Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
開催日時: 2019年10月30日(水) 18:15~20:00
於: Zビル4階会議室
被災者救済の裾野を広げ、救済の峰を高く-1995年からアスベスト裁判を担当し、多くの勝訴判決を勝ち取るとともに、それを梃子(てこ)としてアスベスト被害者の救済を実現してきた古川武志弁護士。
古川弁護士の揺るぎない姿勢とその活動が、その後のアスベスト訴訟に与えた影響は大きい。
自身が担当した過去の事件を振り返りながら、アスベスト訴訟が切り開いてきた被害者救済の道、そしてアスベスト被災者の救済問題の将来像について語る。(視聴時間:1時間26分56秒。肩書は2019年10月30日登壇当時のもの)
名取 古川武志弁護士は、1993年頃から、横須賀でのアスベストの様々な訴訟の準備に入られて、とくに日本で初めてアスベスト肺がんの訴訟、大内訴訟を担当された弁護士です。その後も米海軍横須賀基地の訴訟等を主任弁護士としてまさに切り開かれてきた方であります。その蓄積をもとに2005年のクボタショック以降、様々なアスベストの会社に対する訴訟や肺がんが労災として認められなかった方の訴訟に携わってこられました。
今回の講座で、古川先生は、弁護士という立場で被害者救済にかかわってきた軌跡について語られています。私は医師であり、また支援団体の立場として、古川先生が語られなかった部分、たとえばアメリカに対する情報公開請求などについて、古川先生がご存じないところで支援団体が頑張って準備した部分があります。また、米海軍横須賀基地の疫学調査の準備などについても、古川先生は成果のところをご存じですが、支援側から見ると、もう少しいろいろ触れてほしかった部分がないわけではありません。しかし、法律家、弁護士、今後もまだ続いていくアスベスト被災者の方にとって、いろいろなことを考えながら進んでいかれた弁護士の代表として、私も尊敬してまいりました。その先生の歩んだ道は、今回の話の中にだいぶ語られたと思います。ずっと頑張ってこられた先生の中には、先生のご両親がどのように戦争を体験されてきたのかということもあると聞いております。今回、先生はその点についてほとんど語られていませんが、先生の生き方の背景的な部分についても語っていただければ、もっとより深みのあるものになっていたのかもしれないと思いながら、今回のビデオを見させていただきました。
南 今回の講座の見どころですが、ゲストの古川武志弁護士は、裁判によるアスベスト被害の救済・補償の実践的取り組みをされた方で、その生の歴史について語っていただいています。古川先生が主に取り組んで来られた訴訟は、職業ばく露によるアスベスト被害者の労災認定に関するものと、労災の上乗せ損害賠償を求めるものです。この二つの概要については、冒頭で説明されます。
大きくは4つの事件、テーマについて語られます。第1の事件は、造船所での労働で石綿肺がんの労災認定を受けられた被害者の労災上乗せ補償を求めたものであり、1995年提訴で、国内のアスベスト関連の訴訟としても先駆的なものでもあります。第2の事件は、1999年に第1次訴訟が始まった、米海軍横須賀基地の石綿じん肺の損害賠償請求訴訟であります。基地労働者に対するアスベスト対策の不備に関する国の責任について、アメリカから取り寄せた公文書が決定的な証拠となったり、この訴訟の一連の和解がクボタショックの直前であったことなど、日本のアスベスト訴訟の歴史において、見逃せない事件であろうと思います。
第3の事件は、ホテルのボイラーマンをしていた方の事案で、石綿肺を合併しない中皮腫被害者の損害賠償請求訴訟です。当初は、死亡慰謝料の金額をめぐって減額されないことを焦点としていたところ、地裁判決では敗訴となり、高裁判決で逆転勝訴になるなどの二転三転はありましたが、最終的には中皮腫の死亡慰謝料の水準を高いものとして確定することになる、象徴的な事件として位置付けられます。最後の第4の事件は、アスベスト肺がんの労災認定をめぐっての行政訴訟の一連の事件です。アスベスト肺がんの労災認定基準の変遷や内実を理解する上で、とくに講座本編にて注目していただきたい部分です。
位田 皆さん、こんばんは。本日のインタビュアーを務める弁護士の位田浩といいます。本日の講師は、ご案内のとおり、弁護士の古川武志先生です。古川先生、よろしくお願いします。
古川武志先生は、1986年に弁護士となられまして、アスベストセンターについては設立当初から運営委員を務められ、アスベスト訴訟に長く関わってこられました。
これから、私が古川先生に質問をして、インタビューをする形で講座を進めたいと思います。今日は、古川先生が関わられた4つの裁判(①大内訴訟:石綿肺がん損害賠償請求、②米海軍横須賀基地石綿じん肺訴訟、③ホテルボイラーマン訴訟:中皮腫損害賠償請求、④石綿肺がん労災認定訴訟)について、お話をしてもらう予定です。この4つの裁判のうち、①から③がアスベスト被害についての損害賠償にかかわる裁判です。④が労災認定にかかわる裁判です。まず、①から③の損害賠償にかかる裁判からお話をうかがっていこうと思います。
前提として、労災の支給と損害賠償請求の関係について、古川先生、ご説明いただけますか。
古川 はい。今日はよろしくお願いいたします。アスベストの被害に遭う方は、環境の方もあるのですけれども、大体が仕事の上でアスベストを使って被害に遭われます。そのような方は労災を申請して、労災認定を受けられれば、労災給付が支払われます。でも、労災の支給は被害者の損害を全部支払ってくれるのかというと、そのようなものではなく、支給される費目や金額が限定されています。慰謝料などは払われません。そこで、支払われない部分について、雇用主に対して損害賠償を求めるということになるわけです。
労災と損害賠償にはもう一つ、大きな違いがあります。労災の場合は、雇用主の過失は問われません。ところが、上乗せの損害賠償請求の場合には、雇用主に過失がないと認められません。だから、過失の有無が裁判の争点になります。先ほどの4つの裁判のところを出していただけますか。位田先生からお話があったように、①から③が上乗せ損害賠償の裁判の話です。労災が出ない場合には国相手の裁判になるのですが、それが4番目の裁判になります。だから、今日は①から③と、④国相手の労災認定をめぐる裁判の話ということになります。
位田 古川先生が初めて担当されたアスベスト被害の裁判は、どのような裁判だったのでしょうか。
