Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
開催日時: 2019年5月20日(月) 18:45~20:30
於: カメリアプラザ6F 第3研修室
築地の仲卸業者がアスベスト現場に駆けつける?!——中皮腫・じん肺・アスベストセンター事務局長・永倉冬史氏は、自身が働く築地市場の労働環境の改善に取り組む中で、市場内にアスベストが大量使用されていることを知る。
NPOの立場でアスベストの飛散現場に駆けつけ、被害現場の最前線でリスクコミュニケーションを実践し続けてきた永倉氏が、共に活動してきた方々との対話を交え、過去の経験と得た教訓、未来に向けて課題を語る。(視聴時間:1時間28分6秒。肩書は2019年5月20日登壇当時のもの)
YouTubeのプレイリストになっています。Shift-Nで次のパートへ、Shift-Pで前のパートへ移動できます。名取 アスベストセンターの名取です。永倉さんという方は、アスベストのある現場で、まさにそこの場でものを指摘したり、交渉をしたり、そのようなところで本当に実力を発揮される方なのです。
そのような点では、なかなか現場でのやりとりをする写真や映像というものが、今、大変撮りにくい時代になっています。本当に、永倉さんの現場での力を発揮する姿というものは、(写真家の)今井さんが撮られた一部の写真以外では、なかなか現在、現場に入ることが許されないこともありまして、その姿がきちんと伝わりにくい部分があるのかもしれません。ただ今回、そこの部分を、さしがや(保育園関係者の)の森さんや大田区の奈須さんを含めて、少し関係した方の方からも語っていただくという形をとって、その部分を少しでも補おうという努力はしたつもりです。
実際に、これからご覧になる映像というものは、永倉さんの本当の姿の何分の1かしか伝えていないのかもしれませんけれども、本当に現場の中でアスベストをなるべく飛ばさない、そのために二十数年努力した人だと思っております。是非、その姿をご覧いただければと思っております。
南 今回の講座のみどころですが、一つは、永倉さんが取り組まれてきたことを振り返ると、自分の職場の私的な問題の関わりから、アスベスト問題という大きな社会的災害の取り組みにダイナミックに飛び込んでいかれた、そのような人物のモデルケースとも捉えられます。
問題の一当事者の立場から、NPO活動への参画を通じて知識、経験を重ね、第三者的な専門家として活躍することになられました。ダイジェスト的ではありますが、その歩みを講演全体を通して見ていただきたいと思います。
もう一つは、問題への取り組み姿勢です。アスベスト災害は被害の深刻さから暗さが付きまとう活動になりますし、さまざまな当事者とのコミュニケーションの中で、さまざまな失敗もあるものですが、それよりも未来の被害を防ぐことに貢献することを中心に、自分の役割をポジティブに考えることが重要なメッセージの一つと思います。自分のがんばりで将来の被害者を何十人、何百人と救えるのではないか、そのように考えて、想像力を働かすことを中盤で語られていますが、後続の人たちが引き継いでいくべき思想であろうと思います。
南 最初に、永倉さんの紹介です。前に書いているものと、皆さんに事前に案内を出しておりました、チラシにも書かれている内容とほぼ同じなのですけれども、生年月日、1954年2月2日お生まれで、出身は栃木県佐野市です。中皮腫・じん肺・アスベストセンターの事務局長、アスベスト根絶ネットワークの代表ということで、活動を続けられています。この話は、特に最初の話としてお聞きしますけれども、1975年から37年間、築地市場のまぐろの仲卸業で働かれて、その関係でアスベストの問題に関わってくるようになったということになります。細かいプロフィールは、進行に沿ってお話をしていきたいと思いますので、少し先に話を進めていきたいと思います。永倉さんの方から自己紹介をお願いします。
永倉 ご紹介いただきました、中皮腫・じん肺・アスベストセンターの永倉冬史であります。今日は、本当にお忙しい中お運びいただきまして、大変ありがとうございます。非常に懐かしい方や、いろいろな顔が見えて非常にうれしいといいますか、緊張もしております。
今お話でご紹介いただきましたように、私は長年、37〜8年になるのですけれども、築地市場のまぐろ屋で働いておりました。築地市場の中で労働組合を運営しながら、労働環境の問題としてアスベスト問題に関わり、取り組み始めたのですけれども、関わってみるとこれはなかなか深い問題で、当時、後でお話ししますけれども、東京大学にありましたアスベスト根絶ネットワークというところに参加させていただいて、勉強しながらいろいろな現場を見て歩くようになったということになります。
南 アスベスト問題に関わるきっかけとしての築地ということで、お話を聞きたいと思います。まず聞きたいこととして、最初のきっかけです。お話によると、1991年頃に、職場で働いていたところでのアスベスト問題ということで、関わられたということです。その当時のことをお話しいただけないでしょうか。
永倉 築地市場でなぜアスベストの問題だという話、この話をしても、なかなかピンとくる人はいないと思います。まず、自分たちが築地市場の中で、仲間と労働組合を運営していました。やはり、築地市場というものは当時、今もそのような傾向があるのですけれども、労働現場として非常に立ち遅れている、前近代的な現場といいますか、権利問題も含めて、なかなか労働者としての権利が主張しにくいような現場でした。
私の同僚が解雇されたということをきっかけに、解雇撤回闘争のような形で労働組合に発展していくのですけれども、そのような労働運動といいますか、築地市場の中をきちんとした労働環境にしようということで、取り組んでまいったわけです。その中の課題の一つとして、市場の環境問題、自分たちが本当に安全なところで働いているのかということと、あとは、食品を扱っているような職場で、本当に安全衛生が管理されているのかというところに、疑問を持ったということがあります。
当時、築地市場というものは、再整備事業といいまして、今はもう移転が遂行されてしまったわけですけれども、当時は、築地市場の現場の仕事をしながら建物を建て替えていく、もう建物そのものが老朽化、狭あい化していまして、これではとても大規模流通には対応できないという施設になっていました。私たちが早朝から仕事をしているその隣で解体工事が行われて、建設工事が行われる、スクラップ&ビルド工事が職場のすぐそばで行われていたという、そのような現状があったわけであります。
その中で、自分たちの安全を守るためにどうしたらいいかという課題の一つに、アスベストの問題がありました。アスベストの問題を、市場当局と交渉して、やはりきちんとしたものにするには、私どもも労働者としても勉強しなければならないということで、今の東京労働安全衛生センターの事務局長をされている、飯田勝泰さんに築地市場に来てもらって、アスベストの勉強会などを開きました。その中で、自分たちの環境がいかに知らないうちに発がん物質に囲まれているかということに気付かされ、そのような課題を、東京都と交渉するようになってきたという経緯があります。
南 当時の写真を見ていきたいと思いますけれども、この写真についてお願いします。
永倉 これは92年と写真にありますけれども、白いタイベックです。防護服を着ています。向こうの防護服を着ているのが私です。この手前が仲間で、築地市場は今はもうきれいになってしまいましたけれども、昔そこに海幸橋といった橋がありまして、この下に川が流れていました。船が通るなどしていたのですけれども、これは築地市場の入口の一つです。1個所です。その橋の欄干に、当時の全建総連さんからパネルを借りてきて、アスベストはこのようなものだというパネルを展示して、マイクで「アスベスト問題ありますよ。皆さんで安全な職場にしましょう」というような活動をしたときの写真です。
