Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
収録日時: 2020年9月1日(水)
—アスベスト飛散監視の砦となる— アスベスト除去工事の飛散監視調査において、現場に顕微鏡を持ち込み、その場で解析を行うon-site分析。
小坂氏は、そのon-site分析を日本に取り入れた第一人者である。
海外の文献研究や現地調査にもとづく独自の分析手法は、アスベスト分析会社に多くの示唆を与えたばかりでなく、 新たな知見を得るための重要な講演を企画、後進を指導・育成し、日本の石綿含有建材分析手法の発展に貢献してきた。
本講座では、on-site分析の実演とともに、日本のアスベスト分析の歴史と今後の展開について語る。
(視聴時間:1時間20分3秒。肩書は 2020年9月1日登壇当時のもの)
YouTubeのプレイリストになっています。Shift-Nで次のパートへ、Shift-Pで前のパートへ移動できます。外山 皆さん、こんにちは。今日ご紹介する小坂浩先生ですけれども、私にとっては恩師といいますか、非常にいろいろなことを教わった方です。小坂先生は、1970年代の公害問題が非常にクローズアップされた時期に兵庫県の公害研究所に入所されました。そこで、大気汚染と微粒子の研究をずっとされて、現場での測定などを中心に活動されました。
アスベストとの関連で言いますと、1986年、環境省が大気汚染防止法という法律でアスベストの規制を始めます。その当時から、アスベストの工場周辺での濃度測定が義務づけられていきました。その後、工場の規制から、90年代後半になって、除去現場の規制が始まっていきます。阪神・淡路大震災もありました。除去現場の規制という中で、小坂先生は現場に行って、on-siteで、顕微鏡を持ち込んで分析をして、すぐその場で結果を出すことを先進的に、日本で初めてやられた方です。そのような意味で、研究者ではありますけれども、現場でのそのような活動といいますか、監視や分析を非常に重視されていた方です。
私との出会いは、2006年になります。アスベストの建材の含有濃度の分析方法をめぐって、海外からは批判もあるのですけれども、日本が非常に独特なやり方を始めようというところで、これではいけないということで、小坂先生とお会いして、その後、JIS法のアスベストの建材の分析方法の改定といいますか、国際標準に近づけていく活動を、私と一緒に、ずっとされてきました。2008年と2011年には、その取り組みの一環として、米国のジョンソン会議に小坂先生と一緒にお伺いして、発表するということもしてきました。 ぜひ、ビデオを見ていただきたいと思います。最後の方に、分析する皆さんへのメッセージもありますので、そのあたりをぜひ聞いていただきたいと思います。
名取 小坂浩先生の講演を始めたいと思います。小坂先生は、自治体の研究機関でアスベストの分析業務を約20年されたうえで、その後、他の諸団体での活動もされてきた、まさに分析の分野では、日本で恐らくon-site分析という現場に顕微鏡を持ち込んでの分析をされた第一人者で、本当に貴重な方だと思います。今日は、先生のその活動とその後の活動について、ぜひ先生に聞いていきたいと思っております。
では、次のスライドをお願いいたします。先生の経歴はここに書いたところですが、小坂先生の方から、特に何か追加で、この点はということはございますか。
小坂 いや、特にないです。
名取 これを見ていただくと分かるのですが、1970年4月に兵庫県立公害研究所に入られたうえで、6か月後に、アスベストの分析等でも有名な、労働省労働衛生研究所の輿先生の下での研修もされています。また、1976年から半年間、カリフォルニアの工科大学に留学されて、液体も含んだ、なかなか幅広い粒子であるエアロゾルの分析について勉強され、非常に基礎的な部分の勉強を、非常にしっかりされている方でございます。その中で、アスベストの分析に1985年、もしくは1988年以降から関わり始められて、on-site分析という実際に現場で分析されることをかなり早くからされた後に、環境省の委員、日本環境測定分析協会の講師、石問研(石綿問題総合対策研究会)の運営委員として、ご活躍されてきたということでございます。
では、次のスライドをお願いいたします。今日発表していただくことですが、まずは、分析を仕事にして、先生が最初に経験したこととして、先生は光化学スモッグが非常に印象的だったというお話をされています。次のスライドをお願いいたします。先生、こちらは、どのようなことだったのでしょうか。
小坂 私は、大学院を修了して1970年4月に研究所に入ったわけです。入って3か月か4か月目で、まだ何もよく分かっていない状態で、そこにありますように、7月に杉並区の立正中学で、生徒さんがグラウンドで気分が悪くなって倒れたということが大きな問題になり、それが光化学スモッグによるものだということが分かったわけです。
大気汚染ですから、われわれも「えっ」と驚いたわけなのです。それまで私自身は、研究所で微粒子の担当で始めていたのですが、当時は亜硫酸ガスが主体で、ガス状物質の分析をやっているグループもいまして、この光化学スモッグの事件については、彼らの出番だったのです。東京で起きた4日後に、兵庫県宝塚市の学校で、生徒さんが倒れるという事件があったのです。4日前にそのようなことがあったので、ガス状物質の分析を担当していたグループも、オキシダントの測定や分析などをすでに始めていました。いきなりそのようなことが起きたので、起きてすぐに宝塚市の中学校へ車で駆けつけて、測定したことを覚えています。その後、全国でオキシダントの測定が始まったわけです。
名取 次のスライドをお願いします。
小坂 これは、そのときの立正中学のスモッグ発生時の写真です。これは、その後にネットで見つけたのですけれども、当時は「異常ガス発生」などと書かれていますけれども、これは光化学スモッグだったのです。
次をお願いします。70年代初頭、私が研究所に入った当時は、尼崎などに行ったらこのような状態がもうあたりまえで、阪神尼崎駅のすぐ南側に県立尼崎病院があったのですけれども、大変な黒い煙が、どんどん病院の方にくるようなところでした。我々は、その屋上をサンプリング地点にして、尼崎の汚染を調べていましたので、よく覚えているのですけれども、このような状態でした。
