませんので、このことについては、今、進行中なのでしょうか。これも早くやらないと問題ですね。とても重要になってくると考えています。
先ほど紹介がありましたけれども、今お話ししたことの経緯というのは、ここ(「アスベスト 広がる被害」岩波新書)である程度書かれています。これで岩波の編集部から注文がいろいろ来まして、「海外ではどうなっているのか」「海外の法律はどうなっているのか」などということや、アメリカで訴訟になっていることについて「その訴訟の概要はどうなのか」と尋ねられ、いろいろ調べた結果を記述しています。
大島 取材を通じてできたことは、次に何が起こって何が焦点になるかを、ある程度予想して記事を書けたということです。2000年頃から、村山先生はもちろんのこと、(アスベストセンター所長の)名取雄司先生や支援団体の方など、いろいろなアスベストの関係者から状況を聞いていました。一番はじめに紹介したイギリスの活動家からは「アスベストは大変なことになっているよ」と、「イギリスは大変だ」「ヨーロッパでは大変だ」と教えてもらいました。それで私は「ヨーロッパではこのようなことが起きているのだとしたら、日本でも起きてもおかしくないな」と思いました。では、次に日本では何が起きるのだろうかと、ある程度起こりうることを想像して準備できたということは、大きいですね。
取材を通じてできたことで一番大きいのはやはり、クボタのあの記事を書く前と後では全然違います。出る前は、記事を載せるということがなかなか難しかったですけれども、出てからはアスベストの記事を書く意味が周囲から理解されて、今まで蓄積してきたいろいろな話が全部記事になるという状況になり、機関銃のようにがんがん記事を出している時期がありました。そのようなことで言いましたら、貯めている取材事実があったので、これも書かなければいけない、あれも書かなければいけないということが、すべて記事になりました。患者さんがどう思われるか分からないのですが、ある程度、患者さんの視点に立って書けたかなというところがあります。
しかし、課題として一番大きいのは、労災の対象外の人々を念頭にした石綿救済法が原則300万円の給付に過ぎないままであるということです。これは、先ほど出ました患者家族、その窮状、その精神的なストレス、いろいろなことを考えていくと、低額に過ぎません。大枠で考えていくと、政府と石綿の製品製造企業、これに大きな包括的な責任があると私は思うので、やはりこれも政治の責任かもしれませんけれども、それを包括的に、もう少し手厚く補償する制度がまだできていないことは、私の力不足も含めて課題だなと思っています。
「若い人に向けたメッセージなどは」と尋ねられましたので、私はこのことを強調したいと思うのです。やはり新聞記者、レポーターはそうなのですけれども、現場に出ることだと思います。現場に出て、広い意味で人に会い、企業も含めて当事者に会うことが大切です。これを出発点にすると、重要性が分かるし、情報の厚みも増すし、奥深いところも分かるし、人の感情もある程度分かります。自分がなぜこのアスベスト問題にのめり込んだかといったところに立ち戻ると、患者さんの病床に立ち会ってお話を伺えたということだったと思います。
労災や他の公害とアスベスト被害との比較です。一つは、当初、大きなところはクボタとニチアスに限定されているのですが、加害企業による実質的な補償制度が、患者と支援団体の力によって比較的短期でできたということです。他の、例えば、水俣の訴訟のあの長さやいろいろな曲折を考えると、最初に出てきたクボタ周辺住民の前田さんや土井さんたちが生きている間に補償を勝ち得たということは、私としてはとても印象深い話であったと思っています。
また、このアスベストの事業者での労災の情報公開というのは、他の労災では考えられないことです。アスベスト以外の労災では、よほどの明確な死亡事故や突発的な、何か大きな物が落ちて来て押し潰されたような労災事故などは警察の発表がありますけれども、そうではない限りは、特に職業病による死者というのは特別な事例以外は公表されません。
例えば今、過労死で亡くなった方がいます。その企業は公表しなくていいのかという話です。公表されるということになれば、もしかしたらその企業は、少なくとも2人目は出ないように努力するということもあるかもしれません。
そのようなことを考えますと、被害者のプライバシーは大事ですけれども、このアスベストで勝ち得た情報公開というものは他の労災被害などの先例となっていくことがありえるのではないかと思っています。
過去に担当して、今再び担当している原発問題との共通点を問われました。それは何かといいますと、アスベストの繊維というのは、ふだんはこのあたりに舞っていても、全く見えません。放射線も見えません。放射能の場合は、原爆のようなよほど強烈な被爆をしたら別ですが、原発労働者が被爆するようなものは、普通は見えないですし、ただちには身体が何ともないという点で言ったら、アスベストと同じです。それと、この被害は長時間たった後に表面化します。これもよく似た感じです。
それとこの問題の構造ですね。アスベストなり放射線なり、あるいは原発に対する、その推進側・容認する人たちと、批判する科学者の論争が起きるというところです。パターンは、当初は推進側の科学者が、政府などのお墨付きを受けながら優位に展開します。しかし、実際に事が起きると、それが逆転していきます。やはり起きたではないかという話になります。これもとてもよく似ていると思います。
上のこととも関係するのですが、海外で起きたことが教訓として活かされず、国内で同じことが起ったということです。原発の場合は、例えばチェルノブイリの原発事故、スリーマイルアイランド原発事故などがあります。かなり昔に欧米では臨界事故という深刻な事故が起きています。この臨界事故というものは、かなり昔に原子力の人たちには、この事故の可能性を踏まえるのは当たり前となっていたのに、かなり時間が経って日本で1999年に起きました。結局、海外で起きたことは、日本には関係ないと、他人事視されていたということです。これはまさに、アスベスト問題でヨーロッパで先行して起きたことが日本では教訓化されず、なかなか禁止に至らなかったというところと似ていると思います。
相違点は何かというところです。アスベストは、どちらかといいますと都市部にアスベスト製品の工場などがあり飛散しまして、都市部で建築物の解体などが行われてまた飛散し、それで被害が起きやすいのです。それに対して原発は、どちらかといいますと海辺の、どちらかといいますと過疎地に近いようなところで被害が起きます。福島の事故もそうですね。
それと、少し違うのは、やはり動いているお金のレベルが原発は大きくて違うのかなと思います。これは感覚的なもので、定量的にどれくらいとは計算、していませんが、私は感じています。
それと、少し違うのは、原発の場合は、国家や電力会社という巨大な権力が直接推進しているというところです。それで、さらに自治体も巻き込んでいるというところがあります。アスベストの場合は、もちろん国も関与して容認して推進した面もあるのですが、印象はお金の話とも絡んで、国策という強烈さが少し違うかなと思っています。
これもとても大きなところで、今のところ死者、これは判明しただけで圧倒的にアスベストの方が、かなりの被害になっていますね。全世界で見たら、核の被害はどうなのか、原発の被害はどうなのかということは少々疑問ですが、今のところ、国内におけるアスベストによる死者は、数万と言っていいのでしょうか。確か、労災認定アスベストは2万とか3万になるのでしょう。そして多くの方が亡くなっているので、やはりそのような人が、労災認定ということは国が認定しているということです。そのように被害が大きいということから最大の産業被害であることは間違いない。ということで、このアスベスト問題の重要性を認識しなければいけません。アスベストによる年間の労災認定者は建設業だけで500人、製造業などを含む全体で1,000人ぐらいですね。そのぐらいの方が認定されているし、それに近い人が亡くなっているということを考えますと、この問題は継続してやっていかなければいけないという思いです。
以上が村山先生から与えられた私への問いでした。とりあえず私のお話を終わりにしたいと思います。ご清聴ありがとうございました。