これは、この橋の欄干までは築地市場内なのでパネルを立てかけても問題ないのですが、ここから外に出ると、当時、築地署がすぐ飛んできて「撤去しろ」というようなことで、当時、若かったせいもあって、わざといろいろと外に貼ったり、また中に逃げ込んだりというようなことをやっておりました。
南 その当時、周りの反応のようなものはどうでしたか。
永倉 こちらで、この手前でビラをきちんと読んでいる人たちもいて、皆さん、アスベスト問題といってもよく分からないということがあって、かなり熱心に質問をされたり、呼び掛けたり、ビラを受け取ったりする人たちは、当初はおりました。それほど長く、そのような状態が続いたわけではないのですけれども、アスベスト問題としては、皆さんに紹介していくという活動について、最初のとりかかりは、いろいろうまくできたところがあります。
南 次の写真です。
永倉 これは、その中で鯨肉卸売場、クジラ肉の卸売場の解体工事です。これもスクラップ&ビルドをやっていた現場で、多量のクロシドライト、実はこの足元が真っ青だったのです。青石綿が散乱しておりまして、これはアスベストの勉強をして、この青いものは何か、もしかしたらアスベストかというように、いろいろ疑問に思っていたところだったのですが、アスベスト根絶ネットワークの東京大学の温品淳一先生などに来てもらって、見てもらったら「これアスベストだよ。クロシドライトだよ」ということで、大変驚いて、このような粉塵の中で、われわれ労働者が働いているという現場だったのです。
それを東京都に指摘したところ、これは大変だということで、手でつまんで、急いで事業者に袋詰めをさせました。事務所の片隅に、5キロずつ53袋、当時しまってありました。このようなしまい方でいいのかというようなことで東京都と交渉したところ、下の写真などは、廊下に口が開いたままのクロシドライトがまだ置いてあって、当時はこの程度の認識で、みんなアスベストの除去は、指摘をされてもその程度でした。
これはそことはまた違うのですが、大物解体場といって真ん中の二つ棟のある建物は中に、冷凍のまぐろを切る機械があって、そこでまぐろを切ってという作業をしているところの建物が解体されたときの写真なのですが、これも非常に不思議なところにアスベストがありました。これは壁が二重になっていて、二重壁の中に吹付けアスベストがあったという、これは外壁をはがしたときに中の壁に吹付けてあったという、今では見かけないようなものが発見されて、これも工事を途中で止めて、アスベスト対策をやれということで、かなり運動したことを覚えております。
これは今もそうですけれども、大屋根、波型スレート板がありまして、これを安全に、粉塵を出さないように、手作業で撤去しようということで交渉して、それを東京都もそのとおりだということで、手作業で撤去したのです。手作業で撤去をして集めたのですけれども、下にクレーンでトラックに積み込むと、トラックの運転手さんが足でバリバリ割り始めるのです。これはやはり、割らないとたくさん入らないということで、その場でバリバリ足で踏みつぶし始めて、それを写真で撮って、東京都に「これじゃ駄目だろ。せっかく粉塵が出ないように屋根から下ろしたのに、トラックに積み込まれたときに粉塵出しまくりだぞ」というようなことで、交渉したときの写真になります。これは93年です。
南 いろいろなことがあったと思いますが、ひとまずここで、当時のことを少し総括的に振り返ってください。
永倉 なかなか総括することは難しいですが、一つは、やはり最初の鯨肉卸売場のとき、東京都とかなり熱心にといいますか、激しくといいますか、交渉しました。毎日のように出掛けていって、そのときは、東大のアスベスト根絶ネットワークの温品さんなども毎日のように築地に来てくれて、朝日新聞の本社が真ん前ですから、朝日新聞にも「こういうことがありましたよ」ということで通報して、新聞記事になったこともありました。
その中で、やはり東京都も、最初は随分抵抗していたのですけれども、これはきちんとやらざるを得ないということで、我々と、我々とは、当時の魚市場労働組合という我々の労働組合なのですけれども、そこと約束ごとを交わしました。これは、今後アスベストに関わる工事一切について、事前の説明会を必ずやる、工事が終わってから必ず工事報告もやるという約束を交わして、それが92年でしたか。それからもう20年間、多分50件以上のアスベスト除去工事について、必ず私のところに連絡が来て、それで、工事説明会をやってということを繰り返してきたわけです。
南 当時の築地の問題から、アスベストの活動への取り組みという流れを、少し聞かせていただけますか。
永倉 築地の労働者と我々がよく分かってないということもありますけれども、やはりアスベストの話というものは、なかなか交渉する相手の東京都の方もよく分かっていないのです。分かっていない者同士が話をするわけですから、声が大きくなるばかりで、少しも中身が付いてこないのです。
これでは少しまずいと、少し勉強しなくてはいけないということで、当時、東京大学のアスベスト根絶ネットワークという市民ネットワークの勉強会が、毎月第3木曜日でしたか、やっていましたので、そこに参加するようになりました。そのときに、村山(武彦)先生などもご一緒させていただいたのですけれども、そこで毎月木曜日に、それまでの自分たちの身の回りのアスベスト問題についての報告をするなど、何か相談があったときの依頼についての経過を、そこで検討し合うというようなことを、随分長い間、多分10年ぐらいですか、そこに毎月、毎月通ってやってきました。
東大のアスベスト根絶ネットワークというものは、1988年に発足ということになっていますけれども、実際には、この1、2年前から運動が始まっていたようです。東京大学の職連と言っていたのですけれども、教職員の労働組合の方たちが中心に、東京大学にもかなり多量のアスベストがありましたので、そのアスベストの粉じんから生徒たちを守るというような活動が、端緒だったと思います。私も、アスネットに入ってから築地の報告をするようになって、先ほど申し上げた波型スレート板のずさん工事などの記事を掲載したということになります。
南 そのアスネットの活動の頃から、石綿対策全国連絡会議の方にも関わってという話があったかと思いますけれども、その経緯のようなものはありますか。
永倉 アスベスト根絶ネットワーク、アスネットそのものが石綿対策全国連絡会議のメンバーということで、全国連の会議も2か月に1回ぐらいのペースだったか、当時は割と頻繁にやられていて、そこに参加するようになって、その中で、アスベストが当時は禁止になっていませんから、全国連としては禁止をどうやって法制化するか、そのような動きをどうやって作れるかということが課題でした。
その中で、アスネットとしては具体的な建築現場の話など、このような問題が起こっている、これもやはりその中に一緒に入れていこうということで、毎年、省庁交渉ということで、当時は建設省や厚労省や国土交通省、当時の環境庁、そのような中央省庁とアスベストの問題について、年1回協議をするようなことを、続けてきたということになります。
南 その頃の国際的な広がりのような関係性を、少しお聞かせ願えますか。
永倉 今申し上げたように、アスベストはまだ当時禁止になっていませんから、日本では禁止になっていません。国際的にも禁止になっていない国が多い中で、ブラジルで、2000年にアスベスト禁止の国際会議というものが開催されました。これは、そのときの写真です。
私と名取さんと古谷さんと、中地さんも行ったのでしたか、もう1人ぐらい行ったと思いますけれども、当時のブラジルまで、飛行機に24時間ぐらい乗って、くたくたになってサンパウロに行ったのです。
オザスコ市とは、サンパウロからちょうど東京と川崎ぐらいの距離間なのですが、オザスコ市にはアスベストの建材の大きな工場があって、被害者が大勢いたということで、地元の市民シアターでアスベストの反アスベスト会議、当時それを開きました。そこに参加をしたということになります。
南 当時の思い出のようなものはありますか。