次は、光化学エアロゾルについてですけれども、光化学エアロゾルは、光化学スモッグに付随して発生する微粒子です。光化学スモッグは、オゾンの濃度が上がるということで知られていますけれども、ロサンゼルスなどでは早くから起きていて、白い靄が発生、つまり、視程障害が起きることはもう有名だったわけです。
次です。これには入れていませんけれども、兵庫県で採取した光化学スモッグの粒子は、その頃、電子顕微鏡がうちになかったのですが、大学の研究室にあったので、いつも京都まで行って、写真を撮らせてもらいました。この写真には、今は出てきていませんが、円形の樹脂状結晶のような小さい粒子が数多く出てきたのです。それを電子線回折で分析すると、硫酸アンモニウムだということが分かったのです。
名取 次に、1970年代の自治体の衛生研究所、公害研究所が、ある面でいうと、非常にいろいろと、充実された時期だったと思うのです。やはり公害ということもあり、いろいろな地域に、そのような担当の方が増えた時期だったと思うのですが、少しそちらについて、先生のご記憶をお話しいただきたいと思います。
次のスライドをお願いします。これは部分的ですが、東京にも公害研究所があり、横浜にもあり、名古屋にも衛研、大阪府も労働衛生研究所、兵庫にもあるなど、その中で、やはり公害が大きかったり、問題と感じる住民があったりしたところでは、自治体としては、そのようなことに対応しなければということがあった時代なのでしょうか。
小坂 そうです。地方の衛生研究所、それから、公害研究所など環境関係の研究機関やセンターが、どんどん、どんどんできていった時代でした。
名取 そのようなときには、そこに、やはり工学や理学部を出たような方が採用されることも多かったのでしょうか。
小坂 それは、やはり化学関係の人が多かったと思います。水質や大気の分析は、どちらかというと、化学関係の人が多いです。私が入ったときも、うちの研究所の所長が、実は私の中学時代の友人の父親で、そこの家へよく出入りしていたので、大学院を終わる頃に、「おじさん、何か就職ないですか」と、「うちにくるか」という話で、研究所へ入ったのです。
名取 例えば、「四日市の公害があったので、私はこういう分析の道に入ることになった」、「水俣病があったから、水質のことをやらなければという気持ちになったんだ」というお話もありますが、小坂先生はやはりその中で、そのような思いがどのくらいおありになったでしょうか。
小坂 大学院を終わる頃になって、公害などがいろいろと問題になりました。その私の友人の父親は、京都で診療所をやっていたのですけれども、突然、「大阪市の衛生研究所の研究員になる」と言って、開業を辞めてしまったのです。私の母も、その奥さんと非常に親しかったので、よくその家へ出入りしていました。その人は、最初に大阪市の衛生研究所の環境汚染などに関係する部署の課長になって、開業医を辞めて、公務員になられたのです。そのうちに、公害問題が非常にクローズアップされてきて、医者で、しかも大気汚染のことをやっている人はあまりいないので、兵庫県にスカウトされたのです。
あるとき、遊びに行ったら、その人が「今度、俺は兵庫県公害研究所の所長になるんだ」と、衛生研究所の所長でもあるのですけれども、そのようなことを言いました。「おじさん、私も何とかなりませんかね」と言ったら、「ちょうど物理学専攻のやつが微粒子の研究とかにはよいので、探しているのだけれども、くるか」という話になり、それで、公害研究所の研究員になることになったのです。
そのような経緯があり、研究所に入り、しかも「おまえは微粒子のことをやれ」ということで、先ほども少し出てきたかと思うのですが、入ってしばらくして、「労働省の労働衛生研究所で、こういう人が微粒子のことをやっているから、そこへ行って勉強してこい」ということで、何か月間くらいでしたか、行かされました。ちょうど妻の兄が小田急沿線に居を構えていましたので、そこへ居候として入り込んで、武蔵小杉まで通って、いろいろと勉強をしたという記憶があります。
名取 ありがとうございます。当時、やはり自治体で公害や環境被害などが増えてきたことが、いろいろな人をそのような道に向かわせていたという背景があったということだと思います。
次のスライドをお願いします。先ほどもありましたけれども、そのようなものが設立された背景としては、やはり公害や環境問題があったということでよろしいのでしょうか。
小坂 はい、そうです。
名取 当時、その後、環境庁なども設立されていきますが、例えば、兵庫県の場合ですと、環境庁の設立と公害の研究所が作られていくことについては、何か一定の関係や連携などはあったのでしょうか。
小坂 私が入る前、兵庫県では、衛生研究所の中に、そのような部門が一部あったのです。兵庫県は、特に尼崎などの大気汚染が非常に強かったですし、水質汚濁も非常にひどかったのです。工場地帯が数多くありますから、姫路までの瀬戸内沿岸はずっと工業地帯になっていまして、大気汚染、水質汚濁が非常にひどかったので、そのようなことからも、兵庫県はかなり早い段階で、衛生研究所の中にあった部門を公害研究所にしたと思います。
名取 環境庁も設立されていくと思うのですが、その辺で、環境庁のいろいろな研究機関との人事交流などは、兵庫県の場合はおありだったのでしょうか。
小坂 それは、特にはなかったです。今、筑波にある環境研究所ができたことは、もう少し後でしたか。少しそこは、はっきり覚えていないです。
名取 では、そのようなこともあって、先生の場合は、厚生労働の粒子の研究機関に半年、行ってくるようにということがあったのですか。
小坂 そうです。その頃、大気汚染や微粒子のことをやっているところは、労働衛生関係のところだということで、今は産業医学総合研究所となっていますけれども、労働衛生研究所に、後にそこの所長になられる輿さんという偉い先生がおられて、その人とうちのその所長が知り合いだったもので、「おまえ、輿さんのところへ行って、勉強してこい」と、送られたのだと思うのです。そのようなことだと思います。小坂 そうです。その頃、大気汚染や微粒子のことをやっているところは、労働衛生関係のところだということで、今は産業医学総合研究所となっていますけれども、労働衛生研究所に、後にそこの所長になられる輿さんという偉い先生がおられて、その人とうちのその所長が知り合いだったもので、「おまえ、輿さんのところへ行って、勉強してこい」と、送られたのだと思うのです。そのようなことだと思います。
