Lecture Series : Handing Down the Asbestos Issue
開催日時: 2018年11月30日(金) 17:00~19:30
於: Zビル4階会議室
クボタショックをきっかけとしたアスベスト被害の顕在化。背景には、日本の経済性優先によるアスベストの大量消費と対策の遅れがあった――財政学と同時に日本の公害・環境問題に社会科学の視点から切り込み、早くからアスベスト問題に取り組んでこられた大阪市立大学名誉教授、滋賀大学名誉教授・宮本憲一氏は、アスベスト問題を社会的な側面から見る時に欠くことのできないキーパーソンである。
過去の公害問題を振り返りながら、「複合型ストック災害」としてのアスベスト災害の特徴を踏まえ、将来の被害予防に向けた課題を語る。(視聴時間:1時間13分 32秒。肩書は2018年11月30日登壇当時のもの)
村山 アスベスト問題を語り継ぐ連続講座の第1回目は、大阪市立大学名誉教授の宮本先生にお願いすることにしました。宮本先生は、財政学と同時に、公害、環境問題に社会科学の視点から、早くから取り組まれてこられた先生のお一人です。アスベスト問題は、戦前から医学分野を皮切りにして取り組みが始まっていますけれども、社会問題としての取り組みは、非常に時間がかかりました。宮本先生は、1970年代から、アメリカに滞在されておられる頃にこの問題に触れて、非常に重要性を感じておられました。その後、泉南の問題、あるいはクボタショック以降の動きに至るまで、非常に関わられてこられた方です。そのような意味で、アスベスト問題を社会的な側面から見るという意味では、欠くことのできないお一人だと考えています。
南 今回の講座内容の紹介ですが、最初に、宮本憲一先生ご自身の公害研究の取り組み、そして、1970年代後半から80年代前半における、アメリカ、ニューヨークでの留学に際して、アメリカにおけるアスベスト災害への着目と研究交流について、まず語られます。アメリカでの研究交流を踏まえて、帰国した際の1980年代の日本の状況が、次の話題です。宮本先生ご自身が「消された危機」と表現されていますが、当時、アスベストに限らず、環境政策そのものの後退の時期でもありました。何よりも、政府がアスベスト対策強化や調査研究に消極的であったことが、社会や研究者の具体的な活動が停滞する方向に作用したと考えるべきでしょう。
やはり、事態が動くのは、2005年のクボタショックです。調査のために現地や関係者のもとに訪れられたところ、ご自身が一番乗りだったこと、立命館大学での研究プロジェクトとして動き出したこと、他にも2006年頃の救済法等の政策対応の不十分さ、クボタショックをきっかけとしての被害の顕在化について述べられています。クボタショックでの社会問題化と運動の盛り上がりの流れに触れた上で、ここで、アスベスト対策の歴史と政治経済について言及されます。経済性優先の政治経済であれば、アスベストの大量消費が決定付けられてしまいます。この背景が、日本の対策の遅れにも関係しています。ここでは、過去の歴史と共に、政府における政策評価や過去の検証の不作為、縦割りによる行政や学問の弊害、問題点についても語られています。
それに続く話題として、宮本先生オリジナルの理論的規定であります、複合型ストック災害としてのアスベスト災害の特徴や日本国内での大きなアスベスト裁判の動向、さらには、アスベスト対策の国際比較として、アメリカ、フランス、アジアの事例が取り上げられていますが、やはり、特に考えるべきは、今後の課題についてです。被害の実態解明、補償救済に関しても追及すべき課題ですが、私たちが直面している最も重要な課題は、被害予防です。建物の総点検のように、準備、実行されるべきことは一定明確になっています。それらの課題に対して、運動や研究や政策において実践し、徹底していくべきことを最後に論じられています。
宮本 ただいま、村山さん、南さんから、これまでの私のアスベスト問題公害研究の取り組みについてご紹介いただきましたから簡単にお伝えいたしますが、私は、1961年に地域開発の調査で四日市に行きました。その頃、四日市が経済成長、あるいは、地域開発の先端を走っていましたので、それを調査して非常に驚きました。自然が破壊され、800人を超えるぜんそく患者が出ているのです。ところが、地元は全くその救済をしないまま、コンビナートを第3コンビナートまで作るという状況でありましたし、政府の方も、何も対策を取っていないのです。私はやはり、そこで非常に大きな衝撃を受けたことは、今までの経済学でこのような問題を扱っていませんでした。つまり、自然が破壊され、そして、人々が健康障害、あるいは、死亡して苦しんでいる、このような状況が、全く市場経済の下で評価をされない、それどころか、この結果として公害対策をしたり、医療費あるいは医薬産業が儲かったり、むしろ、マイナスがプラスとして評価をされるということが市場経済学の基本なので、これはおかしい、やはり、新しい経済学を作らなければならないと思い、それがきっかけで環境経済学まで行くわけであります。