古川 それは、ここに出ている大内訴訟と言われる裁判です。1995年に始まって、1997年10月までかかりました。これは石綿肺がんの裁判としては、日本で初めての裁判だったと思います。この裁判をするようになったきっかけは、本当に巡り会わせとしか言いようがないです。私が1986年4月に弁護士になりまして、最初は藤沢市内の合同事務所に入って仕事をしておりました。その頃、ちょうど横須賀で住友重機を被告とするじん肺訴訟をやるという話がありまして、その準備が始まっていたのです。私の同期の弁護士なども、その裁判に加わってやっておりました。ただ、私はその頃、アスベストもじん肺も興味がなかったものですから、関与していなかったのです。
それがたまたま、1991年5月に私が横須賀市に移転しまして、自分の事務所を開設したわけです。そうしたところ、住友重機を相手とするじん肺の弁護団から「裁判が終わった後の会議をやる場所がない、おまえの事務所を貸せ」と言われまして、私は「はいはい、いいですよ」という形でやっていたのです。そうこうしているうちに、本体の事件とは別で、大内さんという方の石綿肺がんの事案が出て来て、本体の弁護団から「もう、ちょっと自分たち手いっぱいでできないから、おまえやってくれ。本体の事件が和解で解決したら、そっちも自動的に解決するから心配するな」ということを言われました。それを真に受けて、比較的軽い気持ちで引き受けて始まったということが本当のところです。
位田 大内さんの肺がん訴訟は、どのような事案だったのでしょうか。
古川 横須賀に浦賀ドックがあります。これ(スライド)はドックの写真なのですけれども、このようなところで住友重機が船を造っていたわけです。大内さんという方は、浦賀ドックに長く勤めていた方で、亡くなられるだいぶ前から、住友重機がここの経営をしていたわけです。大内さんは、重量物運搬工といいまして、エンジンなど船の重い機械を船舶に運び入れたり、運び出したりする職人さんです。石綿による肺がんにかかり、1991年に亡くなられました。この方は、石綿肺はありませんでした。肺組織から石綿小体や石綿繊維が検出されて、解剖時に肉眼で胸膜プラークが認められたという方です。1992年3月に労災認定を受けられました。
位田 当時、石綿肺の損害賠償裁判も住友重機の裁判くらいで、アスベストの訴訟が少なかった時期に、いきなり石綿肺がんの裁判を起こすということは、勇気のいることだったのではないですか。
吉川 当時は、住友重機の裁判の前に1件解決している、平和石綿という長野の石綿工場の事件がありました。住友重機の件が裁判になっていますけれども、ほとんど石綿関係の裁判はない時代でした。ただ、私はその当時、そのようなこともろくに知らなくて、さらにアスベストの知識などはまったくなかったのですが、「本体が解決したら、そっちもおまけで解決するから」ということで、軽い気持ちで引き受けたのです。事件について調べ始めますと、石綿肺はないし、そうすると、肺がんといっても石綿ばく露との因果関係という問題が出てきて、簡単に和解になる話ではありませんでした。最先端の難しい問題に最初から当たってしまったわけです。ここのところは、横須賀中央診療所の医者の名取先生や春田先生からかなりレクチャーを受け、自分でも勉強しました。
位田 裁判では具体的にどのような立証をされたのでしょうか。
古川 本体の裁判が進んでいますから、労働者の仕事内容や石綿ばく露の事実、住友重機に過失があることはがっちり立証がされていたので、それを流用させてもらえばいい状態でした。ただ、石綿の肺がんというと、因果関係が難しい問題として出て来ます。どうしてかというと、肺がんはアスベストだけではなくて、他にもいろいろな原因があります。たとえば、たばこが一番の大きな原因なのですが、どうしても「本当にこれはアスベストが原因なの?」という議論ができてしまうのです。大内さんは喫煙のあった方でしたが、亡くなった後に解剖をされた横須賀共済病院の病理医の先生が、当時でいえば、おそらく病理医の中ではアスベストを一番よく扱って知っていた先生でした。裁判では、その方に証人に立っていただいて、「いや、もうこれはアスベストが原因とみてよい」という証言をいただきました。
位田 裁判の結果としては、勝利的和解にたどり着いたということでしょうか。
古川 はい、そういうことです。勝利的和解ではあったのですけれども、勝った要因としては、じん肺の本体の裁判で押し込んで、それが解決したことが大きかったと思います。この年表(スライド)を見てみると分かると思うのですが、1997年3月に本体の裁判が和解で終結して、その半年後くらいに和解ができました。だから、立証の点では、被告の住友重機側に和解するかと思わせるくらいの立証はできたのではないかと思っています。
位田 ちなみに、和解金額は幾らだったのでしょうか。
古川 これは私の主義ではないのですけれども、一応、和解のときに金額を公表しないことになっております。ただ、十分に満足するべき金額だったと思います。
位田 1997年10月に大内石綿肺がん訴訟を勝利和解で終結されます。引き続いて、いよいよ横須賀の裁判所で闘われた米海軍横須賀基地石綿じん肺訴訟ですが、これはかなりの大型の訴訟になるわけですが、最初に関わられた大内訴訟は、先生がその後のアスベスト裁判に取り組むに当たり、どのような意味がありましたか。
古川 実際の話、基礎勉強の場となりました。このような言い方はどうかと思うのですが、最初に石綿肺なしの石綿肺がんに取り組んだことが、勉強という意味では良かったのだと思います。そこである程度基礎を固めて助走し、その上で横須賀基地の裁判に取り組んだということになります。だから、基地の裁判に取り組むときには、医学的なことは一応、大体頭の中に入っている状況でした。
位田 基地の裁判に取り組むことになったきっかけは、何かあったのですか。
古川 これは、基地のアスベスト被害者の方が当時の防衛施設庁に賠償を求めたのですけれども、門前払いをされて全くらちが明かないということで、私のところに持ち込まれたのです。やはり、人間は誰でも生きている誇りがあり、門前払いされたときに、自分が人間としてきちんと扱われていないという気持ちが被災者の方たちに芽生えたようで、そのようなことが裁判につながったということだと思います。
位田 それでは、米軍基地の裁判についてどのような裁判であったのか、少しご説明していただけるでしょうか。
古川 少し(スライドの)概要を見ていただきたいと思うのですけれども、横須賀という町は東京湾の入り口にありまして、昔から旧日本海軍の基地で「横須賀海軍工廠」という造船所がありました。それをアメリカ海軍が戦後に引き継いで、新しい船は造らないのですが、軍艦の修理や点検のための「艦船修理廠」を作り、それを中心とした基地を運営しているわけです。普通の商船と違い、軍艦の特徴があります。戦争をやる船ですから、いろいろな機能を目いっぱい詰め込むので、艦内がとても狭いのです。敵の火力を受けても火災を起こさないようにするために、当時はアスベストをたくさん使っていたということになります。