名取 次にまいります。初めてのアスベストの分析・測定ということになります。次のスライドをお願いいたします。1970年代くらいに、特定化学物質障害防止規則では、アスベストの分析や、石綿製造工場などでの気中濃度測定が開始されたと聞いています。先生が、兵庫県の研究所にお勤めの当時、まだ最初の頃は、アスベストの分析や気中濃度測定を、研究所ではされていなかったのでしょうか。
小坂 そうですね。私が始めたことは、環境省が始めたことがきっかけですから、始めたときは、そのときです。
名取 では、1972年には特化則(特定化学物質等障害予防規則)が制定されて、工場の石綿環境測定が始まるなどしてくるわけですが、その時点では、まだ兵庫県の公害研究所としては、アスベストの気中濃度測定はされていなかったのですか。
小坂 していませんでした。
名取 分かりました。ありがとうございます。
次のスライドをお願いします。小坂先生のお話をずっと聞いてまいりますと、自治体の研究所の職員で、現場で測定をいろいろとされたことについては、あまり数が多くないような気がするのです。まず、敷地境界で結構でございますが、石綿の製造工場等の屋外の気中濃度測定を初めてされたことは、いつ頃、どのような工場だったか、覚えていらっしゃいますでしょうか。
小坂 いつ頃かは正確には思い出せないのですが、研究所が独自でそのようなものを設定することはできなくて、当時は、公害部門の行政がそのようなものを企画して、研究所に「ここの測定に行け」と言ってくるわけです。ですから、いつ頃からでしょうか。何年と言われると、正確には少し思い出せないです。
名取 70年代、80年代になりますか。
小坂 いや、70年代にはやっていたと思います。
名取 そうですか。例えば、兵庫県と申しますと、クボタやノザワなど、案外大きな石綿製造工場がある県でもありますので、大きな石綿製造工場の敷地境界を測定に行かれたという思い出はございますか。
小坂 それは行きました。例えば、環境問題だと、県と同等の権限を持っている自治体もありますから、そのようなところはそのようなところで、独自になるのです。県の測定として、敷地境界ですけれども、県内のアスベスト工場は、何年かと言われると、正確な年度は思い出せないのですが、かなり早くから始めていたと思います。
名取 造船所の場合も、アスベストをだいぶ大量に使っているので、造船所の敷地境界の気中濃度測定をされたことはございますか。
小坂 それは、あまり記憶がないです。やっているかもしれないですけれども、あまり記憶がないです。
名取 分かりました。
名取 そうすると、1985年に環境庁が『アスベストモニタリングマニュアル』を作られました。5ミクロン以上、アスベスト比3以上のものについて、アスベストの屈折率が約1.5ということを利用して、測るなどしていました。これは、「位相差モードの繊維数-生物モードの繊維数」がアスベスト繊維数ということで、先生としては、ここに書いてあるように、これは非科学的な判定方法だとお考えだということでよろしいのでしょうか。
小坂 そうです。
名取 これは、先生からいただいたスライドです。先生に、「この分析の考案者であった労働科学研究所の木村菊二氏は、後年、恥ずかしいから早くやめてほしいと言っておられたという話を聞いたことがある。パワポに出してください」と言われて、これを私にいただいたのですけれども、これでよろしいのでしょうか。
小坂 これは本当です。
名取 そうですか。ありがとうございます。
次をお願いします。こちらについても、先生から、問題点としていただいたパワポですが、いかがでしょうか。
小坂 これが、当初の環境庁のアスベスト判定法です。
名取 生物顕微鏡モードの像で、繊維は、見えていたものが見えなくなるけれども、消えないということでよろしいでしょうか。
小坂 見えにくくなるけれども、消えないです。だからこのようなものを、王様の耳はロバの耳の話のように、見えているのに見えないと、分析者はみんな言っていたのです。
名取 なるほど。ありがとうございます。
次をお願いします。その後、この改訂がいろいろと行われました。初版と改定版、3版、4版のところで問題と思われる点は、どのようなことだったのでしょうか。
小坂 初版については、全くひどい判定法で、話にならないと思います。改訂版でも、何版からまともになるのでしょうか。少しまともになったものは、4版になってからではないですか。
名取 これは、気中濃度の測定のモニタリングマニュアルですので、初版と改訂版では、諸外国で使われているような電子顕微鏡の方法が書かれていないという問題がありました。それ以外にも、位相差/偏光顕微鏡でのやり方について、評価をし始めていったものが、だんだん第3版、第4版ではきちんとなっていき、第4版であれば、位相差/偏光顕微鏡でon-site分析もできるような書きぶりもしてあるという理解でよろしいでしょうか。
小坂 そうです。
名取 ありがとうございます。第4版になると、蛍光でも、迅速法としては測れるのではないかという点で、問題点を指摘される方が多い方法も紹介されるなどしていて、そのような問題点もあると伺っております。
小坂 それはそのとおりで、あの方法は、私は駄目だと思っています。
名取 阪神・淡路大震災にも遭われるのですが、このときのいろいろな思いについて、先生からお語りいただければと思います。
小坂 これは、私の研究室の地震直後の惨状です。朝の5時過ぎにあの地震が起きて、その直後に、もう身動きが取れない状態だったのですが、何かあのとき、これは大変なことになったということで、何とか研究所に行かなければという気になったのです。5時過ぎに起きた直後です。ちょうど父親がすぐ近くに住んでいまして、バイクを持っていたのです。明石に近いところに住んでいたのですが、車はもう全然走れないということが分かったから、夜が明けて、しばらくして8時か9時に、とりあえず研究所へ行ってみようと思って、バイクに乗って行ったことを覚えています。行く途中は大変な惨状で、研究所の真横の阪神高速道路が、山手の方からずっと須磨の海岸の方へ下り坂で下りてくるところの道路が、全部落ちてしまっているような状態で、何か随分回り道をして、行った記憶があります。