しかし、当時、公害という言葉は辞書に載っていませんでしたし、研究するという意欲を持っている人があまりいなかったのです。それで、『世界』に書いた論文がきっかけで、都留重人先生に「これはどうしても、やっぱり、公害研究委員会というものを作った方がいい」という相談を受けまして、1963年にそれが出発いたしました。私はその学会で全国の公害の調査をいたしまして、当時、衛生工学で、これは非常に偉い先生なのですが、戦前から大気汚染の研究をしていた庄司光先生との共著で、岩波新書から『恐るべき公害』というものを出したのです。これが恐らく、公害という言葉を広めるきっかけになったと言われています。それが出発点で、もう50年を経たわけで、先ほどご紹介いただいた、『戦後日本公害史論』(岩波書店2014年)というものが、私にとっては、この50年間の公害というものを社会科学、もう少し広い意味で環境論、あるいは、戦後のこのような現代社会の問題として、総合的に捉えようと考えたわけでございます。是非、少し読んでいただきたいと言っても大変高い本なので、図書館ででも読んでいただければ、日本の公害の歴史的な教訓と、それがなぜ守られて、今、このようなアスベストの問題などが起こるのかということを考えていただけるのではないかと思っております。
私は、アスベストの問題については、全く知らなかったのであります。恐らく、これは労働衛生の問題だと考えていたぐらいだと思うのですが、実は1972年に、1977年ですね。1977年にニューヨークに留学しているときに、病理学の鈴木康之亮先生から、「あなたは産業災害に興味があるなら、アメリカのアスベスト災害を研究したらどう?」と言われたのです。これはしかし、ある程度、労働災害で解決の道が進められているのではないかと考えたこともあり、ちょうど私の留学の目的がニューヨークの財政危機でありまして、ニューヨークの財政危機が世界恐慌になりそうだという、そのような状況になっていたものですから、そちらの方に重点をおいて、とうとう鈴木先生の勧めがあったにもかかわらず、調べないで帰ってしまったわけです。
1982年に、またニューヨークの財政の研究をしようと思って行きまして、着いた日の『ニューヨークタイムズ』を買いましたら、1面トップに「マンヴィル(世界最大のアスベストメーカー)が偽装倒産をしそうだ」と、その裁判の状況や、これと同じように企業が破産するのではないかと、大変大きな記事が載っておりました。そこに書いてあることを見まして、これは最大の産業災害になるのではないかということに気が付いたので、慌てまして、これはやはり調べる必要があると感じて、鈴木先生に頼み、ニューヨーク市立大学(NYCU)医学部のマウントサイナイ環境研究所長であった、セリコフさんにお会いしたわけです。セリコフさんは非常に熱心に、半日間潰して私にたくさん資料をくださり、そして、いかにアメリカでアスベストの被害が深刻になっているかということについて、説明をしてくださったのです。
私は、これで大変だということに気が付いたわけですが、特にセリコフさんが強調されていたことは、「日本は非常に不思議だ。今、日本は、恐らく世界で一番アスベストを使っているにもかかわらず、被害についての十分な報告がない。アメリカの状況から言えば、年に4,000人から5,000人ぐらい、アスベストで死亡しているんじゃないか。あなた、帰ったら、どうして日本では、アスベストの問題が顕在化していないのか、一体、研究者は何をしているのかというのを、ちゃんと調べて報告してください」と言われたのです。セリコフさんについては、いろいろと皆さんご承知の方もいらっしゃると思いますが、私が感心したことは、「研究者っていうのは、市民、特に労働者の生命や健康というものについて、それを維持していく、そういう社会的な責任があるのであって、こういう問題が起こったときに、私はいろいろ言われているけれども、裁判で積極的に労働者の立場に立って証言をする」と言われたのです。日本でも裁判で証言されておりますから、鈴木先生もご承知だと思いますが、病理学の先生で、「セリコフさんのヒューマニズムというものには、本当に私たちは敬服していて、科学者とはこうあるべきだと思ってるんだ」と言っておりました。
私も帰りましたら、このアスベストの災害問題について調べたいと思って、それで衛生学の人たちを訪ねたのですが、皆さん、アスベストが被害を及ぼす、被害が出ていると知っているのです。「自分が知っている限り、泉南の地域で大きな被害が出ている」と言うのです。私は、「じゃあ、なぜ調べないの?」と言ったら、「いや、あそこを調べるのは、ものすごく難しいんだ。危険なんだ」と言うのです。危険だということがよく分からないのだけれども、非常に難しくて、それで「労働はいろいろあるけれども、それを積極的に社会問題化してやるという、そういうことはやっていないんだ」と言うのです。
