アスベストセンター賞作品「祖父との約束」

The Essay Award

受賞者:後藤 里奈

 

 今から約二十年前、私の尊敬する祖父は悪性中皮腫によってこの世を去った。

 最初に異変に気づいたのはその数年前からだった。原因不明の熱や咳、倦怠感などの症状が続いた。始めのうちは「年のせい」と軽く考えていた祖父だったが、その後も症状は改善するどころか悪化し始めたため、大きな病院で精密検査を受けたのだ。喫煙歴もなく、健康には人一倍気を遣っていた祖父に下された診断は「悪性胸膜中皮腫」、余命二年。その聞きなれない病名と、あまりに突然で残酷な宣告に、私たち家族は絶望の淵に突き落とされた。

 医師は祖母に、「ご主人はアスベストを扱うお仕事をされていましたか?」と尋ねたそうだ。中学校の体育教師であった祖父に、もちろんそんな経験はない。だが一つ思い当たることがあった。祖父が勤めていた一九六〇年代、学校では校舎の改築工事が度々行われていた。確認してみると、そこでアスベストが使われていたことが判明したのだ。アスベストによる健康被害が問題視されるようになったのは、そのあとのことだ。祖父は気づかぬうちにそのアスベスト粉塵にばく露し、数十年後に中皮腫を発病したのだ。祖父の場合はすでに手術が不可能な状態であり、多くの医師がまだ中皮腫という病気について学んですらいなかった。つまり、有効な治療法や薬はなく、当時の医学ではどうすることもできなかったのだ。

 教師という職業は、祖父にとって天職であった。地元の公立中学で三十年近く教鞭を取ったあとは校長として務め上げ、退職後もバレーボールの指導員として近所の学校へボランティアに行ったり、教師を目指す後進の育成に取り組んだりしていた。幼い頃、祖父から自転車や水泳の手ほどきを受けていた私はいつしかそんな祖父の姿に憧れ、教師を志すようになった。

 大切な教え子たちと多くの時間を過ごし、たくさんの思い出が詰まったかけがえのない場所である学校が、図らずも病の原因となってしまった。一番ショックだったのは祖父自身であろう。だがたとえなす術はなくとも、祖父は諦めなかった。私たち家族も病気についての情報を集め、少しでも健康に良いと聞きつけたものは何でも試した。連日のようにお見舞いに来てくれた、かつての教え子や同僚たちの存在も励みになったようだ。闘病中は胸の痛みや咳に苦しんでいた祖父も、仲間たちの前では皆に慕われる「先生」の顔になり、改めて教師という仕事は祖父の生きがいだったのだと感じた。指導していたバレーボール部員たちから贈られた千羽鶴は、病室の希望の光であった。

 だがそんな私たちの願いと祖父の健闘もむなしく、病状が改善することはなかった。やり場のない怒りと悔しさで落ち込むこともあったが、そんな時、いつも支えになったのは医療従事者の方々だった。現代の医学では有効な治療ができないことを謝りながらも、常に最善を尽くそうと努力してくださった医師。「こんなに毎日たくさんの方がお見舞いに来られる患者さんはほかにいませんよ。おじいちゃんは本当に立派な先生なんですね。」と笑顔で声をかけてくださった看護師の皆さんに、祖父だけでなく家族も励まされ、救われた。どんな時も真摯に私たちと向き合ってくれた姿から、看護で大切なことは、その人が最後まで自分らしく生きられるように手助けすることなのだと気づかされた。

 宣告された余命の二年と数ヶ月を過ぎた頃、祖父は家族に見守られながら息を引き取った。

「耳は最後まで聞こえていますから、声をかけてあげてください。」と看護師さんに言われ、「おじいちゃんみたいな先生になるからね。」と言うと、嬉しそうに頷いてくれた。

 アスベストの怖いところは、本人に自覚がなくても知らぬ間に吸っている場合があり、数十年経って忘れた頃に突然病が発症することだ。喫煙の習慣がある人はさらにリスクが高まるという。できることは、定期的に健康診断を受けること。そして少しでも異常があれば、早急に精密検査を受けることだろう。

 祖父が逝ってから七年後、私は念願叶って教師となった。もちろん、真っ先に報告したのは祖父だった。奇しくも今年からは、祖父と同じバレーボール部の顧問になった。まだまだ未熟だが、日々奮闘する私を天国から見守ってくれているだろう。祖父との約束を果たすまで、私も健康には留意しながら教員人生を全うしたい。