永倉 当時のこの会議を主催した、この3女性です。一番右側がローリー・カザンアレンさん、イギリスのIBAS(アスベスト禁止国際書記局)事務局でしたか、立役者です。中央がフランスのアニー・ティボボニ先生です。一番左が、ブラジルのフェルナンダ・ギアナージさんといって、この人は、日本でいうと労働局の担当官のような役人なのだけれども、被害者の味方をしたことによって、非常に労働局からいじめられるのです。自分の机をトイレの前に持っていかれるなど、いろいろないじめられ方をするのですけれども、その中でフェルナンダは1人でがんばって、被害者のためにということで活動をして、今年ブラジルが禁止になったか、ならなかったかぎりぎりのところなのですけれども、その中心的な役割を、フェルナンダはずっと担ってきています。日本で会議をやったときにも来ました。
南 ということで、次をお願いします。
永倉 そうですね。
南 すみません。その前に、時系列なところで、アスベストセンターの事務局長になったということがありました。
永倉 そうです。2003年です。これは少し先走ると、1999年にさしがや保育園というところでのアスベスト問題があって、そこの委員になって、4年間かかって報告書が出来上がります。それが2003年です。その2003年や2002年、2004年、5年は、非常に日本のアスベストにとってはエポックといいますか、山場だったのです。いろいろなことが立て続けに起こって、その中で、当時はアスベストセンターというものはなかったのですけれども、これからもうアスベスト問題が、多分大きな課題になってくる、被害者もどんどん増えてくる、それを支えるセンターがやはり必要だろうという意見が、あちらこちらの関係者から出てきました。その中で、アスベストセンターができるにあたって「事務局長をやるやついないからならないか」と言われたのですけれども、私は「荷が重いからやらない」というように断ったのですが、いつの間にか、他にいないから何とかということで押し付けられてしまいました。それ以来、事務局長という形でやっております。
翌年、2004年です。アスベスト国際会議、これは早稲田大学、村山先生のご尽力で、早稲田大学でやったのですけれども、これも実は、その4年前のブラジル会議の帰りに、名取先生や古谷さんなどが飛行機の中で「日本に帰っても絶対日本ではアスベスト会議やるっていうのはやめような。えらいことになるから、それだけはもう口が裂けても言うまい」という約束を交わして帰ってきたにもかかわらず、1年もすると日本で何とかできないかという話になって、話が違うではないかと思いました。
でも、今やらずにいつやるのだという思いもあって、日本でアスベスト会議をやるということで、これは大変準備が掛かりました。多分、最初にやろうという話が出た会議から1年半かかっています。実際にできるまでに1年半かかって、一番右の端が私で、名取先生はまだ若いです。にこにこしていますけれども、このメンバーでボランティアでやりました。後に、終わってからいろいろな記録を見たら、最初の打ち合わせから実際に会議をやるまで、五十数回打ち合わせをやっているのです。五十数回打ち合わせを重ねて、本当に、皆さんを食事の現場に連れていく道順を決めて、そこを数人で実際に歩いてみてというようなことまで、全部やりました。
それで、シミュレーションをやって、これならうまくいくということで最初にやったことは、まずお金を集めたのです。いろいろな大きな労働組合に行って、「これもう、意義があることだから金出してくれ」というようなことと、あとはアスベストの除去業者さんにはかなり声を掛けて、「ブースを作るから、ぜひそのブースでいろいろ展示して寄付してください」と、もうお金のことばかり考えていた時期があります。でもいろいろ、1,000万ぐらいですか、もう少し集まったのか、それで開きました。(録音終了)
南 少し場面を変えてということで、自治体・委員会型での先駆的取り組みということで、さしがやの保育園での問題事例ということに入りたいと思います。ここで少し、そこで関わられた森さんに入っていただいて、てい談型でお話を聞きたいと思います。少し場面を変えます。森さんのご紹介ということで、永倉さんからお願いします。
永倉 森さんは、先ほど少し申し上げました、文京区のさしがや保育園という保育園で、アスベストの飛散事件がありました。園の改修工事の際に、吹付けアスベストがあるにもかかわらずがんがんと工事をしてしまって、ベニヤ板1枚の向こう側に子供たちが昼寝をして、保育をされていました。そのときの園児の1人のお父さんであります。
最初から、いろいろこの問題をどう考えるか、どうやったら子供たちの健康対策が維持できるのか、どうやったらもうこのようなことが二度と起こらないようにできるのかということで、いろいろご相談申し上げたり、お話をお聞きしたりしながら一緒にやってきた、今ではもう戦友のような話なのですけれども、仲間のようなところはあります。そのようなところでどうですか。
森 森です。さしがや保育園というところで、文京区にあったのですけれども、話が重なるので、なるべく余計なことは言わなくてといいと思います。1999年7月でしたか、僕の子供が産まれたのは98年11月で、まだはっても前に進めないような状態のところで、2階だったのですけれども、先ほどの築地と同じような感じでやっていた、2階の隣で、煙が舞っているようなことで、それでいろいろ、僕が説明していることはおかしいですね。
永倉 いや。
森 いいのですか。それで、保護者のお母さんが記事で読んだようなことで、「おかしいんじゃないか」というようなことでいろいろ言って、調べて、そうしたら、アスベストだということが分かりました。そこの流れが僕はよく分からないのですけれども、7月頃にそれで工事が終わって、検討委員会が始まったというようなところがきっかけです。中身に関しての事実関係は正確ではありませんが、このあたりのところでしょうか。
南 前のスライドに、その工事の報告書から少し出してきていますけれども、簡単にご説明をお願いします。
永倉 私の方からでいいですか。
南 はい。
永倉 これは委員会報告書の中で、これも2003年報告です。事件が起こったのは99年ですから4年かかっているのですけれども、その中で、さしがや保育園の0歳児の定員増を目的として、ほふく室、調乳室、沐浴室の整備を行う、内装工事です。そのときに、間仕切りの設置、内装改修、電気、給排水設備の改修があって、その工事範囲と隣接する保育室との区画は、ベニヤ板による通常の仮設間仕切りのまま工事が行われてしまいました。
非常にびっくりする工事で、本当は、今ではもうこのような工事ないと言いたいところなのですけれども、実は未だに園児たちのそばで、このような工事が行われていると、非常に悲しい話なのです。当時でもやはりびっくりしまして、このようなことが起こってはいけないだろうということで、いろいろなことをやりました。どうでしょう。
南 次をお願いします。
永倉 これがその図面です。下の方が1階です。上が2階です。この斜線が入っている部分は壁が壊されて、その裏側にあるクロシドライトの吹付けがガリガリと撤去されてしまったところです。その壁1枚隔てて左側に、1歳児室という部屋があって、そこで園児たちがお昼寝などするという環境でした。これにはもうびっくりでした。
このようなことがあって、保護者に対する区による説明会があったのです。その説明会に、私と(会場の)そこにいる西田さんと2人で出掛けていきまして、お父さんというには少し歳がいっているので、おじいさんのふりをして2人で話を聞いていました。いろいろ質問して、話が終わってから「じゃあ、ちょっと現場見せてよ」ということで、封鎖されてはいたのですけれども、封鎖されている中に入ってみたところ、もう天井から、壁から、アスベストがぼろぼろ落ちているのです。真っ青なアスベストがぼろぼろしています。これは大変なことになっているというで、これは一筋縄ではいかないと。
やはり、そのときは検討委員会という話はまだ出ていなかったのですけれども、少なくとも、今の状況を後世まで記録として正確に残す必要があるということで、お母さんたち、お父さんたちと何度も話し合いをして、私も毎日のように園に通っていたのですけれども、その中でいろいろと検討をしながら、最終的には検討委員会というものを区が設置せざるを得ないところに、追い込んだというところになると思います。どうぞ。
