審査員特別賞作品「感謝」

The Essay Award

受賞者:一藁 智代美

 

 人はみな無意識に息をしている。空気は、肺が吸い心臓を通して体内に循環されている。もし、空気が十分に吸えないとしたら…。呼吸を常に意識してしまうとしたら…。

 父の病気が判明したのは、2021年9月。病名は「胸水貯留・みぎ胸膜肥厚」。胸膜に液体が異常にたまっていたのだ。そして、精密検査ではっきり診断されたのは11月。「右悪性胸膜中皮腫」。ステージ4。手術はもうできず、余命は長くて半年~1年。今後と現状について、孫たちも含めて家族会議をした。みんなで状況・情報を共有して、前向きにとらえ、明るく過ごそうと決めたのだ。

 その年の師走、2021年5月より保険診療の対象となった併用治療(オブジーボとヤーボイ)をしていくことになった。ただし、合う人と合わない人がいるので楽観視できないことを家族は理解していたし、父も知っていた。

 みなまだまだ元気でいてほしいと一縷の望みを掛けていた。が、危惧していた副作用が出てしまったのだ。下痢・皮膚障害・甲状腺機能障害・下垂体ホルモン低下・副腎障害・薬剤性間質肺炎など。

 2022年4月8日朝、父は治療を続けて元気になろうとしていたが、様子がおかしいことに気づいた母と妹(どちらも看護師)が、救急車を呼んだのだ。その日は入院になった。夕方その話を聞き、家族みんなはひとまず安心。が、22時に母から電話。「お父さんが意識ないって、病院から。すぐ来て」と。頭が真っ白になり、心がざわついた。まだまだ見届けてほしいことがいっぱいある。私は何も父にしてあげられてない。病院に行ったが、コロナ禍で病院内にも入れず、駐車場で祈って待つしかなかった。永遠に続きそうな時間だった。深夜、病院の先生が、危篤状態だからと一人ずつ10分程度ならと面会を了承してくれた。ベッドに横たわっていたのは、いろんな機材に繋がれ、身体も小さく細くなった生気がなく冷たい父だった。必死で、呼びかけながら身体をさすっていたが、時間の感覚が感じられなくなっていた。夜も遅く、今夜が峠かもしれないので一人付き添ってもよいと許可してくれた。母も妹も最近ずっと睡眠不足だからゆっくり寝てほしい思いと父と一緒に過ごしたいという思いで、私が付き添うことにした。長い夜になりそうだ…。父と二人きりになったと同時に、突然、父がパチッと目を開け、起き上がろうとした。「トイレに行く」と喋りながら。奇跡がおきた!その夜は、父が今日の記憶のたどれることを確認しながら、二人だけの時間を過ごした。この日の事は今も笑い話になっている。

 その後も入退院を繰り返し、この頃にはもう、酸素吸入・酸素ボンベと一緒でないと自発呼吸もままならない状態。ずっとだれかかれかと外で会って、自由に動き回ることが大好きな父が、酸素ボンベに繋がれて、ベットとトイレと風呂の移動しかできず、それだけでも息切れするのだ。夜の呼吸が心配なので、私達娘や大きくなった孫たちが順番で、実家に泊まって見守ったが、父の体力も限界になっていた。2022年9月17日、自宅療養が難しくなり入院した。コロナ禍でやはり見舞いには行けず。母が電話で父と話したことを家族は聞くだけになった。病院側もいろいろよくしてくれ、退院のめどもたたないので、10月25日から夜だけの一人付き添いを許可してくれた。母と私達三姉妹が順番で。間隔が短い浅い呼吸しかせず、しんどくなるので、「深呼吸して。」と言うが、父はきょとんとしていた。できてるつもりだったんだろう。久しぶりに病院で見た父は、もっともっと小さく細くなり、一か月半ずっとベッドで、考えずにできる呼吸が一番しんどそうだった。もう、楽にしてあげた方が幸せなんじゃないか。でもやっぱり生きていてほしいと思いながら、付き添った夜は、父の手足や肩をさすっていた。何回目か付き添った11月3日の朝、父に母の声を聞かせようと電話した。母の言葉に反応して、「おう!おう!」と答えた父。苦しがっている父が、また病室で一人になることを認識させないように、帰ることを告げずに病室を後にし、仕事に行った。それから4時間後、父は永眠した。その後の記憶は曖昧。

 父は家が貧しいせいで、中学卒業の15歳から63歳の引退まで48年間を配管工として、私達家族のために単身赴任しながら働き続けた。やっと、老後を夫婦仲良く、11人の孫たちの成長も楽しみに、まだまだ人生を謳歌したかったにちがいない。懸命に働いた後になって、40年間の長きにわたり、アスベストが父の身体を徐々に蝕んでいたなんて…。でも、私達三姉妹や孫たちにたくさんの愛情を注いでくれた。だから、父の命と生きた証は私達と繋がっていて、これからもずっと続いていく。

 「お父さん、ゆっくり休んでね。お母さんの事は心配せずにね。心からありがとう!」