被災者の特徴ですけれども、造船所のじん肺は、石綿肺もあるのですが、他にも溶接工の方など、原因物質が石綿だけではなくて、いろいろあります。でも、横須賀基地の被災者の方は、基本的に全員石綿肺所見があって、ごく一部の人に粒状影という、レンガの粉じんなどを吸ったときの陰影が見られます。だから、石綿粉じんのばく露の度合いが造船所の中ではかなり強いのです。戦前の海軍工廠時代から少年工として働いていた人たちを、米軍が基地をやるようになってからまた集めるのです。そのような方が多かった。退職後に、石綿肺に続発性気管支炎を合併するという方が中心でした。
裁判では、アメリカ軍を相手にして裁判をすることはできないのです。どうしてかというと、雇っているのが日本国だからです。日本国が雇った人たちを米軍が指揮命令をして使用する。「間接雇用」というのですが、そこで国相手の裁判ということになりました。
位田 米軍基地の裁判ですが、年表を見てもらいますと、1999年7月に第1次訴訟を提訴されて、約6年後の2005年5月に第3次訴訟が和解で終結となり、約6年間で解決に至っています。弁護士の感覚からすると、展開として比較的早く解決に至ったのではないかと思われるのですが、この裁判の提訴に当たり、古川先生が気を使われたことはどのようなところでしょうか。
古川 原告はもともと病気を抱えている人たちですから、裁判を抱えることは、やはりどうしてもストレスになります。被告は国ですから、和解も簡単にできる話ではなく、最初の事件は判決を取るようになります。とにかく十分な準備をして、早く判決を取って勝つということです。前の住友重機の裁判では、住友が結構頑強に抵抗して9年近くかかったので、そうならないようにという思いがありました。ですから、始まるときに「一審通過3年」ということを宣言して、「3年間我慢してくれ。一審判決が出れば局面が変わるから、体に気を付けて我慢してね」という話を原告にしました。
位田 ずいぶん大胆な決意で取り組まれたのですね。
古川 先読みすると、大体どれくらいで取れるかということは何となく読めるものです。もっとも支援者の中には、「今度の弁護士は、いろいろ(ホラを)吹くんだ」と言って、最初は信用しない人もいました。
位田 年表を見ますと、1999年7月に提訴して、一審判決が2002年10月ということで、3年を少しオーバーしているようですね。
古川 詳しく言うと、提訴したのが1999年7月7日で、裁判所はいちど2002年7月8日に判決日を指定したのです。そのあと、判決日が変更されて、10月にずれこんでしまったということです。私は、最初は「1日違いだろう」と言って自慢していたのですけれども、残念ながら変更されてしまいました。
位田 3年で判決を取るために、どのような準備をされたのでしょうか。
古川 冒頭にお話ししたように、やはり被告の過失の立証が必要ですから、米軍の対策の不備、そこを捕まえないといけないのです。1980年頃の石綿対策のマニュアルや、80年代に基地従業員にじん肺健診をしなかったので労務管理部門が行政指導を受けていたというような事実などは入手できていました。原告の記憶と併せても、1980年代の冒頭くらいまでは対策がされていなかったと思われました。米軍の内部資料が欲しいのですが、基本的に基地の書類は外に出してはいけないものとなっていますので、なかなか入手が難しいのです。そこで、提訴の1年以上前からなのですけれども、アメリカ政府の情報公開制度を使って、横須賀基地の公文書を取れないかということを試みました。
位田 アメリカの情報公開制度、それはどのように知ったのですか。
古川 岩波新書に『在日米軍』という本があると思うのですが、この本を書いた梅林さんという方がペンタゴンから情報公開でいろいろな文書を取り寄せて、本を書いておられます。この方のところに名取先生と一緒にうかがって、やり方を教えてもらいました。アメリカの情報公開制度は、外国人がやっても出してくれるのです。「コピー代をよこせ」などとけちなことも言わずに出してくれます。びっくりしました。少し話が飛びますが、アメリカ軍の対策などを見ていると、向こうのアメリカの考え方は日本と違い、何か問題が起きたときに、誰に責任があるのかということを後から検証できるように、いろいろなことを記録に残すというのです。日本の役所は情報公開制度などが始まると、なるべく記録に残すことをやめようとなるのですけれども、そのような意味では、やはり随分違うと思いました。
位田 その情報公開制度で、どのような資料が取れたのでしょうか。
古川 そうしたら、艦船修理廠、SRFというのですが、軍艦を修理するところです。そこのトップが日本人従業員向けに出していた『錨』という広報紙が入手できました。おそらく広報紙であるということから、情報公開の対象になったのだと思うのですけれども、それで、1978年11月から横須賀の艦船修理部門で、アスベストコントロール計画が始まったということが分かったのです。それがいろいろな証拠をつなぐ決定打になったと思います。
位田 今、スライドで見ている、これですね。
古川 そうです。少し見にくいのですけれども、冒頭「SRFのアスベストコントロール計画は、すでに適切な組織機構を立て、今までSRF従業員と200名にのぼる請負業者従業員に対して指導訓練が実施された」となっています。あとは、書かれていることは少し読みにくいのですけれども、要するに、その前にハワイのパールハーバーでセミナーが開かれて、アメリカの士官と日本の従業員が行って、そこで教えてもらったことを持ち帰ってやりました。第1回訓練コースが1978年11月7日に開講されて、その後、順次開かれているということが書かれています。この他にも何本か記事が出ていまして、少しずつ対策が高度化されていったことが分かりました。今は、防衛省に組み込まれてしまっていますけれども、当時、日本の裁判を担当していたのは防衛施設庁という役所でした。裁判が始まってから、「なんで、先生は俺たちの持ってない資料を持っとるんだ」ということを言っていました。
位田 その他に、早く勝つためにどのような工夫をされたのでしょうか。
古川 あとは予見可能性、例えば、今までアスベストのことがどのような形で知られてきたのか、医学的な知見がどうだったのか、どのような具合に法令の規制がかかっていったのか、そのようなものを一通り調べ切って、訴状の記載も最終準備書面的なものにしてしまい、最初にどんと出すということをやりました。それから、やはり医学的なところで争いになるわけなのですけれども、主治医の医者に、レントゲンやカルテをいつ出してもいいように準備していただいたということがありました。
位田 裁判所に出した訴状は、何ページくらいになったのですか。
古川 今は裁判所に出す書類はA4の横書きなのですが、昔はB5版の縦書きです。それが当時で200ページと少しでした。
位田 第1次訴訟は完全勝訴ということになったのですね。