森 見てのとおりなのですけれども、僕の子供が7月、その工事前までいたのがその0歳児室というところで、7月の半ば、暑い頃だったのですけれども、保育していたのは、実際にいたのは1歳児室というところです。
それで、僕も直接は見てないですけれども、朝6時頃送っていったら「これから工事が始まる」というようなお話が2日、3日あって、「これやばいんじゃないのか」という話がお母さんの中から出てきて、国にいろいろと言って、かなり当時の園長先生はそのあたりのことは苦労されて、2日、3日は、それも正確ではないですけれども、やっていたような記憶があります。
今思うのですけれども、このような話をしていいのかどうか分からないですけれども、永倉さんたちが、危険なのではないかという話で来られるというときの気持ちは、はっきり言って絶望的な気持ちでした。だからもう、東池袋や大津も、たまたま自分の子供が知らなかったというだけで、何か本当にもう駄目なのではないかというようなことは、非常に思いました。何か、そのときアスベストの知識はないのですけれども、すぐ死ぬのではないかというようなところまで考えて、かなり、当時の親の中の温度差といいますか、パニックな状態はありました。とにかく危険なのではないかと、永倉さんなどが来られていろいろやるのですけれども、テレビで見るニュースが自分たちに起こるのだということを、そのとき、何となくそのように思ったような気がします。そのあとの検討委員会といいますか、放課後のあのことに関してはまた、少し永倉さんと一緒に話したいと思います。
南 何か、最初に永倉さんが関わったときに、親御さんとの状況といいますか、それに対してどのような気持ちで接しられたのですか。
永倉 はい。やはり、何が起こっているか分からない、どうしたらいいのか分からないという印象が強かったです。その中で、やはり何が起こっているか分からないということに対しては、では起こったことを正確に記録に残すということしか、まず考えられないです、と。ただ正確に残すにしても、直接その工事を行った人たちから話を聞くなど、そのようなことをしなければ、それは憶測でしか残らないので、そのような道筋をつけるためには何ができるかということで、いろいろ議論し合った記憶があります。
そのときに、その頃はパソコンもなくて、ファクスでいろいろやりとりして、携帯もないような時代でしたから、私は自宅で、何月何日何時何分から何時何分まで、どこの会社の誰がどのような道具を持って、どこの位置のアスベストをかき落としたと、それをずらっと表にしたものを作って、ファクスでお母さんたちに送って、見てもらって、このようなことが必要なのではないかという提案をした覚えがあります。その頃、まだワープロしかなかったので、非常に苦労して作った記憶があるのです。ただ、それが正しかったかどうかは別として、やはりこのまま放置はできないだろうと、何らかの記録を残すという意味では、検討委員会というイメージは、私は当初はなかったのだけれども、それは重要だろうとは思いました。
そのようなことをやりとりしながら、私はさしがや保育園に毎日行っていたのです。当時は、仕事の河岸が終わってから飛んでいって、市場が終わってから昼過ぎには体が空くので、毎日のように出掛けていっては入口に立って、知っているお母さんたちがいると「ちょっと、どうなりましたか」というような話をしながら、現場に行かないと、どうも話が進まないということがあります。それは、未だにそのようなところがあって、なかなか現場に行かないと落ち着かないというところがあるのです。
そうやって毎日、毎日通っているうちに、文京区の方も、これは少し捨て置けないといいますか、何とかしなければいけないということが一つです。もう一つは、今の森さんの話ではないけれども、お父さん、お母さんたちがやはり、子供をどうしてくれたのだということで、保育課の方に随分ねじ込んだわけです。それがやはり、とても力になっていると思います。そのとき思ったことは、自分もそうですけれども、自分の子供たちを守る親の力というものはすごいです。それと、それは何か分かったような話で済まないという、そのエネルギーが大変なものです。それは、やはり行政に安心安全を任しきれない、一番大事なところは、自分で関わっていかないといけないというような、非常に強い思いを感じました。
これは、他のアスベストのいろいろな現場へ行ってもみんなそう思うのですけれども、やはり行政に任せきりでは駄目なのです。そこのところは、自分たちで行政権を取り戻すのだといいますか、そのようなことがありました。その中で、やはり起こったことを客観的に把握する必要があるということが、保護者の方からも出まして、最初に、当時の委員会の内山先生や入江先生という、アスベストについて当時非常に第一線で活躍されていた先生たちを、これは区が多分呼んだのですが、保護者の方たちに、どのようなことが起こったか納得してもらおうというようなことでお呼びしたのだと思うのですけれども、やはり保護者から質問が出ると、なかなか際どいところは答えられなくなるわけです。多分私も、その保護者の説明会の中に、保護者でもないのに参加していたのですけれども、その中で、「これ、やっぱり第三者委員会やりましょうよ」というような提案をした覚えがあります。何かありますか。
森 これは僕も、時系列を見ていて、15日というところは非常に何か覚えていて、それから一気に親の中では「やばいんじゃないか」と、この保護者会も実は何回かありまして、28日の保護者会、これは時間が正確ではないですけれども、大体6時ぐらいからこのような方たちが来られて、保護者に説明がありました。ただ、先ほども永倉さんが営繕課長など、彼らも別に解決策を知っているわけではないので、本当に、あそこは冷房があったのか分からないのですけれども、6時から8時、9時ぐらいまで、保護者が30人、40人ではないくらいもうたくさん来られて、いろいろな話をしていました。
別に、つるし上げる、悪いなどではないです。どのようなことが起こっているのかということを、みんな真剣に知りたいというような気持ちだけで、あとは、子供は大丈夫なのか、死なないのか、先ほどの話ではないですけれども、そのようなことを真剣にやったという、もう夏の暑いときです。保護者会のことは3回、4回やったと思うのですけれども、何か非常に覚えているのです。未だに不安は残っているのですけれども、当時の不安というものは半端なものではなかったということです。
永倉 去年、さしがや保育園の園児たちがもうそろそろ成人にかかるということで、20年たっていないのです。19年目だったのですけれども、当時の園児たちを集めて、さしがや保育園で何が起こったかということを親子ミーティングといいますか、そのような形で、文京区で実は開催しました。
そのときに、本当にもうみんな当時の子供たちが集まって、元気に成長して、成人になって、みんなこんなに大きくなって「ああ、君か、君か」というような話で、本当にうれしい限りなのだけれども、やはりそのときに、子供たちに話をしたことは「当時、お父さんやお母さんはどんな思いをして、どんな闘い方をしてあなたたちの健康を守ろうとしたかというのは、これ大事な宝だから一生忘れるな」という話を、少しした覚えがあります。そこに参加した人たちは、みんなそのような思いだったと思います。
やはり、もちろん病気にならない確率の方が高いですから、ならないと確信しています。でも、このようなことが起こった以上は、病気になるかもしれないということは、いつまでも付きまとうわけです。そのような親の心配を、子供たちがどんどんはねのけて、元気に、全く何ごともなかったように育ってくれているということは、非常に私たちといいますか、私は安心したし、そのためにも、あなたたちの健康を命懸けで守った親たちのことは、忘れてくれるなという思いがありました。