私が仲が良かった人は、マルヤマ先生の後を受けたゴトウシゲルさんという労働衛生の大家ですが、「一緒にやろう」と彼が言い出したので、「いいじゃないか。じゃあ、一緒にやりましょ」と言ったのですが、それっきりで、何の応答もないのです。私は、それで、とにかく分かっていることだけ、まず書いてみようということで、『公害研究』(1985年夏季号15巻1号)に1985年に「アスベスト災害は償いうるか」と、つまり、アスベストの災害とは極めて深刻で、労働衛生だけではなく、公害に発展している可能性もあり、そのような状況がアメリカの場合にはいかに深刻で、これは経済問題としても放っておけない、そのような大きな問題であり、日本の場合、本当にアスベストの災害を償えるだけのことができるのかという警告を出したのです。
ちょうど80年代は、アスベストに対して注目が集まった時期だと思います。今から思えば、この80年代が一つの山場で、ここで本当は決着を付けるべきであったのではないかと思うのです。輸入量も世界最大でした。そして、アメリカの航空母艦が来て、横須賀で修理をしたのですが、そのときのアスベストの廃材が路傍に放置されているというようなことがありました。それから、福祉施設で被害が起こるということで、新聞でもアスベスト問題がかなり取り上げられた時期なのです。この公害資料にも紹介しているのですが、公害健康被害補償法が改定されて(1987年)、これは僕は大変ひどい話だったと思うのですが、1988年に大気汚染は終わったと、大気汚染の第1種(地域指定)の新規認定を打ち切るという大改訂をすることになったのです。健康被害補償法、これは世界的に非常に評価の高かった法律なのですけれども、鈴木武夫先生はずっと反対をされていました。それに加えて、NO2の環境基準が緩和されるということも、その前にあったわけです。そのときの報告書の後書きの中なのですけれども、鈴木先生が、「アスベストの被害というものは、十分に調べないと大変なことになる」という警告を発しているわけです。
環境省も、1984年に「工場周辺の大気汚染の状況の調査をする。ただし、これは地元が必要を感じて申告をしてきたときにやる」ということで、別に積極的に調べるということではなかったのです。次いで、大気汚染防止法を改定して、一応、汚染物質の中にアスベストを入れることになるのですけれども、実際には、全くそこで、きちんとした調査なり、あるいは、規制なりをするということはしなかったわけです。マスメディアの方も、これは日本のマスメディアの悪いところなのですけれども、大体、数年ぐらいはやるのです。しかし、もうすぐにやめてしまうのです。という形で、この80年代は、新しくこのアスベスト規制ができるのではないかという、そのような機運が出てきたにもかかわらず、全くしないまま終わってしまったわけです。世界一の使用を続けたわけです。これは、僕はもう、大変大きなミスだったのではないかと思っています。
私もミスをしたわけでありまして、衛生工学や衛生学の人と「一緒にやろう」と言いながら、しなかったわけです。彼らもあまり動いてくれなかったので、僕自身もセリコフさんに頼まれたにもかかわらず、現場に行って調査をするということをしませんでした。一つは、日本の労災法がアメリカと違ってあるということです。アメリカの場合には、このアスベストの労災は全部裁判になるわけですけれども、日本の場合には、労働災害補償の法で一応の救済の道が開けているということです。これもきちんと調べれば良かったのですけれども、他の公害事件が次々起こり、水俣病の問題が解決しないだけではなく、80年代も、いろいろな公害環境問題に追われてしまったものですから、それきりにしてしまったのです。これが私にとっては、今から思えば痛恨の極みです。
そのうちに、2005年6月のクボタショック(兵庫県尼崎市の大手機械メーカークボタの旧神崎工場周辺住民のアスベスト被害が明らかになり全国に衝撃を与えた)が起こったわけです。僕は、これが大変大きな出来事だったと思いますのは、つまり、工場周辺の居住していた3人の中皮腫患者が、支援団体と共にクボタを告発したわけです。僕は、これは大変勇気のいることでありますし、また、これを指示するということについても、やはり大変大きな決断がいったのではないかと思います。結果として、非常に驚いたことは、住民の死者の方が労災の死者よりも多いわけです。労災もひどい話で、私は、本当に戦争で言えば全滅に近い状態で、このクボタで作業をしている人たちが非常に多くの犠牲を出して、それだけではなく、周辺の公害患者も出したということで、これは、僕は世界的な産業災害事件だったと思うのです。このクボタショックにより、私は100年に渡る日本の石綿災害が顕在化したのではないかと思います。