入った自分の研究室が、このような状態でした。これを片付けることに大変な時間がかかったのですけれども、水も出ないし、何もできないわけです。何もせずに、片付けは済んだけれども、みんなが、広い部屋の中で椅子に座って、じいっと毎日を過ごしているようなことがしばらく続きました。
それでも、周りは大変な惨状で、この研究所は須磨にあったのですが、そのすぐ横が、長田地区という、大変な被害があったところなのです。当日でしたが、亡くなった方を運んでいる人がたくさんいて、今思い出しても、何かこう、物が言いにくくなる、そのような状況でした。今思い出しても、少し嫌になります。
名取 はい。
名取 兵庫県で担当した、アスベストのon-site分析のことにまいります。次のスライドをお願いします。先生が、実際に除去や解体現場で気中濃度測定を初めて開始された現場は、何が契機だったかを覚えていらっしゃいますか。
小坂 これは、研究所独自で動くなどはできないです。だから、大気汚染の担当をしている課から、すぐ直後に、倒壊家屋等でアスベストの問題がクローズアップされました。
名取 これは、阪神・淡路大震災のときの話ですか。
小坂 そうです。何とかしなければということがあったのではなかったですか。何かそのような記憶が少しあります。あれは何年でしたか。
名取 1995年です。
小坂 1995年ですね。そのときは、もうすでにアスベストを。
名取 先生、その前に、1987年の学校アスベストのときも、一部除去現場の気中濃度測定をされた経験があると言われていると思うのです。
小坂 そうです。
名取 学校の濃度測定もされましたか。
小坂 しました。
名取 分かりました。そのときに初めて、車で顕微鏡も持ち込まれて、気中濃度測定を、学校でされたと理解してよろしいでしょうか。
小坂 いや、それを始めたところは、解体・除去工事現場だと思います。
名取 学校の夏休みの除去工事現場ではないのですか。
小坂 そのようなものもあったと思います。
名取 当時、夏休みになると、もう次々に学校で除去工事がやられ、それが一番多かったのですが、そのご記憶はありませんか。
小坂 学校と言われると、その記憶は出てこないです。学校があったか、なかったかは、少し思い出せないです。
名取 では、ある何かの建物として建っている、建物の除去・解体現場に最初に入られたのですか。
小坂 そうです。
名取 そのときに、もう顕微鏡を持って、そこに行かれたわけですね。
小坂 最初は違ったかもしれません。とりあえず取りに行くことをやりだして、除去工事現場などになって、実際に、アスベストをいじっているところに出くわして、これはもう現場でやらないと、どうにもならないということが分かったので、やりだしたことがきっかけだったと記憶しています。
名取 そうしますと、養生がされているけれども、少なくも排気口など、そのようなところの濃度を測らないと、問題工事かどうかが分からないと思われて、されたということですか。
小坂 そうです。最初は分からなかったのですが、除去工事をざっと見ますと、漏れてくるところが二つだということはすぐに分かったわけです。出入り口は陰圧になっているので、開けっ放しです。きちんと陰圧ができていれば、そこから吹き出てくることはないので、開けっ放しになっているわけです。あとは、きちんと密閉がされていれば、内部の空気が出てくるところは、集じん機の排気口しかないわけです。だから、測定するところはその2個所だと、除去工事については、測定はそれほど難しくないことは、現場に立ち入っていて、大体すぐ分かりました。
名取 では、気中濃度の勉強はすでに、いわゆる一般大気環境でやられていたので、それを除去工事現場に応用されたということですか。
小坂 そうです。そのようなことです。
名取 先生が実際にされてみて、これは高いと思われた現場を覚えていらっしゃいますか。
小坂 それは覚えていません。ただ、最初に「えっ」と思ったところは、やはり集じん機の出口です。これは、HEPAフィルターを通っているから、絶対にアスベストなどはゼロだと思い込んでいたものが、「えっ?」というものがありましたから、それはよく覚えています。
名取 そのときの石綿は、アモサイトですか。
小坂 いや、それは覚えていません。
名取 高かったので、その場合には、除去工事をされている方に、先生は何か言いにいかれたのでしょうか。
小坂 それもよく覚えてないけれども、言ったかと思いますが、当時はまだ、私たちは測定するだけですので、除去業者と対応するのは、我々ではないのです。行政マンなのです。最初の頃は、「漏れているよ」と彼らに言って、私も横へついていきますけれども、彼らが話をするという状態でした。
名取 その場合、リットル換算にして、何本だったなどという思い出はありますか。
小坂 そのような思い出で、明確に覚えているものはないです。
名取 メンブランフィルターで結構ですけれども、フィルターの一部分をぱっと見て、「もうこれは10本、それ以上、ブワッとある」というご記憶は、案外あるのですか。
小坂 一視野にもうバラバラと、繊維が見えることはあります。
名取 それは、かなりですね。
小坂 はい。
名取 分かりました。その後、阪神・淡路大震災で倒壊された家屋の現場の気中濃度測定もされたのでしょうか。
小坂 はい。倒壊後、解体しなければ危険なものは、順次、解体されていきます。ただ、非常に混乱していますから、もうどさくさ紛れにやった人たちもいたでしょうし、行政がまともに動きだしたことは、しばらく経ってからだと記憶しています。
名取 では、数か月経ったところで、そのような現場にも行かれるようになったということですか。
小坂 そうです。
名取 ありがとうございます。
次をお願いします。そのようなことで、当時のon-site分析というものは、何かの届出を元にした「この現場があります」という通知は、何課から先生方のところに来たのでしょうか。特化則の方から来たのですか。