森 先ほど少し、親の温度差という話があるのですけれども、(保護者のある方は、)「監査請求だ。裁判を起こせ」などというようなことをどんどん、どんどんこう、言われる方なのです。そうしたら、親たちは完全に反発をして「勝手にやってろ」という話になったような流れということを僕はよく覚えていまして、あれは和解というのですか。
永倉 和解です。
森 和解で終わったというようなこともあります。僕自身、そのようなことを直接いろいろ言われたのです。「森さん、監査請求は、これはどうだ、こうだ。裁判はどうだ、こうだ」というようなことを声高に言われれば言われるほど、他の保護者はどんどん離れていくというようなことで、実際に、でも誰もいなくなることが僕は嫌だと思っていたので、そのあとは傍聴者として、先ほどの委員会というものは親が一切発言できないのですけれども、委員会3年間ぐらいでしたか、2年ですか。
永倉 全部で4年やっていました。
森 そうです。4年間の全ての委員会、全てではないですけれども、ほぼ委員会を見ていました。そのときに、保護者が出席したということは、はっきり言って一けた台ぐらいでしたけれども、僕自身は冷静に見ていこうと、あとは、アスベストの知識というものを、知識といいますか、自分の子供は大丈夫なのだろうと思える言葉を探していました。あとは、世の中の学会で言われるようなことを探して。今でも(探して)いるのかもしれないと思います。
南 はい、ありがとうございます。少し、そろそろ時間もあれなので、最後にひとまず、永倉さんの方から当時を振り返ってということで、前例のない中でいわゆるリスクコミュニケーションの活動ということだったかと思います。そのような点で、クボタショック以前の問題だったということもあって、いろいろなご苦労もあったり、その経験が次に生かされたりということがあったかと思います。そのようなことで、問題解決に向けてうまくいったことや、逆に大変であったことなどを、少しお話いただけますか。
永倉 なかなか評価というのは、難しいと思います。まだこの話は終わってないという認識を私はしているし、なかなか結果的な評価は難しいのですけれども、この4年間、委員会の中でいろいろな議論をかんかんがくがくやって、結論を出しました。その結論について、やはり答申という形で文京区に出したわけですけれども、文京区もそれを真摯に受け止めて、その後の健康対策をやってきたという流れ全体が、その後同じようなことがあったときに踏襲されていくという、これが非常に大きな成果だったと一つには思います。
もう一つは、今少しお話がありましたように、この答申があった2003年の翌年、私たちは世界会議をやったのだけれども、その翌年に、実はクボタショックが起こったのです。そのクボタショックの意味というものは、それまで労働者がアスベストの被害者になるということしか国は考えていなかったのですけれども、その工場周辺で、一般の人がアスベストの被害者になるということが実際に起こったということで、日本中、実は専門家がびっくりしたと思います。
それを予想していた、村山(武彦)先生をはじめ、「そういったことが起こるよ」というようにずっと言っていた人たちの話が、残念ながら実現してしまいました。そのときに、このさしがや保育園で子供たちがどのようなアスベストを吸って、どのようなリスクが発生して、どのような健康対策が必要かという、この報告書そのものが、予測していなかったわけだけれども、つまりその2年後に、結果的に非常にアスベストの環境ばく露についての大きな指針になったのです。
当時、クボタショックの後だったと思いますけれども、中央官僚が、このさしがや保育園の報告書をみんな読んだというような話を聞きました。やはり環境ばく露をどう考えたらいいかということの先例が、日本でなかったのです。世界的にも先例が少ないと思うのだけれども、日本でこのようなことが起こって、このようにリスクが考えられて、このような対策が必要だということがなかったところに、やはり非常に重要な評価が与えられたということだと思います。
森 あとは、僕たちは手探りでやっていて、そのようなことをさせられたことに対して、誇りなどということは別に何もないのです。今も子供は大丈夫なのかという不安だけです。あとは、ちなみに言っておきますと、僕の子供は、今年の1月に文京区のシビックホールで成人式を迎えました。当時9か月だった者が、一応そのようなことになったという報告と、あとは先ほど、全然関係ないですが、永倉さんは自分でおじいさんとおっしゃっていましたけれども、僕と2個しか年は違わないので、僕もはっきり言ってもうおじいさんになっています。以上です。
僕はミュージシャンなのですけれども、2004年のときに、世界大会でサトウマコト君と2人でサックスの演奏もやらせていただきましたということは、ご報告しておきます。苦しいことではなくて、楽しいことでもなくて、事実をどうやって、これがあるのかということを見ていきたいということが、僕の素直な感想です。以上です。
南 はい、ありがとうございました。
南 パートナーシップ型での地域における継続的取り組みということで、東京都大田区でいろいろな活動があります。その関係で、地元で議員をされています、奈須りえさんと一緒に活動をされているということで、奈須さんをお迎えしての対談ということに進みたいと思います。最初に、奈須さんの方から簡単な自己紹介をしていただけますか。
奈須 東京都の大田区で区議会議員をしております、奈須りえと申します。2003年に初当選したのですけれども、ちょうど今、クボタショックの話がありましたが、議員になったその年の年末に、アスベストのことの関心が高まったということもありました。それ以来、公共の施設におけるアスベストの工事や、民間の解体工事において、アスベストの対策が不十分だと思われるようなご心配のある住民の皆さんからの声を受けますと、「永倉さん、ちょっと」という形でいろいろなアドバイスをいただきながら、大田区にいろいろな申し入れをしたり、あるいは東京都に行ったり、時には国にも一緒に行ったりして、安全な工事ができるようにということで活動してきました。
南 ありがとうございます。永倉さんの方にまず聞きますけれども、当初、奈須さんと連携されるようになった当時、お互いを知るきっかけであったり、当時の立場であったり、状況など、そのあたりについて、少しお話をいただけますか。
永倉 最初は、大田区の梅田小学校という小学校の体育館の建て替え工事で、アスベストがあるのではないかということで、多分、奈須さんの方からご連絡をいただいたのですか。
奈須 そうです。
永倉 大田区は近いし、では行ってみましょうということで、大体、現場に近ければ行くのですけれども、それでいろいろ見てみたら、やはり廃材がありました。本校舎の方もいろいろ見せてもらったら、本校舎の方の天井も結構劣化した、これはレベル3だったのですけれども、ありました。校庭の隣の敷地に警察の家族寮があって、そこにも結構レベル3で、地面にばらばらと何か散乱しているようなものもあるなど、これはいろいろ問題があるのではないかという話から、連携して、アスベストのことをまず勉強しようということも含めて、いろいろやってきたと記憶しております。
改修工事で、当時レベル3についてかなりずさんだったというところもあるのですけれども、「ひどいね」ということで、当時は、このケースは大田区の環境課に行きましたか。
奈須 ただ、学校の施設だったので教育委員会の施設を管理する担当者と結構やりとりをして、お話をいただいたのが小学校の父兄、PTAの方から少し心配だということでお話をいただいたのです。アスベストの廃材が地面に落ちて、放置されていたことをとても皆さんが心配なさって、ちょうど校舎に面していたところにあったので、授業中に除去するということになると、本当に子供たちに影響が出ないのかということで、結構学校にも何度も行って、職員は「言われなくたってやるんだ」ともう豪語していたのですけれども、いろいろな提案をする中で、少しずつ工事が安全になっていったという記憶があります。
永倉 そうですね。あとは、ここにはないのですけれども、このような活動が延長をしていきまして、例えば大田区内の下丸子ですか。