私も慌てて、このクボタショックで非常に大きな反省をしました。すぐにクボタに行き、担当者に会って実態を聞いて、資料をもらい、それから関西の労働衛生のセンターにも行きました。それで話を聞き、尼崎にも行くなどして、調査を開始したわけであります。驚いたことに、この事件がもし70年代だったら、大量の研究者が私と同じように駆けつけて、クボタを責め、あるいは衛生センターに行って調査をし、何らかの運動を起こすはずなのです。ところが、全く若い人が動かなかったのです。これは70年代と比べてどうなっているのだろうと、関西の労働センターの人たちが、「先生みたいな老人が来て、若い人が1人も来ないってのはどうなってるんだ」と言っていました。
どうしてもこれは学会として取り上げる必要があると思ったのですが、後で申しますように、幸い立命館大学の南君を始めとして、若い人たちが積極的に、立命館大学の政策科学部としては、これは最も政策科学の対象になり得るということで、共同研究を作ることになりました。それ以来、少しそのような意味では、学会の中でも展開がされていくわけで、幸いに、村山先生なども『公害研究』『環境と公害』に論文を出されております。そのようなことと総合しながら、研究が進むことになりましたけれども、しかし、やはり、60年代、70年代の公害問題のときに比べて、日本の学会が変わったということも、私は、これはクボタショック以後の状況だったように思います。
クボタは最初、少額の見舞金で解決しようとしたわけですけれども、被害者の運動や、あるいは車谷さんの疫学調査、これは疫学の教科書に載っているぐらい大変立派な調査が行われたわけで、その結果、クボタとしては、自分たちの責任ではないけれども、被害があるということを認めざるを得なくなって、大体、労災並みの補償をするようになったわけです。しかし、あくまで、自分たちに責任があるということを認めたわけではありません。水俣の見舞金と同じように金額は大きいですけれども、それから、一応、被害者の要求に従って、それを審査して、新法に認められる限りでは認めているわけですけれども、責任は取っていないわけです。法的責任は取っていないのです。これがやはり、これだけの被害を出したクボタの実態が、実はまだ明らかになっていないわけです。どのような形で、どのような労働災害が起こり、さらに、どのような施設を作っていて、どのように大気汚染の被害が広がったのかということについて、正確な問題が解明されていないわけであります。そのような意味では、クボタの問題は決して解決した、終わったなどということではない、大きな課題を私たちに残しているのではないかと思っています。
政府の方が慌てまして、2006年に石綿の輸入と消費を完全に禁止して、石綿による健康被害の救済に関する法律、新法と普通は言われていますが、これを出して、もれなく救済するという目的を掲げたわけなのですが、慌てて作ったので、非常に欠陥が多い法律だったと思います。公害の場合の健康被害補償法に比べると、非常に拙速で作られました。その欠陥が未だに私たちを悩ませ、また、最も被害者にとっては、多くの問題を残しているわけだと思うのです。
私は、その立命館の研究グループができたおかげで、この研究を続けることができました。以後、立命館大学が主催した国際シンポジウム、あるいは後で申しますが、震災に関連したシンポジウム、このような研究会が重ねられました。そこに書きましたように、国際的にも非常に広い地域の調査をいたしまして、研究報告書を重ねているわけであります。これは社会科学としては、一つの大きな成果になったのではないかと思います。そしてまた、Springerから、私たちの成果を英訳したAsbestos Disaster -Lessons from Japan’s Experienceという本を出していまして、これは中国の学者なども参考にしています。
そのような意味からも、私も非常に、この立命館研究グループのおかげで研究を続けることができたわけであります。このクボタショックがいかに大きな意味を持っていたかということは、この表で分かると思います。労災認定が始まって以来、1994年までにアスベストの被害で認定された人が、203人しかいないのです。1995年から2004年までの10年間で、653人しかいないわけです。つまり、年平均にしますと65人しか認めてこなかったわけです。それが、クボタショック直後の2005年を見ていただくと驚くべきだと思いますが、10倍以上の715人が認定されたわけです。さらに、2006年になると30倍近い1,784人が認定されました。それ以後も労災認定が1万2,883人、新法による救済が1万1,193人、年平均約2,000人が認定されているわけです。
