Voices 2011
東京都内在住のAさんから、亡くなられたご主人の肺がんの原因が仕事によるものではないかとご相談があったのは、2011年の年明けのことでした。
このご相談以前に、Aさんはご主人が亡くなった直後、最寄りの労働基準監督署へ労災申請に出向いていました。ところが、自営業者であるとの判断で申請は受理されませんでした。
昨年の事業所公開ホットラインの記事をご記憶されていたことがアスベストセンターへの電話の動機でした。
Aさんのご主人は、自動車整備場で働かれ、ブレーキパッドなど各種のアスベスト製品を取り扱っていました。職場は親子代々に亘る整備場で、Aさんのご主人も発病当時は経営者として受け継いでいました。その肩書きである代表取締役のみを見た監督署は、労働者性がないと判断したと思われます。
しかし、それ以前は被雇用者であったはずですので、早速ご自宅へ出向き、古い給与明細を探し出していただきました。
結果として、昭和50年代半ばに取締役として経営者になったことが判明しました。その給与が、それ以前の倍になっていたこともわかりました。
この具体的金額の差を明示して、半額であった時代は家族経営であったとしても労働者であることを主張して、申請をし、約半年後に無事認定されました。
ご主人の逝去後3年近く経ていたので、葬祭料などの申請ができませんでした。最初に監督署へ相談に行った記録があれば、受理をしなかった監督署の対応ミスが判明して何らかの処置がなされることを期待しましたが、残念ながら面会の記録はなく、遺族年金のみの受給となりました。
単純に労働者性を否定せずにじっくり相談すれば解決した案件だっただけに、認定後も何か後味の悪さが残りました。
過去の膨大な給与明細が、ご本人の代わりに労働者性を証明してくれたことが救いでした。
はつりの職人だったBさんから電話をいただいたのは、2010年秋のホットラインでした。10分ほどの会話でしたが、咳がひどくかなり辛そうでしたので、電話を一旦打ち切り、当時通っていた地元の病院から紹介状をもらって、名取医師が月一度診療している茨城県下館市の宮田医院を受診していただくべく手紙と地図を書きました。
Bさんは、すでにじん肺の健康管理手帳を取得されていましたが、歩くこともままならない状況になっていたにもかかわらず、まだ労災申請していませんでした。名取医師の診察では、管理区分3のイと続発性気管支炎合併の状態でしたので、申請準備にかかりました。また、就業が不可能な為に生活保護を受けておられたので、ご体調の悪化とともにその重要性が増していました。
途中、東日本大震災により鉄道が不通となり面会が遅れましたが、何とか2011年4月に申請できました。Bさんは、はつり職人に典型的な勤務形態で、数年毎に親方が代わっていました。
しかし40数年のキャリアをほぼ全て頭の中にとどめておられ、署の担当の方が驚くほどの現場のレポートが出来上がりました。おかげで4ヵ月後に認定通知が届きました。
宮田医院に通うようになってからBさんの咳はかなり落ちつきました。ご自宅からは親類の方の運転で通わねばならない距離でしたが、それ以前の病院の薬とは全く効きが違うと喜んでおられました。
残念ながら、認定からわずか半年後に他のご病気で亡くなられました。
しかし、労災認定によって生活保護から抜け出せたことが何よりも嬉しい、と笑っておられたBさんのお顔が忘れられません。
電話相談ではお互いの顔が見えませんが、それでもこちらを信用していただき、通い慣れた病院からすぐに見ず知らずの病院へ通われたBさんの決断が、全ての鍵だったように思います。
また、お一人で暮らしておられたBさんを常に支えてこられた従兄弟の方のご尽力があったことも認定につながったという案件でした。