奈須 そう、下丸子です。
永倉 下丸子というところに、実はJKK、東京都住宅供給公社の大きな団地があって、そこの住民の方からも相談を受けて、現地に行きました。そこの改修工事もかなりずさんな工事をやっていたということがあって、住宅供給公社の担当者を呼んで、いろいろ議論をするなど、問題にどんどん発展していった端緒が、この梅田小学校ということになります。
奈須 私は議員なので、このようなアスベストのいろいろな問題があるたびに、ブログに記録を書いていたのです。やはり、住民の方が心配されると、それを検索するようで、取り組めば取り組むほど、アスベストに関するお問い合わせをいただくという形になって、いろいろな事例について情報をいただく中で、当時、結構頻繁に永倉さんにお願いした記憶があります。
永倉 大田区に限らず、当時はやはり、アスベストのことを書いているブログはあまりなかったので、奈須さんのところに結構、各地からいろいろな相談がいっていたのだと思います。奈須さんからの「こんなところで、こんな事案があるんだけど」という話を聞いて、行ける範囲については行って、行けないところについては電話で連絡してというようなことをいろいろやっていく中で、大田区内だけでも、いろいろな問題が発生してきたということになります。
南 次、お願いします。
永倉 その中でやはりこれが。
奈須 宮寺です。
永倉 宮寺です。大田区の中で、非常に大きな石綿工場が実はあって、宮寺石綿という工場なのですけれども、東京労災病院のすぐ隣、大森というところにありました。これは、少し説明していただいていいですか。
奈須 これは、大田区が土地を買ったのですが、ちょうどこの図にある大森東特別出張所と森ケ崎交通公園という、この長方形の土地を大田区が買いました。当初分からなかったのですが、宮寺石綿の跡地だったのです。工事を始めたら土の中から大量のアスベストが出てきて、どうも工場のあった図面と照らし合わせると、当時の宮寺石綿を知っている方からの情報と照合すると、どうも工場で使い終わったアスベストを池の中に大量に捨てて、工場が廃業されて、そのまま埋められたのではないかということです。ちょうどその場所のあたりから、本当に石綿の塊が出てきました。これも永倉さんにお伝えをして、結局、争点といいますか、大田区との見解が大きく違ったことが、やはりもうとにかく量も多いし、除去をするのも危ないので、そのまま封じ込めるのが一番安全だということが永倉さんの考えでした。大田区にもそのように言ったのですけれども、大田区としては除去すると言って、莫大なお金を掛けて実は除去をして、大森東特別出張所がある、3分の1のところまで除去をしたところで、やはり思ったよりもたくさんあったので、お金も掛かり過ぎるし危ないからやめるというようになって、交通公園のところをいわゆる封じ込めて、交通公園にしたという経緯があります。見学に行ったときに、もう白い塊が結構土の中にあって、大変で、何かメッシュを掛けて、当時、調査をさせるなどしましたね。
永倉 そうですね。いろいろな調査をやって、大田区としてはあまりないという結果を出したかったのでしょうけれども、実は、やればやるほどいろいろ出てきてしまったというところがあります。近隣の住民の人たちにも、やはりそれをお知らせする必要があるということで、この隣の。
奈須 工場アパートです。
永倉 工場アパートというところの会議室を借りて、近隣の住民の人に集まってもらって、アスベストの講習会のようなものをやったり、あとは、近隣の人たちで過去にアスベストで被害に遭った人がいないかということを懸念して、いろいろヒアリング、聞いて歩いたりしました。
このあたりの大田区大森というところは、昔、のりを作っていたのです。海で取れるのり作っていました。のりを取る時期を外れると、皆さん仕事がないので、この宮寺で結構アルバイトといいますか、期間作業を実はしていたという女性の方が何人かおられて、いろいろ話を聞いたのですけれども、なかなか的をいた回答まではいかなかったのです。
ただ、そのようなリスクはあるわけですから、「今後、何かあったら連絡くださいね」というようなことで、そのときお話をしたことを覚えていますが、今ではこの工場の周辺で、少なくとも4人の方が中皮腫になられたということが判明していて、その人たちは、職歴としてはない方です。それについては、去年報道をされていると思います。大田区については他にもいろいろありますが、少しご説明を。
奈須 そうですね。この宮寺石綿の土地を買った問題があったすぐ後に、労災病院の何先生でしたか。
永倉 戸島先生です。
奈須 戸島先生が調査をして、その周辺に環境被害が疑われる方たちがいらっしゃるということで、大変大きな問題になったのです。周辺の調査をしたのだけれども、結局、環境被害と大田区は認定しないでそのままきていて、去年またもう1回、やはり地域の掘り起こしをしなくてはいけないのではないかということで、今も運動をしているところです。
ただ、当時の方がなかなか見つからないといいますか、出てこないことと、あとは、大田区の職員の関係で、どうもアスベストの被害者の方がいたのではないかというような情報もあって、いろいろなことがなかなか表にしっかりと出ないままに、調査報告書だけで終わっている感じになっています。
永倉 そうです。大田区の区の職員さんの被害者が、どうもいるようだという話だったのですけれども、なかなかそのような方は表に出にくいといいますか、そのような方もどうもいらしたようだということと、あとは今、奈須さんにもいろいろ1枚かんでいただいて、環境省がやっている試行調査について、東京都ではどこも実はやっていないです。
この試行調査とは、環境省がアスベストの検診にお金を出しますということで、自治体がやりますと手を上げれば、そこにお金を出すという仕組みなのですけれども、関東でやっているところは、さいたま市と横浜の鶴見区しかないです。関西はもうかなり広範に自治体がそれをやって、アスベストの被害者の掘り起こし作業をやっているのですけれども、東京都について言うと、全国で第3位の被害者、環境ばく露の被害者がいるにもかかわらず、全くどこもやっていないです。大田区は、東京都下でも一番アスベストの環境被害者が多いのです。そこでやらなければやはり他ではできないだろうということで、去年、おととしぐらいから、奈須さんと患者と家族の会という、そこで一緒に働きかけをして、去年やっと、大田区でやりましょうという話になって、今年から。
奈須 4月からです。
永倉 4月から試行調査が行われています。それについて、広報を含めた勉強会を、いつでしたか。
奈須 6月です。
永倉 6月に今準備をしているところなのですけれども、やはり、なかなか環境被害の掘り起こしという面では、これは大田区だけの話ではないですけれども、なかなかまだ、関東では立ち遅れています。さいたまについては、非常に大きな運動、今(会場に)斎藤さんがおられるけれども、斎藤さんたちの大きなお力で、さいたま市では全域で今、その試行調査というものがやられています。
ところが、その試行調査という環境省がやっている事業も、実は今年限りで終わりだという話になっていて、それをどうやって、きちんとした検診制度までつなげるかという大きな課題が、今、目の前に横たわっているという状況であります。
南 そうしたら、もう一つ。
永倉 少し話が外れましたか。
奈須 大丈夫です。
南 あとは、大田区で大きな事案としてあったことが、旧池上トーヨーボウルというボウリング場があったかと思います。
永倉 ありましたね。
奈須 はい。
南 今はもうパチンコ屋になっているので、写真は入れていないですけれども、その当時のことについて、お聞かせ願えますか。
奈須 実は、このようなボウリング場にアスベストがたくさんあって、解体のときには非常に問題が多いということは、永倉さんから伺っていました。ちょうど大田区にトーヨーボウルというボウリング場があって、長い間使われていなかったので注目していたら、解体工事が始まるということで、そこからどのような調査をして、どのようなものがあり、どう解体するのかということを追いかけていたところ、業者が、レベル3はあるけれども全然アスベストがないということで終わらせようとしていました。それはないのではないかということで、もう1回調査をし直させて、いくつかアスベストが見つかったということで、一応少し安全な、完全かどうかは少し分からないのですけれども、安全な工事ができたという事例です。