これは公害をやっていて、いろいろ同じように分かったわけでありますけれども、社会的な災害というものは、被害があったから明らかになって、被害が明らかになって、必ず救済されるということではないのです。社会的災害というものは、被害者が「自分が、私が被害を受けた」と言って、積極的にその責任を追及する、被害の救済を求めるという、そのような世論と運動というものがあって、それを政府が方針を変えるというようにならないと、被害が顕在化しないのです。社会的災害は、放っておけばすぐに潜在化してしまいます。それで、被害者が泣き寝入りするのです。「いろいろな原因があるよ」と言ってごまかされる、そういう性格のものであるということは、このアスベストの災害にははっきり表れているわけで、これほど、クボタショック以降、顕在化するということが明らかになったことはないのではないかと思います。そのような意味では、クボタショックは、歴史的な大変な事件であったと思うのです。
これはもう、お分かりの方には説明をする必要がないと思いますけれども、非常に重要なことは、この石綿は随分昔から使われているのですけれども、大変大量に使われる状況になったのは、やはり重化学工業化、特に、エネルギーの問題と関係するのですが、エネルギーが大量に使われるようになる、それから都市化して高層化する、さらに軍事的な、あるいは宇宙開発など、そのような軍事的な状況がある、国際的な貿易が発展をするということがあり、そのような高度成長のある時期に、大量に使用されることになるわけであります。また、このような状況が新しく登場してくる途上国が、重化学工業化、都市化を始めると、大量に使用されるということになるわけであります。
石綿は非常に効率が高いですが安かったわけであり、日本では1千万トン使用したわけであります。そのような意味では、政治経済と関係があり、被害が出るにもかかわらず、これは企業にとっては安上がりの、そして、しかも有効な政策であるということで、進んでいったということではないかと思うのです。ですから社会科学者として、なぜこれほど石綿が使われたのか、規制が遅れたのかということについて、解明をする責任を持っていると思っているわけです。
日本の対策は、決して、全く学会がさぼっていたというわけではなくて、戦前にも非常に立派な業績があります。この厚生省保健院がやりました泉南地区の調査、これはやはり、国際的に言っても非常に意義のある調査結果であったのではないかと思います。問題は、その後も決して何もしなかったわけではないのですが、確かに、その時期ごとに国際的な圧力や、あるいは研究成果が出るということもあり、じん肺法ができ、中皮腫の発生が報告されると特化法が改正されるということをするのですが、問題は、不作為なのです。どのような不作為かというと、政府の方は「法制化したから不作為じゃない」と言うのですが、そうではないのであります。法制化しても、全然それをやったか、やらないかというモニタリングができていないのです。ここに書きましたように、そのような実態を調べてみると、実際には30%ぐらいの工場しか守っていないなど、法制化してもそれは実体化していないわけです。
ここに、日本の行政の恐ろしい欠陥があるのです。これは、公害法もそうなのです。法律ができたから良くなるかと言っても、良くならない。なぜかというと、実際の規制を本当にしているかというと、していないのです。これは、経済政策でもそうなのです。日本はモニタリングをしないのです。日本の地域開発者は、ずっと誤解、失敗をしているのですが、モニタリングをしないのです。なぜ失敗をしたか。失敗した原因を調べて、次にその失敗を克服するということをやらなければいけないのに、それができないのです。日本の政策は非常に曖昧なものであり、いつも曖昧なのです。確かに、国際的に見て、ある時期に、ある程度の法整備をしたり、ある程度の規制をしたり、制度化したということはあったとしても、現実に行政は動いていないわけです。これが、日本の恐ろしい欠陥、実態が不作為なのです。
ですから、この新法ができたときに、政府は非常に無責任なことを言っているのです。「国際的に見たら、ある程度ちゃんとやってきた。しかし、当時は予防ということを考えなかったから、予防の原則がなかったから、それをやらなかったっていう責任があるかもしれない」という、そのような見解を出したわけです。これは、後で最高裁でやられますけれども、そう言わせる、そう言うというところに、日本の行政の責任が私はあると思っているのです。
同時に、日本の行政で大きな問題は、労働省が分かっていても、労働省がこれだけの労働災害があると言っていても、それが環境省に通じていないのです。これは学会もそうなのでありまして、私はこの学会の閉鎖性というものが、日本の場合、このような総合的な産業災害が出たときに、非常に大きな欠陥になったと思います。私と同年代、つまり、戦後すぐに医学部に入った連中はみんな、石綿が被害を出すということを大学の呼吸器科で習っているのです。だから、私がアスベストの問題をやったときに、私の同年代の医者は、「なんだ、君は今頃騒いでいるけど、俺たちはよく知ってるんだ」と言うわけです。