小坂 私たちの研究所には、環境関係の課からしか来ません。そこは、県庁の中で、そのような作業環境を担当している部署と、大気環境部門の課が、アスベストの問題が起きたからということで連携を始めていたと思うのです。ですから、例えば、兵庫県の場合、大気課というものがあったのですが、アスベストに関しては、除去工事をしますという届出が、そこへ届出が行ったのでしょうか。
名取 大防法の届出が義務化されたことは、少し後だと思うのです。
小坂 後でしょう。
名取 ですから、特化則の方が先なので、何となく特化則の課と大防法の課との連携が、よくされていたということなのですか。
小坂 そのようなことで、連携が始まった時点で、われわれはやっていると思います。
名取 なるほど。
名取 その場合、先生は、何人くらいの人数で、どのような車に荷物を積んで、そのような現場に行かれたのでしょうか。
小坂 研究所に、ワンボックスカーがあったのです。大体自治体は、運転員が必ずいます。小さい自治体でしたら、研究員も皆さん、運転をしておられますけれども、兵庫県は、運転員という職種があって、運転員しか公用車を運転できないのです。ですからわれわれは、運転員さんが乗る車に乗せてもらって、現場へ行くということをやっていました。
名取 研究者は何名ほどですか。
小坂 2名です。
名取 2名の方が後ろに乗って、機材も載っているということなのですね。
小坂 そうです。場合によったら、1人で行くことがありました。
名取 その場合は、もう事前に「今日、兵庫県から行きますよ」ということが、現場に通知してあるわけですね。
小坂 そうです。現場とそれを管轄している自治体の両方と話がついて、行くわけです。
名取 そのときは、何顕微鏡をお持ちだったのですか。
小坂 位相差顕微鏡です。
名取 位相差顕微鏡を持って、そのときは、偏光はついてはいなかったのですか。
小坂 ついていないです。
名取 分かりました。ありがとうございます。
次をお願いいたします。そのような除去・解体現場に行かれてみて、解体の現実として、「これは飛散の問題があるな、ちょっとな、これはいかんぞ」と思ったものは、何階建てで、どのような造りでしたか。鉄骨だったのか、RCだったのか、吹き付けだったのか、保温材だったのか、いろいろなものがあると思うのですけれども、大体で結構なので、何名規模の自治体のどのようなところで、どのような問題があったのか、もしよかったら教えていただきたいのですが。
小坂 その前に、少しこれは笑い話になってしまうのですが、始めた頃に、このような経験がありました。現場へ行って、除去をする人を待っていたのです。そうすると、かなり年配の方と、その息子さんとおぼしき二十歳少し過ぎくらいの人との2人が、竹箒と、煙突掃除に使うブラシのようなものと、熊手のようなものを持ってきたのです。それで、「えっ」と思って、「除去するんですか」と言ったら、「はい」と言うので、「いや、ちょっとこれは駄目ですよ」。
名取 養生も何もしてないのですか。
小坂 何もしていないです。
名取 当然、セキュリティも何にもないわけですね。
小坂 何もないです。だから、これは極端な例ですけれども、そのようなことで始めようとすることもありました。
名取 要するに、何も対策がないまま除去工事を始めるという、昔、時々あったものを、そのまま現場で見たわけですね。
小坂 そうです。
名取 それは、すぐお止めになりましたか。
小坂 止めました。私は研究員で、そのような権限がないから、一緒にいた県の公害関係の担当者と、現地の自治体の担当者の人たちに、「止めろ」と言って、その人たちに止めてもらいました。
名取 なるほど。これはなかなか、昔あった、一番ひどかった例ですね。
小坂 そうです。
名取 これは、2階建てくらいの鉄骨造ですか。
小坂 いや、それはあまり、はっきり記憶していないです。どうだったでしょうか。
名取 2人でやるのだから、多分10階建てなどということはないですね。
小坂 そのようなものではないです。
名取 自宅として、ご自分がお使いになっている2階建てのようなものですね。
小坂 そうです。
名取 分かりました。他に何か、このようなことがあったという、特に周囲に飛散もさせてしまったようなご経験はないのでしょうか。
小坂 飛散させたかどうかは別として、かなり悪質だと思ったものは、工事をなかなか始めないのです。測定は、作業を始めないとサンプリングを始めないから、われわれが行って、「測定を始めます。始めてください」と言うのですけれども、中へ入って、何かカンカンと音はするのですけれども、じいっとのぞいていると、作業は全然しないのです。そのようなことや、もう出てしまって、作業をやめてしまうなど、露骨なボイコットは、初期の段階でかなりありました。
名取 何分の1くらいですか。
小坂 何分の1と言われると。
名取 5件に1回くらいという感じですか。
小坂 いや、そこまでは行きません。
名取 10件の1件くらいですか。
小坂 そのくらいはありました。
名取 要するに、何か見張り役的な人が来たから、今日はやめておこうということですか。
小坂 そうです。
名取 もう一つだけ、何か気になった例を少しお話しいただけないでしょうか。
小坂 気になった例ですか。
名取 例えば、除去工事はしているけれども、部分養生だけで、明らかに飛んだということはなかったですか。
小坂 具体的にと言われると思い出せないのですけれども、養生のずさんさは、よくありました。
名取 もう、今のようにピッタリなどしていない養生を、私は昔、とても見ているのです。
小坂 それはありました。
名取 ありますね。明らかにここから行ってしまうなというものは、やはりありましたか。
小坂 ありました。
名取 あとは、明らかにアスベストが落ちているので、もう養生を解除してしまうようなことは、見ませんでしたか。
小坂 それも、よくある例です。
名取 よくある例ですか。
小坂 よくある例です。
名取 では、十分養生していないものも、落ちたまま終わってしまうものも。
小坂 周りに吹き付け材のかけらが落ちるなど、そのようなものはよくありました。