ただ、これのときにも、かなり広範にわたって私たちでポスティングをして、調査が不十分なのではないかということで周辺の住民にお知らせをしたら、あのとき、会議室に入らないぐらい住民の方が集まってくださって、そこから少しずつ、業者の対応が変わり、一応、資料も来れば見せます、やり直しもしますということで、少し改善されたということがありました。
永倉 それもだから、ある種リスクコミュニケーションといいますか、住民の力で工事の安全性を高めたといいますか、工場の安全性を高めたとまでは言いすぎかもしれませんけれども、公開性を高めたというところまでは言えると思います。しかも、今、奈須さんのお話があったような説明会についても、住民側が自分たちのマンションの会議室を借りて、業者を呼ぶというような持ち方で。
奈須 違う、違います。業者が説明会をしてくれないので、永倉さんに講習会をしてもらおうということで、それをポスティングしたら、業者が様子を見にきたのです。
永倉 呼んだのではなかったのですか。
奈須 そうです。様子を業者が見にきたので、前に引っ張り出して。
永倉 そう、そう、そこで説明はさせました。細かい手口はいろいろあります。だから、やり方はあるので、このようにやると、多分行政はこう動くだろう、業者さんはこう動くだろうと読みながらいろいろやっていくと、一歩は進まなくても、半歩ぐらいずつ進んでいくのです。半歩進むと、結構なところまで届くということがあり得るので、それに近いことは他でもいろいろやってきてはいるのですけれども、そのような工夫といいますか、一つ一つの現場、現場での工夫というものは、非常に大事です。結論じみて申し訳ないのですけれども、このようなことを今後やっていくのだとすると、そのような工夫を、語弊があっては申し訳ないけれども、楽しみながらやれる素質があるといいのかという気がいたします。
南 そのようなことで、ひとまず少し総括的な話ですけれども、大田区の事例、いろいろな活動もあったかと思います。他にも全国各地へ、特に永倉さんが直接関わっているので、それこそ西宮の事例などもあります。地域内で大きな建物が解体される問題が唐突に起きて、地元でこれは問題ではないかと思う動きがあって、それで実際動こうとされている方々がいるということです。そのような活動に向けての教訓やメッセージというものを、何か持たれていることがあれば。
永倉 今、まさに大阪の方でも、堺市や守口市など、本当に古川和子さんを中心に、古川さんがポイントになって、そこからどんどん発展していく話が進んでいて、それが工事の安全性を随分高めていると思います。例えば、堺市で一つの問題に取り組むと、やはりそれがその地域に波及しますから、その地域全体の工事の質が上がっていきます。私が今取り組んでいる築地市場もそうですけれども、そこにもうわれわれがとりつくことによって、やはり質が少しずつ、一気には変わらないのですけれども、少しずつ変わってきます。それは、非常に予防という名のあり方には、重要なのかと思います。
関西では、今、本当に古川和子さんが取り組んでおられる、堺市や守口市、守口市もがっちりした、非常にがんばっている女性が1人おられたり、今、少しお話があった西宮市も、西宮市を何とか動かそうとがんばっているお医者さんがおられたり、拠点、拠点でいろいろそのような人たちが、皆さん、それなりの自分の考えで、これは統一した考えにしたら駄目なのだと思うのです。やはり自分たちがやれるやり方、私の言い方だと「やり口」があるわけですから、そのやり口でやっていく、それをどのようにバックアップできるか、応援できるかです。
そのときの鉄則は、その応援しに行ったときに、応援されている人の先に行ってはいけないといつも思っています。先に行ってしまうと「こうやるべきだ。こうあるべきだ」と、あるべき、あるべきということで、その当事者をつぶしてしまうということがあり得るので、これは何例も実は見ています。そのような意味ではやはり、どのような要望を受けているのか、それにこたえるためには、どのように自分の能力でどこまでできるのかということを判断しながら取り組んでいかないと、行き過ぎて、結局はしごを外してしまうというようなことがあり、そうするとその地域では、その運動はおしまいになってしまいます。先にいきません。そのようなことで、いかに育てていくかということが非常に大事なポイントかと思います。奈須さん、どうぞ。
奈須 やはり、いつも永倉さんといろいろ取り組むときには、住民からのSOSといいますか、相談があって、そこに専門家としてのアドバイスをいただきながらということでやってきました。やはり大きく動いたことは、先ほどのお話でもそうですけれども、住民の熱意といいますか、一生懸命住民が動いている事例は、よくなっていくということを実感しています。そのような意味では、宮寺石綿はやはり地域の方の動きが、協力を得られないということは非協力的ではなくて、なかなか当事者とのつながりのとりかかりを得ることができなかったのかと思っています。
やはり、行政を動かすこともとても大切なのですけれども、一方で最近、行政のその向こう側にいる工事の施工者といいますか、事業者というものがいて、最近は行政がどうしても事業者寄りになりがちで、なかなか住民の思ったような動きをしてくれない部分もあって、そこがとてももどかしいところです。それも含めて、きっと住民とのリスクコミュニケーションということだと思いますが、最近、リスクコミュニケーションの場に行政が乗らないといいますか、乗っていても少し不十分だと感じるところはあって、そこは、これからの大きな課題かと思っています。
南 ありがとうございます。そろそろ時間ということもありまして、このパートも終わりたいと思います。最後に、奈須さんの方からこれまでの活動を振り返って、永倉さんに対する率直な感想をお聞かせ願えますか。
奈須 やはり、どのような問題もそうだと思うのですけれども、専門的な知識と経験というものが、運動にはかかせないと思うのです。そのような意味では、最新の情報や、いろいろな事例を踏まえながら適切なアドバイスをいただけたということは、本当に大田区のアスベスト対策において、大切な役割を担ってきていただいたと思います。
何よりも、とてもフットワークが軽くて、お忙しいと思うのですけれども、本当に電話1本ですぐに駆け付けてくださって、そこで行政に対してにらみを利かせてくださっていたということは、「もうこれで大田区のアスベスト対策は大丈夫なので、永倉さん、ご苦労さま」と言いたいところなのですけれども、これからもどうぞよろしくお願いします。本当にありがとうございます。
南 第1部の最後、未来に託す自分の経験や課題ということで、これは、この講座にお呼びする方に共通で必ず聞くことであります。今までのお話でも、かなりメッセージや教訓といったことをお聞きしながらお話しいただきましたけれども、特に、これからアスベスト問題に関わっていこうという方や、あるいは、期せずして関わらざるを得なくなってしまったような方などが考えられると思いますけれども、そのような方に対するメッセージや教訓ということをお聞かせいただけますか。
永倉 これが一番難しいところで、なかなか、誰かに教訓を残せるような生き方はしてきていなくて、おこがましいと思っているところなのです。私は、アスベストの問題に関わっている人たちと長くお付き合いができていることは、やはり皆さん、想像力が非常に豊かというとおこがましい言い方なのですけれども、何十年か後に病気になるということを予想して、何かを今できるということができる方たちなのだと思います。
最初に、アスベストの問題で築地市場にいた頃から関わったときに、なぜこのような将来の話にみんな真剣になって関わって、自分の時間を使って、場合によっては自分の小遣いをそこにつぎ込んでやっているのかと、なかなか不思議なところがありました。