ところが、その医学部はそうだったかもしれませんけれども、その石綿の被害があるということが、工学部には伝わっていないわけです。工学部は、逆に、石綿を使わなかったら建築をするなと、建築基準法にも入っているし、とにかくアスベストを使うということは原則だと考えていたわけです。恐るべきことではないですか。片一方は被害があると分かっています。学会でいくつもの、そして知見が出ています。ところが、工学部の方は、逆に使わなければ駄目だと、積極的に使ったわけです。実際、僕が驚いたことは、新建築家協会という大変進歩的な人たちが集まった建築の学会があるのですけれども、そこで講演をしたら、その人たち自身が、石綿に被害があることを知らなかったのです。「いや、私たちは知らないから使った」と、そのぐらい学会の中に閉鎖性があるのです。
これは、水俣病なども典型的なのです。水俣病の医者は、全然、環境学が分かっていないのです。恐るべきなのです。だから全部、労働災害(重度・劇症の水銀中毒)を基準にして基準を作るのですけれども、労働災害と環境災害は違うのです。エコロジーの知識がない医者が水俣病の基準を作っているから、大失敗ばかり重ねているのです。それを、また政府も認定する、そのぐらい残念ながら日本の研究者の中で、工学者がエコロジーも知らず、医学も知らずという形になっている現状なのです。特にこれは、最近、教養課程がなくなってきたものだから、なおのこと、常識がなくなってきているということもあるのだろうと思います。
このような状況でありましたので、結局、私はこのアスベスト災害を「複合ストックの災害」と言っています。少し、説明を落としました。このアスベストの労働災害を見ていまして非常に気になることは、毎年、1,000事業所ほど石綿の被害者について、厚労省が発表します。ほとんど、全業種に渡っているということなのです。しかも、学校などは後から出てくる、認定されてくるわけであります。もちろん集中しているのは建設業なのですけれども、全業種に渡っています。それから、地域的に見ると、大都市に被害者は集中していますけれども、これも全都府県に分布しているということです。
ですから、石綿の被害というものは、災害の全体像から見ると労災、公害だけではなくて、この図の1にありますように、ほとんど全災害に、社会的災害に関係する、そのような性格を持っていると思うのです。これが今までにない、非常に大きな問題点で、生産過程で使うことをやめたら収束するというものではない、採掘から始まって、生産、流通、消費、廃棄の全経済過程で発生します。従って、対策そのものも、全経済過程をどのように規制するかという問題になってきます。それから、ばく露してから人体にストックされて、15年から40年の期間を経て発症するわけですから、これも、今までのような公害の問題、あるいは、労災の問題とも違うところが多くて、原因を追究することは非常に難しい問題があり、あるいは対策が遅れていく原因を作るなどするわけです。特に、80%近くが建材で、従って、これから解体する、あるいは地震のような災害が起こったときに、発生する可能性ということがあるわけです。そのような意味で、私はフロー公害ではなくストック公害であるし、ストック災害だと、総合的な複合ストック災害だと考えているわけです。
このような対策は、私は被害の全体像の把握と被害の救済、そして、予防というものが必要なわけですけれども、クボタのショックで被害が顕在化したと言いましても、まだ不十分なのです。1995年から2014年の人口動態統計では、中皮腫死亡者は1万9,021人、統計では出ているのですが、労災と救済法による救済は1万2,221人ですから、まだ40%近くが救済されていないわけです。それにまた、石綿肺がんが日本では認定が非常に少ないわけで、そのような意味では、クボタショックで顕在化はしましたけれども、それで完全に明らかになったかとは言えないわけで、このような意味では、まだ不十分な状況だということを言わざるを得ないわけです。
それで、救済を求める運動が裁判に集中してきているわけでありまして、その中で、泉南の石綿の災害裁判、最高裁判決が画期的なものであったと私は思います。2014年の最高裁が泉南地区石綿災害について、石綿肺が学会で認められた1958年から、特化則施行の1971年までの間の被害は、規制権限の不行使として、国の共同責任を認める画期的な判決をしました。これも、私が先ほど言いましたように、不作為というものが法制で切っているのです。ですから、実際には、この不作為というものを、このような法制化までで決めていいかどうか、これは、私は疑問に思っておりまして、実際には2006年まで不作為が、責任があるのではないかと私は思っているのですが、それにしても、政府が認めていなかった責任を司法が認めました。そしてしかも、この国の共同責任の度合いを、極めて高く認めたということです。