名取 そうですね。先生がリットル換算に直されたものがもしあれば、一番ひどい現場ではリットル何本があったというものがあったら、教えていただきたいのですけれども。
小坂 基本的に、解体現場での測定は、作業が始まって、漏れがあるかも分かりませんから、サンプリングを長くしていると駄目なのです。早くサンプリングを終えて、すぐ結果を出さなければいけないわけです。だから、サンプリング時間も、せいぜい30分です。すぐにフィルターを持ち込んで、透明化して、顕微鏡観察を始めます。顕微鏡観察は、ざっとやりだすと、10分もかからないです。だから結果は、作業を始めて、最長でも三四十分では出てくるのです。それをできるだけ短くしないと、怖いわけです。そのようなことは、ことさら心がけてやっていました。
名取 リットルにしたら、1万を超したか、10万超したかなど、最大です。
小坂 それはもう、本数を計算するまでもないです。わあっと各視野にたくさんあります。
名取 もうそれだと、万ですね。
小坂 だから、数えなくても、「もう止めろ」です。
名取 それは、もうリットルは万ですね。
小坂 そうです。
名取 分かりました。ありがとうございました。
では、次をお願いいたします。今度は、先生が測定して、業者の方などに担当者の方からお話ししていただいて、「改善して、よかったな」、「ああ、僕が測定した意味があった」と思ったような例があったら、教えていただきたいのです。
小坂 そのようなこともなかなか思い出せませんけれども、中には、割と真面目な除去業者の方もおられて、集じん機に不具合があるなどしたときに、あの現場でやってよいことだったかどうかは分かりませんけれども、素直にフィルターを交換するようなことを、きちんとやってくれる業者はいました。
名取 なるほど。集じん機のネジをきちんとするだけでも、直りますね。
先生以外の方で、on-site分析をしている方は、それほど多くはないと思うのです。つまり、分析の方はあくまで現場に行かないで、研究所で分析している、会社で分析している方が多い中で、先生が今後の分析者にお伝えしておきたいことは、何かおありでしょうか。
小坂 アスベスト分析はやはり、特に除去工事に関しては、分析者が実験室にこもっていたら、アスベストの漏洩・飛散を防ぐことはできないです。
名取 確かに、防ぐことができないですね。
小坂 できないです。やはり現場へ出て、やらなければいけないと私は思います。
名取 漏洩を防ぐための分析ですからね。
小坂 はい、そうです。
名取 そのためにも、やはり分析者は現場に出なければいけないということですね。
小坂 そう思います。
名取 大変貴重な、重々しいお言葉をありがとうございます。
次をお願いいたします。5番目になります。次をお願いします。今後、アスベストの測定をこのようなところで使えば、改善につながって、より飛散しないようになるポイントが、建材の分析、気中濃度分析、もしくは今後、終了検査が入ってくると思うのです。それは、濃度測定も含めて、目視プラスの測定かもしれません。先生がその辺で、まず建材分析について、このようにやれば、もっとよりよい建材分析ができると思う点があれば、ぜひお聞かせ願いたいのです。
小坂 どうでしょう。基本的には、いろいろな分析会社のシステムがあると思うのですが、やはり分析者が現場へ行って、サンプルを取ってこないと駄目なのではないですか。
名取 まず現場に行って、サンプルを取ってこないと、建材が分からないということですか。
小坂 そう思います。だから、持ってこられたものを分析するだけでも、有り・無しは、分かるのかもしれませんけれども、やはり現場へ行かないと駄目だと思います。
名取 そうですね。深い意味で、何がどのような建材なのかが見えないですね。
小坂 そう思います。
名取 気中濃度測定については、何かお考えがございますか。
小坂 顕微鏡で繊維を判定して計数する作業は、実に退屈な、まどろっこしい仕事なのですけれども、しんどくてもやらなければならない仕事なので、使命感を持ってやるしかないのです。アスベスト分析を好きになってほしいな。あまりよい答えではないですが。
名取 あとは、まだ日本では十分にできていませんが、終了検査については、今後、先生は、どのようにあってほしいと思われますか。
小坂 これも、丁寧にやろうとすればするほど、大変な仕事だと思います。
名取 はい、そうですね。
小坂 やはり誰かがやらなければならない仕事なので、ありきたりの言葉になりますけれども、コツコツと、使命感を持ってやっていただきたいです。大事な仕事だと思います。
名取 大事な仕事だから、コツコツ、使命感をということですね。
名取 この間、先生は環境省等の省庁の委員として、いろいろなことをされてきたと思います。最初の省庁の委員の就任から、その後、環境省のアスベスト大気濃度検討委員会などで、いろいろなことをされてきたと思うのです。その中で、できたこと、容易でなかったこと、それから、問題だと思ったことについて、少しお話ししていただけますでしょうか。
小坂 どこからですか。
名取 まず、できたことです。自分なりに、これは委員をやっていてよかった、この点は自分なりの仕事ができたということです。
小坂 大気濃度調査検討会で、マニュアル作りもありました。そこで、大気濃度についても、位相差/偏光顕微鏡を使えるようにしてもらえたことは、うれしかったことです。
名取 位相差/偏光顕微鏡をマニュアルの中に入れていったことですね。容易でなかったことは、どのようなことでしょうか。
小坂 容易でなかったことですか。どれという具体的なものは今、思い浮かばないのですけれども、省庁が最初から決めてきて、一応委員会の議論に乗せてくることは、どうしようもないということで、腹立たしい思いがしました。
名取 要するに、省庁の役人の方が、もう結果を出しているようなことですか。
小坂 結論を出しておいてです。
名取 結論を出していながら、とりあえず委員会を形の上でやるようなときが、腹立たしかったということですね。
小坂 委員会に承認だけさせるということです。