古川 そうです。
位田 年表に戻りますが、その後、時効の対象者が3人おられて、その3人について高裁で逆転敗訴して、最高裁でもその敗訴が確定するということだったのですか。
古川 そうです。
位田 結局、1次訴訟の原告の方については、どのような結果になったのでしょうか。
古川 1次訴訟は患者単位でいうと13名なのですけれども、その方々が最終的にどのようになったかということをまとめた表(スライド)です。まず時効の問題ですけれども、⑨番、⑩番、⑪番が時効対象となっている方です。労災認定から10年たつと、時効で雇用主の責任は問えなくなるとされているのですが、それはいかにも、このような病気でひどい話でありますので、時効を主張すること自体が権利の濫用で許されないと主張したのです。一審の裁判所は認めたのですけれども、この人たちだけ控訴されました。東京高裁では「権利の濫用じゃない、やはり時効だ」とひっくり返されたということです。
それから、賠償金の数字が出ております。管理2合併症が1,400万円、管理3イ合併症1,800万円、亡くなられた方が2,500万円です。これは当時の最高水準の賠償金額です。13名の中で当初からご遺族が原告というのは⑦番の方です。訴訟前に肺がんで亡くなられた方です。その他の原告は、提訴時にはご存命だったわけです。⑥番の方が裁判中に中皮腫で亡くなられて、⑩番は裁判中に他の原因で亡くなられました。それから⑬番が裁判中に肺がんで亡くなられました。⑬番は、ご遺族が裁判をやりたくないということで裁判の取下げという形になりました。だから、最終的には12人が判決をもらった形になります。現在ご存命なのは⑧番の方だけです。ここで見ていただきたいことは、ご存命の⑧番の方を除いた12名の方の死亡原因です。石綿肺になったからといって石綿肺で亡くなるわけではなく、例えば消化器系の病気などで亡くなってしまうこともあるわけです。⑧番以外の12名の死亡原因を見ていただくと、②番、③番、⑦番、⑨番、⑬番の5人が肺がんです。1人が中皮腫ということです。石綿肺になった人は、それだけ吸っているとやはり肺がんになるのだということを、本当に思いました。
位田 年表に戻りますと、1次訴訟の判決をもらう前に、2次訴訟を提訴されて、さらに1年後に3次訴訟を提訴しているという順番になっています。それぞれの原告になられた方の内容は、このスライドのとおりでしょうか。
古川 はい、そうです。
位田 これを見ますと、2次訴訟は石綿肺の合併症の方、それから、3次訴訟になると肺がんの方が4名いらっしゃいます。これは、たまたまそのような原告になったのでしょうか。
古川 いや、これは意図的に、このような陣立てにしました。だいたい1次訴訟が結構早く進んで、先が見えた頃にやはり自分もやりたいという方たちが出てくるものなのです。2次訴訟の役割は、裁判でスムーズに和解ができる道を切り開くという点にあります。肺がんは、先ほどお話ししたように因果関係の問題がありまして、混ぜ返すといろいろなことが言えるのです。ですから、そのような人たちは後回しにして、とにかく2次訴訟は管理2合併症、管理3合併症の方たちに絞ったということです。人間というものは、2回くらい負けると、3回目は戦意を失うものなのです。だから、2回目をきれいに(国に)負けさせるということを考えて、このような陣立てにしました。
位田 2次訴訟は和解に至っていますが、この和解について、国は抵抗したのでしょうか。
古川 これは、結構抵抗しました。どのようなところを抵抗したかというと、じん肺ではないというところは、医者の頑張りで1次訴訟でつぶしてしまったので、国は言えなくなってしまったのです。言うところはあまりないのですけれども、要するに「他で石綿を扱った職歴がある、基地を数年間離れていて、その間住友へ行っているじゃないか、その間の他の原因もあるはずだから、ちょっと(賠償額を)まけろ」ということを結構頑強に言ってきました。ただ、裁判所がそれをあまり相手にしないで、最終的には国が折れて和解ということになりました。
位田 3次訴訟は、この2次訴訟の和解後わずか半年で和解に至っているのですね。
古川 そうです。
位田 この3次訴訟は、あまりもめなかったのですか。
古川 これは、第2次訴訟ですったもんだしているときのおまけでやっています。一緒に事件がかかっているから、第2次訴訟を先にやって、3次訴訟は次になるのですが、おまけでやっているという感じで、第2次訴訟が和解解決してしまったら、国側は、もうこちらが悪いですという感じで、すぐに和解の成立という形になりました。
位田 3次訴訟が和解できたのが2005年5月です。同年6月にクボタショックが起きます。その後、様々なアスベスト訴訟が提起されていくわけですけれども、古川先生はこの基地の裁判で使った書面、裁判所に出した書面や証拠を、アスベスト問題に取り組む他の弁護士に提供されましたね。
古川 はい。
位田 後から裁判に取り組む弁護士に、自分が作ったものを利用してもらい、取り組んでもらうようにしていたということでしょうか。
古川 はい。
位田 私も古川先生の訴状などをたくさんいただいて、裁判で利用させてもらいました。
位田 次に、中皮腫の損害賠償の裁判に入ります。札幌のホテルボイラーマン訴訟です。これは、どのような裁判だったのでしょうか。
古川 その前に、少し前置きが必要なのですけれども、先ほどの米軍横須賀基地の裁判では、石綿肺の患者さんだけではなく、石綿肺合併中皮腫の方、石綿肺合併肺がんの方、石綿肺のない肺がんの患者さんがいたのです。石綿肺のない中皮腫の患者さんは、米軍基地の事件ではいませんでした。石綿肺に合併しない中皮腫事案の初めての判決が、関西保温事件という事件です。2005年4月に東京高裁の判決が出たのですけれども、この事件では、高裁が中皮腫については予見困難であるとして、死亡慰謝料を1,500万円に減らしたのです。先ほどの米軍基地の裁判では、死亡慰謝料が2,500万円でした。1,000万円も違っているわけなのです。この関西保温事件判決自体は先進的で評価できる判決なのですけれども、ここ(賠償額)が弱点だったわけです。
これを何とかしないといけないとは思っていたのですが、その次に出た例目の札幌地裁のホテルボイラーマン事件では、減額されるどころか、まさかの一審敗訴で負けてしまいました。私が高裁へ控訴をするときから参加して、年少しで札幌高裁で逆転したわけです。そのときの死亡慰謝料が3,000万円でした。かなり高い部類なのですけれども、札幌高裁は1,500万円の基準を踏襲しませんでした。ボイラーマンの事件は、その後最高裁で確定します。その下の2009年7月の判決は私がやった事件です。米軍基地の中で現役の従業員が中皮腫になってしまったという事件がありまして、判決を取ったのですけれども、この死亡慰謝料が2,800万円でした。この件の判決で、関西保温事件で高裁が出した1,500万円の基準が実際的には反故になり、その後、この1,500万円を踏襲する裁判例は件もなくなったということです。