水俣病の場合などは、私は大変国の責任が大きいと思うのですけれども、4分の1しか認めていないのです。ところが、アスベストは2分の1、共同責任を認めたということは、それには、この最高裁判決は、大変積極的に評価できると思うのです。つまり、国が企業と半分ぐらいの責任があるのだと認めたことは、大変いいと思うのですけれども、先ほど言ったように、私は2006年まであるとは思うのですが、1971年に切ってしまったということは、これは、やはり不作為の在り方についての考え方の相違だと思うのです。以後、石綿関連企業の労災については、訴求された場合には、この裁判の和解条項に基づいて救済がされているわけです。
しかし、最高裁は企業の責任を認めませんでした。これは、泉南の場合も企業がなくなっているということもあり、被害者の方の訴求が企業としてはなかったということもあったものですから、国の責任だけになったので、そこで、以後、建築、石綿裁判では、国の責任と同時に、企業の責任を追及するという裁判が進行中です。これは、今までの地裁や高裁の判決を見ますと、「ほぼ国の責任は認められるのではないか」と、最高裁判で言っているのです。どうもそれは確実のようですけれども、企業の責任についても京都地裁で認めたということもあり、これも、高裁の段階では分かれそうですけれども、建材メーカーの責任も逃れがたいことになるのではないかと私は思っています。多分、これもどのような形で責任を取らせるかということについては、これは、まだまだ議論があるところだと思います。
私が知る限り、60年代にニチアスもクボタも、マンヴィルの指導を受けているのです。ですから、被害があるということについていえば、早くから分かっていたわけであり、実際には逃れがたいのではないかと思うのです。そのような意味では、私はこの裁判の発展に期待をかけていますけれども、先ほど言いましたように、2006年に完全禁止をするまでの責任があると僕は考えています。その辺がやはり、裁判で、何と言いますか、切ってしまう、責任を小さくしてしまうということについては、まだ異議があるのであります。この企業の責任についても切っているのです。そのような意味では、もう少し広く責任を取らなければおかしいと思っています。
時間がもうあまりありませんから、少し、飛ばしていくことになると思います。アメリカの場合は、公的な救済制度がなく、裁判で救済しているわけです。これが、フランスや日本の場合と違うところです。これは、2002年のランド研究所の資料(石綿裁判は約6万件、原告60万人の約3分の2が勝訴している)が、私たちが使っている資料なのですが、これ以後について、この間、森君がアメリカに行っているときに調べたのですが、あまり変わらないです。だから、それ以後のきちんとしたアメリカの裁判の状況が、なかなか把握されていないと言ってもいいのです。しかし、大体これで見当が付くわけでありますけれども、非常にたくさんの裁判を起こして、私もその原告の人に会ったのですけれども、原告がいろいろな産業に勤めています。一つのところだけで、例えば、マンヴィルだけで勤めているのではなくて、職業を変えて他の企業に行くわけですが、その企業がアスベストを使っていると、いろいろな企業を全部訴えてしまうわけです。決して、マンヴィルだけ、あるいはクボタだけということではなくて、経歴の中で関係した企業を全部訴えられるから、それで企業数が多くなるわけであります。
ここにありますように、約3分の2が勝訴しています。これまでの裁判費用が700億ドル、恐ろしい金額です。ただし、これは全部賠償に回らないところが問題でありまして、そのうちで賠償金は540億ドルです。ですから、被害者の受け取り代として4割から6割ぐらい、あるいは4割から5割という人もいるわけですが、残りが弁護士の報酬、あるいは、立て替えた保険会社の報酬になっていくわけでありまして、あるいはまた、州によっては法的に立て替えをしてくれるところもあるので、そのような返済に充てられているわけです。大変な利益が、この石綿裁判で弁護士にあるのです。ですから、争って裁判が起こるということに一時はなったわけで、この石綿裁判で司法が混乱して、解決に時間がかかって、取引コストが膨大になっているわけであります。
ワシントンにあります、Environmental Working Groupという市民運動のグループは、社会保障としての救済制度を望んでいるわけで、とにかく裁判に持ち込まないで、全被害者が救済されるということを望んでいるわけであります。けれども、議会でそのような公的な補償制度が、アメリカではなかなか作られない状況なのです。これが大体平均の補償額で、アメリカの場合は補償額がかなり高いです。しかし、かなりの裁判費用がかかっているということを、見ておかなければならないと思います。