名取 on-site分析という、海外でもされているし、日本でも非常に可能である方法が、実際には、残念ながらあまり広がらなかったという現実があると思うのです。この原因は、省庁の委員がそれを充分おさなかったから、こうなったのでしょうか。分析器の会社が、やはりこの方法だと自分の製品が売れないから、嫌なのでしょうか。分析業者の団体が、この方法でやると、負担も多いし、大変だと思ってやらないのか、何が日本で広がらなかった原因だとお考えでしょうか。
小坂 他人のことを言う前に、on-site分析をやるべきだと考えている私が、非力であったという反省はあります。ただ、省庁委員、分析会社うんぬんとここに書かれていますが、私は、省庁そのものにやる気がなかったかと思っているのです。
名取 省庁も、それほどやる気はないですね。
小坂 ないです。
名取 アスベスト対策全般にやる気がないので、on-site分析とは少しまた違う、全体の問題だと思うのです。だから、on-site分析についてはなぜか、私は少し、何か日本独自の部分もあるのかと思うのですが、そこはいかがでしょうか。
小坂 どうでしょうか。日本の環境分析の会社は、サンプルを取ってきて、自分のところのラボで分析するものだと思い込んでいるところが多いことが、一つあります。
名取 分析業者にある、スタイルの問題ですね。
小坂 それは、一つあるのではないですか。ただ、社会的な責任や社会的重要性を考えて、民間分析会社でも、やらなければならないと思うところがあれば、オンサイト分析も積極的にやるところが、もっと出てきてよいのではないかと思うのですが、元々そのようなものがない業界なのでしょうか。よく分かりません。
名取 やはり、on-site分析をすると、経済的にかなり厳しくなってしまうこともあるのでしょうか。
小坂 経済的にと言いますと、人手がそれに取られてしまうなど。
名取 分析の会社として大変であることは、あり得ますか。
小坂 それは、単価がどれくらいかによります。それは、やはり分析会社だけで決められることではなくて、省庁が、アスベスト汚染を防ぐという観点から、高額になってもやらなければならないという姿勢を示せば、分析会社もその気になって、ペイできるのであれば、乗ってくるところも増えてくるのかと思うのです。
名取 つまり、省庁なり自治体が、ある方式として、「一定のものでなければ駄目だ」と言えれば、それに合わせた金額に変わってくるわけですね。
小坂 そうです。それがある程度、採算が合うと分析会社が判断すれば、どんどんやってくれるのではないでしょうか。どうですか。
名取 ありがとうございます。
(冨田知靖さん(アスカ技研(株)、)何かご意見がありますか。
冨田 この点で、ですか。
名取 はい。
冨田 この点で、on-site分析を分析業者がやりたがらないことは、現場の測定は誰でもよい、アルバイトでもよいなどと思っている分析官がかなり多いのです。取ってくる人は取ってくる人、分析する人は分析する人で、「真っ黒で何にも見えないんです。どうしましょう」などということを、平気で偏光顕微鏡講習で聞いてくる人もいます。ラボで分析ができる人は少なくてよいという、多分もうお金だけです。
名取 なるほど。そのような総合的観点がないということですね。ありがとうございました。
名取 日本環境測定協会で、先生は分析の標準化として、いろいろなサンプル作りをされたと思うのですが、苦労された点や、やってよかった点についてお話をいただければと思います。
小坂 空気中濃度のアスベストの繊維の計数については、例えば、水の中の汚染物質であれば、標準の試料を作って、同じものを全員にばらまくということで、精度管理や技術の向上ができるわけですけれども、このアスベスト分析の場合は、顕微鏡をのぞく者は1人ですし、その人が繊維を見つけること、それが計数対象かどうかを判定することを全部、1人でやらなければならないわけです。ですから、そのような点では、他の分析業務と比べると、自動分析にかけるわけにもいかないし、一人ひとりの分析者が検出器ですから、大変な作業だと思うのです。
人間が検出器ですから、何とか皆さんがアスベストの判定をできるようにしなければならないわけで、そのためには、みんなが同じサンプルを見て、比較できるようにする必要があるわけです。ただ、顕微鏡の場合は、みんなに同じサンプルを送ることができないわけです。一つのフィルターでも、それを細かく分けてサンプルを作るわけですから、その面積ごとに乗っているアスベストの量が全部違いますから、同じものを作ることができないわけです。ですから、一つ一つの試料、サンプルについて、正解値を全部、誰かが出さないといけないわけです。それを全部、作らなければいけないわけです。
名取 それを小坂先生が、頑張って、やられたということですね。
小坂 そうです。2人が続けて同じところを見て、ここにある、なしとできればよいのですけれども、そのようなことはできないから、スライドが10枚あって、それの基準の答えを作るときに、全員が同じスライドを全部見て、決めないといけないわけです。だから、作業が大変になるわけです。そのようなことがあったので、私の場合は、まず自分で全部の視野を見て、自分で答えを図に作って、あと2人か3人に、そのスライドと、視野の番号と、スライドの自分が見た、円形の視野の中のこことこことにアスベストがありますという図を書きます。
名取 それは、リロケーションスライドなど、そのあたりのこととして、ありますね。
小坂 そうです。そのスライドは、同じ場所を見られるというリロケータブルな、同じロケーションを再現できるというスライドですから、縦横に座標があって、「Aの1」という円に持ってくれば、みんなが「Aの1」を見られるように、碁盤状になっているわけです。
名取 アスベスティフォームなどのところで、劈開・アスベスティフォームの点では、ご苦労されたでしょうか。
小坂 それは最初、入れるか、入れないかというところでは、いろいろと議論があったことを記憶していますけれども、劈開粒子をアスベストとしてはいけないということについては、それほど……、どうでしたか。
名取 でも、皆さんにそれを普及させたということなのでしょうか。
小坂 そうです。比較的、皆さん理解されたし、省庁も採用してくれたのではなかったかという記憶があります。
名取 でも、それは、先生方がご努力された結果ですね。
小坂 そうです。それについて、きちんとしなければいけないという方々が、何人もおられました。