位田 中皮腫の被害についての慰謝料の水準が2,800万円、あるいは3,000万円という水準に固まったということなのですね。古川先生がアスベスト被害の損害賠償裁判をやる上で、一番重要だと考えるポイントは何でしょうか。
古川 基本中の基本ということなのですけれども、ばく露事実です。石綿があって、石綿にばく露したという、この事実の立証をきちんとやります。確かにこれはあったことなのだということを、裁判官に納得させることが一番大事だと考えています。
位田 ばく露事実の立証、そこをおろそかにすると、裁判では負けるということでしょうか。
古川 そうです。ただ、中皮腫の場合は、例えば造船所のように集団で患者さんが出てくる、被災者が出てくるところばかりではありません。本当にぽつん、ぽつんと、一つの職場でその人しか出てこないということが結構あります。中皮腫の患者さんは、結構早く亡くなる方が多いものですから、実際には、ばく露事実についての資料があまりないという場合もあるのです。家族が聞いていた話、それから労災復命書の資料で少し書かれていることくらいしか材料がなく、他方で、相手方は証人に出てくる現場の人が何人もいて、証人を立ててくるだろうという場合があると思います。
少し専門的な話になるのですけれども、ばく露の有無が双方の証人の証言の信用性にかかってくる場合があります。そのようなときには、簡単にあきらめないことが大事だと思っています。相手方証人は、絶対にどこかうそをついてくるのです。必ずうそをついてきます。ただ、上手にうそをつくことは、非常に難しいのです。例えば、大企業の役員クラスなどになると、やはりうそをつくことが結構うまいです。ただ、現場で作業をしている人はそれほどうまくないし、しかも嫌々出てくるということがあります。そのうそがどこかで破たんするということが必ずあると思っていいと思います。だから、うそをつかせて、それを反対尋問で叩きます。ボクシングでいうと、カウンターパンチで相手を倒すようなものになるのですが、その上で、尋問の結果などを最終準備書面にぎっちり書き込みます。これでもかというほど書くことが大事だと思います。
ただ、このような事件の場合には、判決は取りません。どうしてかというと、供述証拠の評価は非常に微妙になりますから、このような場合は判決を取らずに和解にします。判決を取っていいのだという顔をしながら、冒険しないで「和解してやる」と言うことが大事です。
位田 では、今日のもう一つのテーマである肺がんの労災認定をめぐる行政訴訟の話をうかがっていきたいと思います。この話は少し前提が必要ですので、先生からご説明いただけますか。
古川 これから多分眠くなるような話をしないといけないのです。アスベストによる主な病気は、石綿肺や中皮腫などはアスベストが原因と考えていいのですが、先ほどから話に出ているように、肺がんは喫煙が一番大きな原因で、大気汚染も原因になるなど、いろいろあります。ある人の肺がんの原因が何かという「この人はこれだよね」ということが臨床的に決められなくて、疫学的なところから推定していくことしかないのです。
労災ではどのようにやっているのかというと、疫学的に肺がんの相対リスク倍に達していると、難しい表現なのですが、簡単にいうと「このくらい吸ったら、人に人は肺がんになるよね、それが疫学的に明らかになってるよね」という場合に、肺がんの原因になるということにしています。相対リスク倍、人に人が肺がんになることを、疫学的な指標としてどのように立てていくかが問題となりますが、このような考えに基づいて肺がんの労災認定基準は作られてきているわけです。
平成18年に出された平成18年基準というものがあります。これは、石綿ばく露労働者に発生した原発性肺がんで、「ア、型以上の石綿肺」のある人はアスベストの肺がんと見ていい、それから「イ、石綿ばく露作業の従事歴が10年あって、(ア)胸膜プラークがあること、(イ)肺内に石綿小体、石綿繊維が認められること」、(イ)には但し書きがあります。「ただし、一定量ある場合には10年未満でもいい」と書かれています。基本的には「曝露歴が10年あって石綿小体、石綿繊維が出て来れば、これは石綿の肺がんだよ。ただし、乾燥肺重量g当たり5,000本以上の石綿小体、ここに書いてある石綿繊維が出ている場合には10年未満でもいい」というつくりが、平成18年基準として出されたのです。
石綿肺やプラークがある人はいいのですけれども、そうではない人は、石綿小体の数か石綿繊維の数でやらないといけない。この平成18年基準がどこに準拠しているかというと、1997年に出されたヘルシンキ基準です。ヘルシンキで専門の医者の会議が開かれて、そこで作れらたコンセンサスレポートがあります。それによると、石綿には、アンフィボルという角閃石族のアモサイトやクロシドライトと、もう一つは、一番多く使われているアスベストで90%以上を占めるといわれている蛇紋石族のクリソタイル、この種類があります。蛇紋石(クリソタイル)の方は、石綿小体を作りにくく、石綿繊維が体の中に残りにくく、流れてしまいます。他方で、アンフィボルの方は肺の中に比較的残り、5ミクロン以上が200万本、またはミクロン以上が500万本あれば石綿による肺がんと認められるというヘルシンキ基準があります。これが平成18年基準のもとになっているわけです。だから、ヘルシンキ基準では、クリソタイル曝露については、石綿小体や石綿繊維ではなく、職歴が一番いい指標だとなっているわけです。平成18年基準の(イ)の但し書きの部分は、ヘルシンキ基準に由来しているということです。
少し脱線しますけれども、平成18年基準は「ミクロン超の場合は500万本以上」とあります。最初は、このように書かれていたのです。ところが、ヘルシンキ基準の方は「ミクロン超繊維500万本」と言って、こちらではミクロンになっています。これは、ミクロンが正しくて、平成18年基準はミクロンと間違えて書いていました。私が裁判の中で「間違ってんじゃない?」と言ったところ、厚生労働省はそのあと訂正しました。
ここからがいよいよ本論になります。ご存じの方も多いと思いますが、これをきっかけにたくさんの裁判が起きてくるわけです。平成19年の基労補通達がありまして、先ほどの平成18年認定基準を通達本でこっそり裏から変えてしまったのです。これはどのようなことかというと、少し分かりにくいかもしれないのだけれども、先ほどのばく露歴が10年以下でも救う基準がありました。ところが、基労補通達は「10年やったら石綿小体5,000本以上出るはずだ」ということで、ヘルシンキ基準からすれば出るはずとはいえないのですが、「出るはずだから、それより石綿小体の数が少なかったら、本省宛てに照会しなさいよ」ということにしたのです。その結果、照会の末に不支給とされる事例がどんどん出て来たのです。