ただ、アスネットで毎月、東大の当時、輪講室といいますか、工学部の輪講室というところに集まったのですけれども、そこでいろいろお話を聞いているうちに、想像力が皆さん非常に豊かで、しかも空想的な想像力ではなくて論理的といいますか、科学的な想像力が豊かな人たち、そのような人たちは非常に魅力的なのです。話をしていて「ああ、そうか。こういうことが起こるかもしれない」と、実際にいろいろ文献で調べたり、データを取ってみたりすると、正しいのです。村山先生の中皮腫の将来予測について、僕は今でも感銘を受けているのですけれども、2002年に予測されたものが、今検証してみるとほとんど違わないのです。実際に、十何年前に予測したことが、それほど変わらないというようなことが、現実に自分の身の回りにあるのだという驚きがまずあります。
そのような中で、その先にやはりそれが被害者というものに結び付くのであれば、その被害者を何とか今からできるのではないか、私が生きているうちには難しいと思いますけれども、それを検証することは私自身ができないとしても、将来、やはりそのお陰で、1人でも2人でも、10人でも20人でも、もしかしたら病気にならずに済む人がいるのではないかと、その想像力というものは、それは非常に楽しいです。
そのようなことを考えながらいろいろと、例えば行政の方たちとお話しするときにも、「そこはもうちょっと考えようよ。もうちょっと違うんじゃないか。もしそれが、ほんとにそこで無駄なお金使うかもしれないけども、それでそういう使い方をするのは無駄ではないんじゃないのか」という問題提起ができると思います。それは、国の役人に対してもそうです。自分たちが想像できるものについて、それが健康や被害の予防というものに結び付く可能性があるのであれば、そこに注力する、自分の力や資金力をそこに捧げる、力を入れるということは、これは全く無駄なことではないのです。本当に無駄なことは山ほど日常的にありますから、そのようなものから比べたら何の無駄でもない、だからといって、なかなか理解されないとは思いますけれども、そのように私は思っています。結論的に言うと、アスベストの問題に関わっている人たちは、結構みんな素敵な人が多いと、そのような結論になるのかと思います。
南 はい、ありがとうございます。これが第1部の最後の質問ということになります。ある意味、非常に象徴的であるように、僕自身もとても感じているのですけれども、本当に最初に、アスベストの問題に関わられたことが築地市場で働いていた問題で、今、まさに築地市場の解体の問題でのアスベスト対策ということに、直接関わられているということで、非常に因果なものといいますか、非常にそのような、また出発点に戻ってこられたというような感じにも見えるのですが、今の取り組みについて、取り組んでいる思いのところなどを。
永倉 まさに、因果が返ってきていると私は思っています。やはり最初に、私自身がアスベストのことを知った、関わったきっかけが築地市場ですし、築地市場のアスベストがなくなるに関して、放っておくわけにはいかないと、これはもう墓場まで見届けようという気持ちがあります。
今日あたりも、実は午前中築地に行ってきたのですけれども、多分、4個所か5個所を見て歩いてきました。それは、養生検査や完了検査などいろいろあるのですけれども、一つの現場、簡単な現場もありますけれども、私の年代では非常にきつい現場もあって、鉄骨足場のはしご段を20段ぐらい上っていくなど、非常に上って下りるだけでひざがもうがくがくとなるような現場がたくさんあるのです。ただやはり、そこできちんと見届けようと、それが私の役目かと思うことと、そこで働いている人たちにいろいろなアスベストの指摘をして、議論をして、時には本当に鼻を突き合わせて「そんなこと言ってねえよ」というようなけんかになりながらも話をして、私は大体止め役なのです。血の気の多い人がいますので、そっと止めているのですけれども、それが非常に勉強になります。
一つ一つのことが「ああ、そうか。これはこう言えばこうなるんだ」と、もちろんそれは、完全な、安全な工事とはまだまだ言えないところはあるのだけれども、そこからその人たちがどのようにものを考えていいか、細かい話をすると、もう延々と話になってしまうのでこのぐらいでやめておきますけれども、いろいろな教訓、私自身学習ができているという意味で、非常に楽しい、語弊があるかもしれませんが楽しい現場です。
今、若い人たちにも来ていただいて、一緒に現場を見て歩いて「ここはこうじゃないか。ああじゃないか」と議論しながら、「もっとこうできないか。ああできないか」など、それを最初はやはり、アスベストの除去業者さんは「ふんっ」という感じで聞いていたのです。「おまえら、素人が何言ってんのよ」という話で聞いていたのだけれども、それがだんだん、だんだん毎日しつこく言っていると「永倉さん、今日大丈夫? ひざ大丈夫?」などと言われながら、その中で「いや、今日ちょっときついのよ」と言いながら、「じゃあ、ちょっとここ直してくれ。あれ直してくれ」と言うと、そうしてくれるのです。
それは、その場限りかもしれないけれども、こうしないと、やはり今後、除去業者として生き残れないというようなことをお話ししながら、現場で今はやっていけています。そのようなことを、少しずつ広げることが非常に重要かと思っているところです。とりとめがないです。
南 いろいろとまだまだお話を聞きたいところですけれども、ここで少し、時間的なこともありますので、ひとまず第1部ということにいたしたいと思います。永倉さん、どうもありがとうございました。
永倉 今日は、2019年1月22日です。築地市場は、昨年の12月頃からアスベストの除去に関しては、東京都や除去業者、あとは解体業者の皆さんと、リスクコミュニケーション、認識を共有しながら、アスベストの除去を進めてきました。基本的には、アスベスト除去に際しての養生の確認の検査、それから、終わった場所については完了検査という形で、これも全部ではないのですけれども、ピックアップした形でしてもらっています。その中で、やはりアスベスト除去工事の不具合などもいくつか見つかり、修正をしたり、工事そのものを見直したりということも何度か続けてきました。かなり実践的に、事業者の方、除去業者の人たちと議論、話をしながら進めてきたところです。
リスクコミュニケーションの実践ということですので、なかなか最初はうまくいうかどうかということもあったのですが、東京都がかなり協力的であったということ、また除去業者、解体業者の人たちが、私たちのレクチャーも含めてかなり意見を受け入れてくれたということで、実践的に実現しています。なかなか稀有な現場ではないかと思います。現場をいろいろ見て気が付いたこと、このようなことが可能ではないかということを、いろいろと実験的にやってまいりました。それらについては、改めてまとめたいとは思いますけれども、今日は(写真家の)今井さんにも来てもらって、養生の確認を行いました。
養生の確認を行ったところは、立体駐車場というところの吹付けアスベストの養生です。養生の中でスモークをたいて、養生の漏れを確認する。また、スモークを負圧集じん機のスイッチを入れてもらって、スモークがきちんと15分で消えるかどうかの確認をする。また、負圧集じん機の排気口で、粉じんが漏れていないかどうかを確認するというような、かなり実践的な養生検査を行ったところです。その他にも、何個所か養生の確認をしてきました。このように、築地市場のアスベストについては、リスクコミュニケーションを実践しながら養生の確認、完了検査などを進めているところです。 今回のリスクコミュニケーションで特徴的なことは、かなり早い段階から施主である東京都、あとは業者、その時点で業者はすでに決まってはいたのですが、その人たちと2回、勉強会が開けたことなどが、早い段階から取り組めたということで、このように工事の要点、要点を公開してもらうということにつながっていると思います。かなり今後の参考になる点もあるのではないかと考えています。