名取 このようなところで分析の講習を受けた方々が広がって、だんだんアスベスティフォームという概念が広がったということですか。
小坂 はい。皆さんの力で、そのような標準が行き渡ったのだと思います。
名取 ありがとうございます。
8番目をお願いします。あとは、石綿問題総合対策研究会ですが、宇野先生をはじめ、榎並先生にご講演などいただいたと思うのです。少しその辺で、宇野先生、プラス榎並先生について、簡単に、1分くらいでご説明いただけますか。
小坂 私のアスベストの先生は、元阪大におられて、最後は名古屋工業大学の教授で終わられた宇野泰明先生という鉱物学者で、その方にいろいろなことを教えていただきました。その方に榎並先生を紹介してもらい、その榎並先生も非常によい方で、いろいろと教えてもらいました。われわれの日環協の事業などにも協力していただき、大変お世話になった先生です。そのようなことです。
名取 鉱物学者として、特に角閃石系の専門家として、基礎的なこと、もしくは、劈開・アスベスティフォームなどのことを明快にご説明いただいて、そのような点は、単なる3対1で分けるという話ではないということを、皆さんがよく理解していくきっかけになった先生だということですね。
小坂 そうです。
名取 それから、先生も石問研で何度か発表をされておりますが、ご自分の発表として、何か思い出等がおありでしょうか。
小坂 これと言われると、今、出てこないです。すみません。
名取 先ほどいくつか、「建材の分析とはこうあるべきだ」、「気中濃度分析とはこうあるべきだ」、「NIOSHのロードマップを日本でどう生かすべきか」という3点の発表をされたと思うのです。そのあたりで何かご感想があれば、お願いいたします。
小坂 そうですね。日本作業環境測定協会というものがあり、一時期、アスベスト分析の分野で、いろいろと変なことをして、分析業界もいろいろと混乱したことがあったと、私は記憶しているのです。そのような点で、榎並先生などのお力のおかげで、アスベストとは何かという基本的なこと、それから、分析とはどうあるべきかということについて、少しでも多く、まともなことが、いろいろな分析会社の人や関係者に理解してもらえたと考えています。
名取 最後です。今までの経験を基に、これを見られるアスベストについてかなり詳しく知りたい方や、特に若手の分析の方に、ぜひとも君たちの代で、この辺のことは解決してほしいと思うようなことがありましたら。
小坂 今何が問題か、私が正確に把握しているかどうかはよく分からないのですけれども、アスベスト分析は、確かに顕微鏡でやらなければならないことで、肩も凝って大変なのです。やはり、そのようなものでも頑張ってやろうという力が湧いてくることは、アスベストの問題に対する、何とかしなければならないという使命感でしょうか。大変社会的に有用なことをやっているわけですから、誇りを持ってやれる仕事だと私は思います。ですから、顕微鏡をのぞいて、ちまちましたことをやっていると自分でも思っていますけれども、ひいてはそれが、社会の役に間違いなく立っているのですから、一人ひとりの分析者の方々に、誇りを持ってやっていただきたいです。
名取 先生、どうもありがとうございました。先生、こちらに。
では、小坂先生のお話はこれでいったん終わります。続いて、(冨田さんにお話いただきます。)今の小坂先生のお話を受けて、少しこれは補足しておかなければいけないという点や、「この点は、いやいや、小坂先生はご自分で恥ずかしくて言わなかったかもしれないけれど、このようなことで、よいことがありました」などという先生の思い出や、先生に関係して経験したことなどについて、何かあればお話しください。
冨田 私が知っている小坂先生といいますか、聞いたり、現場で経験したりしたことですが、小坂先生は兵庫県の時代に、3人くらいの研究者の方で一緒に回られていて、私は、その他のお二人とはよくお会いすることがあったのですけれども、小坂先生と直接、会うことはなかったのです。ただ、今現場に行くと、昔は、あの背の高いおっさんがいて、ものすごい厳しかったけど、今は楽勝やな」と言っている現場を管理される方も、結構いらっしゃるのです。
先ほど、経験されて改善できたという話は出なかったですけれども、私が何回かお聞きしたことがある現場では、少し長期にわたる工事現場で、2回目くらいの測定で、分析屋が前日に測定したところに、もう一度、小坂先生が次の日に行ったら、大変なアモサイトが漏洩していたので、分析屋をすぐ呼びつけて、これはどのようなことだという確認をしたそうです。そこの現場のゼネコンの担当の方もよい方で、小坂先生がアドバイスしたことで、集じん排気装置を何台も入れて、やり直したという工場の話を聞いたことがあるのです。そのような成果もたくさんあります。
あとは、日環協(日本環境測定分析協会)での先ほどのリロケータブルスライドの精度管理のお話ですけれども、先生は1個ずつ答えを作っていくのです。それで、「受験者の答えと、自分の答えと、合うか合わないかだけで採点しない」と言われるのです。違う答えがあったら、その全部のスライドの視野を絶対に確認するという恐ろしいことをやっていらしたのです。「いや、これは、どうにも1個、変な繊維が書いてあるんだよな。俺にも見えないんだけど、見てくれよ」ということを言われました。そのようなことで、自分が答えを作って、その他2、3人の方がまた答えをさらにそれに合わせて作るのですが、その答えが絶対ではなくて、その違う答えを書いている人は何を見て間違えているのか、本当にそこに繊維があるのか、ないのか、書かれた答えも全部確認するという、細かなといいますか、本当に育てようといいますか、そのような、分析者をきちんとしようという姿勢でやってこられたことは、すごいと思っています。先生の功績から、面倒くさいので、どんどん楽の方向に移行しつつあるかと感じて、少し不安を持っています。
小坂 繊維の顕微鏡の計測は、必ず間違うものだという前提でやらないと駄目だと思っているのです。だから、変な言い方ですけれども、確信を持ってやっているのだけれども、自信はないのです。もしかしたら間違っているということを、常に思っていました。今も思っていますけれども、そのようなものだと思います。