ヘルシンキ基準からいえば、クリソタイルは石綿小体と石綿繊維を作りにくいわけですから、5,000本など出ないことが全く不思議ではありません。ところが、5,000本あれば「10年未満でもいいよ」というところを、「10年の人もきっとそうなんだから、5,000本なければ本省に照会しなさいよ」と言って、5,000本に達しない人をどんどん不支給にしたということになります。不支給にすることはおかしいと、その処分を争う行政訴訟が起こされることになりました。この年表(スライド)はほとんど同時期に進行したつの事件、東京の小林さんの事件と神戸の英さんの事件の経過です。まず、英さんが訴訟を起こして、それから小林さんが後から裁判を起こすという形になりました。東京の小林さんの裁判が天王山になるわけです。どうしてかというと、東京の小林さんの事件で専門家証人の尋問をやり、英さんの裁判ではその証言調書などを提出して、立証に代えたからなのです。
位田 長い前置きでしたが、それでは東京の小林事件の事案の内容を説明いただけますでしょうか。
古川 原告は、大手の製鉄会社に勤めていた技術者の方で、作業工程の工夫や開発などをやっていた方です。回にわたって、5年か月と6年か月、全部で11年5か月くらいの石綿ばく露でした。ばく露期間が10年を超えていることは国も認めているのです。石綿小体数は、回目の計測が1,230本、回目が1,770本でした。石綿繊維については、当時はまだミクロンだと思っていて、ミクロンで石綿繊維測定しているのですが、34万本、5ミクロン超が11万本です。喫煙歴は、肺がんになる30年以上前の数年間、少しあったというだけです。ほぼ非喫煙の方でした。
位田 この小林さんのケースは、10年のばく露歴があり、石綿小体があり、石綿繊維もあるということですから、元々の平成18年基準からすると、当然に石綿による肺がんと認定される事案ですね。
古川 そうですね。
位田 ところが不支給処分になりました。この裁判で、国はどのような主張立証をしたのでしょうか。
古川 労災の認定基準は、国側の学者が作る検討会がありまして、そこで報告を出してもらい、その報告に基づいて労災認定基準を作っていくのです。検討会の常連の学者がいらっしゃいまして、その方が裁判に出て来て「角閃石族の基準でクリソタイルも判断して良い」と言ったのです。どうしてそのようなことを言うのか、これがまた少し難しい話になります。証言では「自分の昔の論文をもとに推計すると、クリソタイルの繊維は40年で分のから5分のに減少する。それから、青や茶の角閃石石綿は肺がんを発生させる力が強いんだ。白(クリソタイル)は角閃石の10分のくらいなんだ」というのです。これは分かりにくいのだけれども、例えば、角閃石の5ミクロン超が200万本ないと、リスクが倍になりません。肺がんの発生力はクリソタイルが角閃石の10分のだとすると、クリソタイルの5ミクロンは2,000万本以上ないとダメで、200万本ではなくて2,000万本必要というのです。でも、クリスタイルは肺内から減ることが分かっていて、最大減っても5分のですから、2,000万本を5で割ると400万本が必要です。そうすると、それを角閃石と同じ基準の200万本で扱うのだから、被災者に対してやさしいのではないかという言い方をしてきたわけです。
位田 国側の主張立証に対して、先生はどのような主張をされたのでしょうか。
古川 これはもう本当に牽強付会の議論であります。まず、このスライドの国側証人の証言②ですが、確かに、クリソタイルの発がん力が弱いという議論はあるのです。そのような論文もあります。しかし、同じだという議論もあり、どちらか一方に収れんしている話ではありません。国側はその一方の議論だけを取り上げるわけなのです。それから、この証言①の方は、細かくは言いませんけれども、「過去の論文をもとに推計すると」というとおり、もともと白石綿の減り方を推計するための論文ではないのです。このような人がいましたという昔の論文の中のたった人だけを取り上げて、それから分かるという、非常に牽強付会というような議論でした。ですから、そこのあたりをかなり詳しく反論して、結局、裁判所はこの議論は取らなかったわけです。
位田 結局、東京地裁は国の主張を認めないで、勝訴したということでしょうか。
古川 そういうことです。この経緯を見てほしいのですけれども、2012年月21日に「石綿による疾病の認定基準に関する検討会報告」が出ます。その日後に東京の小林事件の判決が出て、月には英事件の判決が出るのです。月29日に平成24年基準が出されます。つまり、東京と神戸で裁判が進んでいて、その間に、国は基準自体を変えるための準備として、検討会を進めていたのです。その最終的な報告が判決の出る直前に出て、一審判決が出た直後に平成18年基準が平成24年基準に変わったという経緯になるのです。
位田 これ(スライド)が平成24年月の検討会報告書の内容ですか。
古川 そうですね。簡単にいうと、今までやっていた平成19年基労補通達を、平成24年基準では認定基準に格上げしてしまったのです。格上げするための検討会の報告なのです。いろいろ問題点があるのですけれども、文章が段落あります。上段は、証人に出て来た方の論文のことを言っているのです。第段落目に「その条件を満たす、世界的にも数少ない調査研究に基づいて試算した結果、(クリソタイル繊維は)ばく露から40年で分のから5分のに減少することがある」とあります。裁判所が認めなかったものを堂々と検討会報告に書いたのです。その次に「クリソタイルの肺がんの発症リスクは角閃石族石綿より低い、それが多数出されている」ということが書いてあります。「クリソタイルの肺がん発症リスクは10分の以下の低いものと考えられる」という書き込みをして、認定基準を変えてしまうということになるわけです。
少し脱線すると、今の証拠(検討会報告)も、東京の裁判や神戸の裁判が高裁へ行った段階で、国側が「もう検討会がこう言ってます」と証拠に出してきていました。結局、どちらの高裁も相手にしませんでした。ただし、それに基づいて作られた平成24年基準がここに出ているものになります。どのように変わったかというと、平成18年基準は、基本的には10年ばく露プラス石綿小体・石綿繊維だったのです。ところが、10年ばく露を取ってしまったのです。石綿小体と石綿繊維の数だけで、年以上というものがあります。()の「石綿ばく露作業への従事期間が年以上あること」、これは入れたのですが、曝露歴10年を取ってしまい、「5,000本以上の石綿小体」、「5ミクロン超200万本」または「ミクロン超500万本」で決めることになります。それで、本省協議が付けられて、「1,000本以上の石綿小体」がある場合には本省協議をしなさいということになりました。ただし、()のところを見ていただくと分かるのですが、胸膜プラークのある場合には従事期間10年以上あればよいという基準は残したのです。だから、いうなれば、石綿小体や石綿繊維のところだけ10年基準を撤廃して、プラークは10年を残し、肉眼のプラークだけでも認めるという形になりました。