これに対して、フランスの場合は、最高裁が政府の責任を認めましたので、2000年にもれなく被害者を救済する、アスベスト被害者補償基金が制定されて、これの財源は社会保障基金から90%、国家から10%拠出されているわけです。これが労使の社会保険を基盤にして作られた制度で、どちらかというと、やはり、もれなく救済するということに重点を置いていますので、対象が非常に広くなっているわけでありますが、裁判に比べて金額が小さいので、責任を明確にしたい被害者は、この制度で補償を受けても提訴は可能になっていて、裁判が同時に起こっているわけです。これが、被害による障害別の補償額で、ですから金額は必ずしも大きくないわけでありますが、確かにもれなく救済をしていて、その点では、日本の制度よりは、新法よりは進んでいると思います。
先ほど言いましたように、重化学工業化、都市化、大都市化が進む、あるいは、軍事化が進むというときに、急激に消費量が増えるわけであります。そのような意味では、もう規制が始まっている先進国に比べ、今、問題は途上国、あるいは、依然として使っているロシア、そのようなところに消費が集中しているわけです。この2000年代の最大の消費国は中国で、中国は国内に世界3位の石綿鉱山を持っているわけで、約41万トンを国内で産出をしています。2002年に青石綿の使用を禁止したわけでありますけれども、白石綿を代わりに使用していて、われわれが調査に行ったときにデータをくれないのです。くれないのだけれども、労災の調査研究と救済を始めているということは明らかなのですが、公害については全然報告がないという状況でありました。
その他、アジアで言いますと、これから始まると言ってもいいので、私は、水俣病の問題から水銀の使用禁止が国際条約になったように、アスベストについても国際的に禁止の条約が作られるべきではないかと思っていますが、日本の場合で言えば、石綿の被害は、まだ隠されているわけであります。そこで、どうしても疫学的な調査と全被害者に労災並みの補償をして、被害の発掘が必要であると思っています。このためには、今の新法、救済法を改革して、労災並みの補償をすべきであると思いますが、今、裁判が非常に有効に働いていまして、裁判の前進に救済の問題がかかっています。私は公害裁判を見ていても、初期には有効なのですけれども、災害の本質から言いますと、もれなく救済をするためには、どうしても法制度が必要で、行政の救済を考える必要があり、それで、そのためには基金制度が必要なのではないかと思っています。
これは公害だけではない、災害全体について言えることなのですけれども、対策は被害の救済から始まるのですけれども、一番重要なことは、やはり予防なのです。そのような意味では、今後の解体や災害時に石綿が拡散しないように、きちんとした予防対策が必要だと思っています。私たちは、神戸・淡路の大災害時の対策の遅れを反省して、災害時にきちんとした対策をするように求める本を出したわけです。実際には東日本の大災が発生して、実態調査に行きますと、防じんマスクを装備しているのは自衛隊だけで、市民は全く無防備のまま、破壊された住宅や施設の整備に働いていたわけで、そのような意味では、今後、石綿の被害が発生するという可能性があるわけです。
それから、総務省の調査、勧告が出まして、これはかなりいい勧告だったと僕は思うのですが、石綿対策では、民間施設がほとんどできていないのです。そのような意味では、これから2030年がピークになるそうですけれども、石綿含有の民間の建物が280万棟もあるわけです。その280万棟の解体が、2020年で8万棟、2030年で10万棟と予測されているわけですけれども、これから非常に積極的な規制をしない限り、被害が出てくる可能性があるのではないでしょうか。京都で見ていましても、やはり自治体がきちんと規制しているとは思えないのです。予防するとなれば、できれば、どこに石綿が蓄積されているかということが分かればいいわけで、そのためには、神戸市のように固定資産税台帳を使って、石綿含有の可能性のある住宅施設の地図を作っておくべきではないかと思っているのです。しかし、これはなかなか、そうは言ってもやっているところは少ないわけでありまして、これをどのように、解体時の手順や、周辺の警告を徹底するかということを、これからやっていかなければならないのではないかと思います。
いずれにしても、アスベスト対策はまだこれからだと思います。国際的にも、国内的にもそうです。研究の課題は非常に大きいわけで、社会科学者にとっても、先ほど言いましたクボタの災害が十分にまだ研究をされていないこともあり、これからの対策についても、どのような補償を作ればいいかということについて、まだまだ議論が未熟な段階にあると思っております。是非、ここにお集りの方々の中で、しっかりした議論が行われることを期待いたしまして、今日は一応、全体的なお話は、これで終わらせていただきたいと思います。どうも、ご清聴ありがとうございました。