位田 先ほどの年表を見ますと、一審は東京地裁の方が先に判決をもらって、控訴審となります。神戸の英事件も大阪高裁にかかっていたのですが、控訴審は神戸の英事件が先に判決になっています。これは、何か理由があってそのようにしたのでしょうか。
古川 私はどちらの裁判にも出ていたのですけれども、東京高裁の第回裁判期日で「ちょっとこれ、裁判長、国の方に寄っとるな」という印象があったのです。もちろん、単なる印象だから分かりません。ただ、経験的にいうと、東京高裁は危ないのです。行政相手の事件で、あまり良い判決が出ないのです。何だかんだ言って、国を勝たせます。どちらかというと、被災者寄りの判決が出るのは東京以外です。なるべく東京から離れた方が良い判決が出るというところがあります。大阪高裁に位田先生と人で出たのですけれども、第回裁判期日の裁判長の様子からみて、「あ、勝った」というようなところがありました。そうすると、もう東京の方は何だかんだ言って引っぱって、大阪で先に判決を書いてもらい、「大阪で、こういう判決が出ました」と言ってから、東京は結審するようにしたということです。
位田 東京高裁でも勝訴になったということになりました。その後、平成18年認定基準のもとでの石綿肺がんにかかる労災認定訴訟は全部で6件ありまして、すべて勝訴しているということですね。
位田 古川先生、平成24年基準のもとでの裁判の話に飛んでいいですか。
古川 はい。
位田 裁判の話の前に少し説明をしていただいた方がいい点がありますか。
古川 平成19年の基労補通達で肺がんの人たちの認定を絞るということになるのですけれども、今、平成29年度までの労災認定数の確定値が出ています。表の上が中皮腫の人たちの認定数で、肺がんの人たちの認定数が下の赤字になっています。平成19年に500人で同じくらいだったものが、平成29年になると、肺がんの人が400人台から300人台に徐々に減っていくという形になっています。国際的には、少なく見る人でも、だいたい石綿肺がんの人が中皮腫の倍くらいはあるのだということで、中皮腫の人よりも石綿肺がんの方が多いことが一般的なのです。ところが、日本の場合には、石綿肺がんの労災認定が少なくなっているということがあります。これはやはり過小評価といいますか、石綿肺がんの認定が厳しくされているのが現実だろうと思います。
位田 それでは、最後の裁判の話です。平成24年基準のもとでの最初の肺がん認定訴訟、これは古川先生が最高裁まで取り組まれた事件です。上告が棄却されて敗訴で確定していますけれども、まず、この件の事案の内容をご説明いただけますか。
古川 平成24年基準のもとでの裁判はこの件だけです。他には起こされていません。どのような事案かというと、被災者の方は、旧国鉄と分割民営化後のJR東日本に勤務された方です。スライドに書かれているように、JRの大井工場というところで、車両のブレーキに制輪子というものがあるのですけれども、その制輪子を車輪に押し付けて、車輪を止まらせるのです。制輪子を使っているうちに偏って摩耗してしまうので、それを機械で削って正すという作業をしていました。ほとんど毎日、これをやっていたのです。それから、分割民営化をはさみますが、川崎発電所というJRの発電所がありまして、そこでボイラーの運転員として、ボイラーの建屋はとても大きい建物ですけれども、そこで巡回をします。建屋内を掃除などしたことがないですから、建ったときからの保温材などの石綿粉じんがあり、それにばく露したという事案です。この方は喫煙がありました。
位田 訴訟に至る経過は、このスライドにあるとおりでしょうか。
古川 そうです。2011年8月に肺がんが分かりました。翌年2012年12月に亡くなられるのですが、この方は亡くなる前の8月、私のところに尋ねて来られて、死亡後に労災の申請を依頼されたのです。どうしてかというと、制輪子の削正作業をほとんど人でやっていたのです。自分だけがこのような作業をやって、あれをやっていなければ肺がんにならなかったのではないかという思いが強くて、「俺の仇を取ってほしい」ということで来られたわけです。「ともかく自分が亡くなったら、徹底的にやってくれ」という形で言われました。この方は亡くなられて、そのあと解剖されました。石綿小体が1,065本、石綿繊維はミクロン超が146万本で、5ミクロン超が36万本。制輪子は白しか使っていないですから、ここで出ているクロシドライトやアモサイトなどは、発電所の中で歩き回っているときにばく露したというものです。ばく露期間が短い割には少し出ているなと思いました。
年表に移りますが、2014年5月に労災申請をして、1,000本以上ということですから、本省協議にかかります。本省協議は、証人に出た学者のような方たちが検討会でやるわけなのです。この方の場合には、2014年5月に申請して、翌年2015年月22日で検討されています。ここではもう、1,000本などは全く議論にならないです。どのような議論をしているかというと、「うーん、少ないね」というような話です。「この人、何か剖検時の写真でプラーク確認できない? そこのところ確認してね」ということで、検討会では持って来た剖検時の写真を検討して、「これはプラークといえるか、ちょっと分からんね。じゃあ、業務外」という形で不支給になりました。不支給となった後に審査請求の棄却も経て、裁判を起こしたという形になります。
位田 この裁判ではどのような主張立証をされたのか、ごく簡単にまとめていただけますか。
古川 時間がおしていて、すみません。問題は、10年基準を取っ払ってしまったことなのです。どのようなことかというと、認定基準は業務上と業務外を区別する基準ではないですか。ところが、石綿小体と石綿繊維数については、それらの区別ができる基準を作っていないということになるわけです。白石綿の人たちは、5,000本では、それ以下とは決めつけられないことになるわけです。要するに、国が5,000本基準を白に適用することは誤りであると、これは今までの裁判で出ています。国はおかしな認定基準を作ったのだ。本当ならば白石綿の人についても、業務上と業務外を判断する適切な基準がなくてはいけないのに、国はそれを作っていないではないか。それを作らないことは国の怠慢であって、その不利益を被災者に押し付けることは許されないのだ。だから、司法としては、過去の認定基準がどうなのか、現在の認定基準がどうなのかを検討して、被災者を救済するべきだ。過去には10年+石綿小体でやっていたではないか。それで不都合はないではないか。それから、今でもプラークは10年ばく露でやっているではないか。それならば、この人も10年のばく露で救いなさいということを、私は主張しました。
位田 ところが、横浜地裁で敗訴していますね。敗訴した内容とその問題点はこのスライドに書いていただいたとおりでいいでしょうか。
古川 時間がおしているので、若干解説しますけれども、要するに、認定基準がおかしいということは、絶対に裁判所として言わないのです。「5,000本の基準があれば、クリソタイルの人も倍と判断してよいという限りでは相当である」と。こっちは、倍に満たないやつを切るのが変だと言っているのに、それはないだろうということです。最終的にはスライドの③のところですけれども、「国際的には、25繊維・年の累積ばく露があれば、倍だと認めている」と。これは少し難しい話ですが、ドイツで提唱されているもので、繊維・年は、日8時間、年240日、石綿繊維濃度が1本/cm3ということです。ドイツでは様々な石綿作業のデータを取って、それで繊維・年を計算できるのです。ところが、日本ではそのようなものがないですから、25繊維・年といっても、日本でこれを立証することは不可能なのです。裁判所はどのようなことを言ったのかというと、「25繊維・年という立証の道があるじゃないか。それを立証しないのは、おまえの立証努力が足りないんだから、おまえの負けだ」ということだったわけです。ここのところは、控訴理由で「それはできない立証をせえと言っているのだよ」ということを書きました。
位田 東京高裁でも敗訴になったわけですが、高裁判決の問題点はどこにあったのでしょうか。
古川 このスライドを見ていただくと分かると思うのですけれども、クリソタイルの石綿による肺がん発症リスクは倍に満たないと断定することはできないと、それは認めているのです。しかし、平成24年基準は1,000本以上5,000本未満を本省協議によって別途検討しているから、一律に倍に満たないとしたものではなくて不当とは言えない。検討の結果、駄目となっているのだから駄目だという形なのです。こう言うかと思いました。なぜかというと、横浜地裁は25繊維・年と言っていたのだけれども、あれはできない、他で合理化するといえば、どこかというと、ここしかないのです。これは、前の平成19年基労補通達の際にも国が主張していたのです。「5,000本以下だから認めないなんて言ってない。本省に照会しなさいと言ってるんだ。本省に照会されたら、そこで個別にやってるんですから、何も基労補通達はおかしくないです」と言っていたのです。しかし、東京の小林裁判などは、高裁判決で「本省協議の道があるからと言って、それは正当化できないよ」と言っていたのです。ところが、この裁判は、本省協議の道があるからいいのだと。でも考えてみたらおかしいです。もともと5,000本以下は基準に満たないと判断してよいという立場の人が、そのような基本的な立場がある限り、本省協議の道というものが5,000本以下の人を救う道になるわけがないのです。そのような意味では、「これできたか」というような判決でした。
位田 東京高裁判決が最高裁で確定するわけですが、この裁判所の判断についてどのように評価されますか。
古川 簡単にいうと、裁判所の本音はこのようなところだと思うのです。基労補通達は、もともと認定基準があって、その認定基準を変えないで裏道から変えようとしたことについては、われわれ裁判所は介入する。しかし、専門家を集めて行政が認定基準を変えた以上は、われわれはそれを尊重して介入しないということだと思います。これは、司法の権限がどのようなものかということでいうと、結構本質的な問題です。要するに、政治判断になっているのです。論理的な判断といいますか、言葉を積み重ねてそれで判断していくということをしていないのです。前と同じことをやっているのに、通達ならば駄目で、基準にしたらなぜいいのか、そこの説明をしないといけないわけです。
人類社会では、いろいろなところで決めていく力は、生(なま)の力がほとんどであるわけです。でも人間が言葉を持って、それは論理と言ってもいいかもしれないけれども、それを獲得してからは、やはり法治主義や法の支配、三権分立などは、全部言葉というものによって、正義という観念を生の力ばかりの世界に根付かせようとしてきたという歴史だと思うのです。三権分立の司法は、もう本当に弱い権力で、それが力を発揮するためには政治判断をやっていては駄目です。やはり多くの人に尊敬されて、一目置かれるという存在にならないと、本当には力を持たないのです。僕は、政治判断から、この辺は俺たちが言っても守られないからやめておこうというようなことではなくて、やはり、言葉や論理を大切にするところが必要なのではないでしょうか。本当に日本の司法が三権分立の一つとして機能するためには、まだまだ道遠いという思いです。
位田 それでは、最後になりますけれども、アスベスト被害者の救済の問題の将来像について、先生はどのような考えをお持ちでしょうか。
古川 まず、近い将来の問題としては、肺がんの労災認定が今後ももっと絞られていくのではないかということを大変心配しています。具体的にいうと、今の「10年ばく露+プラーク」の基準などを、将来的には別のもっと厳しい基準に置き換えることがあるのではないでしょうか。これから出てくる被災者の集団は、やはり建築関係の人が多いです。そのような人の肺がんの労災認定を抑制する意図があるのではないかと疑っています。それから、遠い将来の話としてそのあとに出てくるのは、解体作業の人たちです。解体工の人たちは、解体現場に行けば外国人の方が結構います。短期の不安定就業で、雇用主は零細企業です。将来、中皮腫になったときに、多分、ばく露の証明ができない人たちがたくさん出るのではないでしょうか。今のように、これだけ生活の中にアスベストを入れてしまうと、やはり中皮腫の患者さんはなくならないし、少なくなっていかないということが、暗い見通しなのですけれども、僕の中にあります。そのような集団の中で、今後は労災にもならない人が将来20年、30年たった後に出てくるのではないかということをとても心配しています。
位田 最後の質問になります。そのような将来を見据えながら、これまでの先生の経験を踏まえ、被災者の救済を進めていく上で最も大事なことは何だと考えておられますか。
古川 やはり、被災者自身が立ち上がっていくということです。それが、やはり一番大事なことなのだと思います。闘って、勝つことばかりではありません。負けてしまうこともあるわけですけれども、やはり誰かが助けてくれるわけではない、月並みですけれども、被災者の方が声を上げていくことが一番大事だと思います。
位田 ありがとうございます。今日の講演を終わりたいと思います。