2012年ホットライン、相談者の声

Voices 2012

1) カルテ集めに奔走し1カ月で認定

 東京都内在住の相談者がおいでになったのは、2011年の秋でした。ご持参の死亡診断書には“肺癌”の2文字だけが記載されてありました。被災者が亡くなったのは10年以上前でしたので、すぐにレントゲンやカルテ探しをしていただくことにしました。ただし当時、手術や剖検はなされず、時も経っているのでまさに“紙頼み”の病理情報でした。
 幸い、30年以上勤めていた北関東のスレート工場は、労災認定事業所のリストに載っていました。社会保険の記録のみで十分にばく露事実の証明ができましたので、とにかく病理情報収集に集中できました。

 さっそく受診された3ヶ所の病院を直接訪問していただくことになりましたが、相談者は被災者の義理の姉にあたり、血縁関係がありませんので、被災者のご家族の代理人になっていただくことが必要でした。
 もともと労災申請を勧めたのは相談者であって、ご家族ではなかった事情もあり、まずはご家族に“代理人”が必要であることを説明することからスタートしました。また、相談者は主婦でしたので、病院によっては、身分を証明する為に住民票などを用意する必要もありました。

 さらに、病院が相談者宅からは遠方でしたので、思うように時間をさいて出向くことが叶わず、実際に3つの病院でのカルテやレントゲンの存在を確認し終えたのは一年後の2012年の9月でした。
 結果として、最初に受診した個人病院の診断書一枚以外は、一切の病理情報が存在しないことがわかりました。3件目の病院で最終確認をしていただいたその足で、地元の監督署へ申請に行っていただきました。

 その結果は、わずか一ヵ月後の10月に、“認定”の通知として届きました。 監督署からは、「事前に各病院を回ってい ただいたので、その分調査の手間が省けて助かった」と感謝されたとのことでした。
 現存する死亡診断書と社会保険記録のみで認定された事例、と一言で済ますのは簡単ですが、その裏には、代理人として主婦業の合間を縫って奔走された相談者の熱意が感じられました。
 ちなみに、私は事務所にいただけで病院へも現場へも監督署へも出向かず、さらに被災者ご家族にお会いすることもなく一切が済んでしまいました。スピード認定を語るには妙な気分、というのが本音です。

2) 煙突職人さん 和やかなインタビュー録音で認定

 私は、これまで何人もの方からどのようにアスベストを吸ってしまったのか主に筆記による聞き取りをしてきましたが、昨年の春は、久しぶりに録音機器の出番となりました。
 録音する必要がある状況とは、残念ながらご本人の病状が進んでいる場合の非常手段であるので、一発勝負で決めなければならず、聞き役としては事前の質問を整理することが重要になります。今回は、仕事の内容を教えていただくという設定で行ないました。

 ご相談は、東京都内のご本人の娘さんからありました。体調が日毎に悪化されていたので、連絡のあったその日にお邪魔しました。ご本人は、肺がんを患って在宅看護を受けておられましたが、幸い酸素は不要でしたので、ある程度お話を伺えました。娘さんが持参したICレコーダーで会話はすべて録音され、さらにテープ起こしまでしてくださいました。

 労災申請時には自己意見書と共に、聞き取りが困難になることを想定して録音した媒体そのものも提出し、体調の芳しくないご本人への迅速な対応をお願いしました。
 申請後、念を入れるために、当時のお仕事仲間とご本人の会話を新たに録音して監督署に提出しました。全国各地で工場の煙突内部に断熱材を施行する仕事でしたので、熱とほこりとの戦いであったという苦労話がほとんどでしたが、当時を懐かしんだお2人が楽しそうに言葉を交わしておられたので、とても和やかな雰囲気の録音となりました。

 後日、娘さんに何故あの時ICレコーダーを持っておられたのか尋ねると、“父の仕事をきちんと聞いたことが無かったので、きちんとまとめてみたかった”とのことでした。その機転のおかげで認定まで3ヶ月と順調に調査が進んだことは事実でしょう。

 残念ながら、申請後まもなくご本人は亡くなられましたが、監督署の聞き取りには間に合いました。
 また痛みのコントロールが適切であり、かつ在宅の看護婦さんが同郷の方で話をするのが楽しかったことなどを後日伺い、腕のよい職人さんだったご本人が穏やかな最後を過ごされたのかと、少し安心しました。

3) 忍の一字で肺がん合併症認定

 東京都内在住のAさんからご相談があったのは、2009年12月の労災認定事業所公開ホットラインでした。ご主人がその年の夏に肺がんで亡くなられたばかりでしたが、公務員として定年までバスや清掃車などの大型自動車の整備をされてこられたので、アスベストが病気の原因ではないかとのことでした。

 ご本人のばく露は職業として明確で、数人の仕事仲間の方からも証言をいただきましたので問題はありませんでした。 原発性の肺がんについては、名取先生によると画像上は胸膜プラークが見えませんでしたが、じん肺管理区分3程度の所見が見られたので、東京都に公務災害申請をしました。

 都の担当者によれば、過去にじん肺の法定合併症としての肺がんを扱ったことがないとのことでしたので、厚生労働省への問い合わせも含めて、労災と同様な処理を進めていただくべく重ねてお願いをしました。

 労災申請の場合は、ある程度書類などが不備であってもまずは申請を受理していただけますが、それとは異なり、公務災害では一枚一枚の書類を全て揃えてからの申請になりましたので、結局、窓口に提出したのは翌年の7月でした。

 それから待つこと2年後の2012年9月、ようやく公務災害認定通知が届きました。Aさんは、喜ぶというよりもむしろ待ちくたびれたご様子でした。
 通知書には2010年9月に認定請求があった云々とありましたので、労災の法定合併症を公務災害に導入することに手間がかかったのでしょうか。
 それにしても、ずっと待ち続けたAさんの忍耐力には頭が下がりました。

4) 相談から6年越しの申請

 東京都内の大学病院のソーシャルワーカーさんから電話が入ったのは昨年5月、都内在住でびまん性胸膜肥厚を患っているBさんの労災申請についての相談でした。職業は電気工事で、都内各地の大型ビル建設現場に出向き、アスベスト吹き付け作業を間近に見てきたとのことでした。

 相談表に話を整理しつつも、ふと聞き覚えのあるお名前のような気がしたので念のために過去の相談データを手繰ってみました。
 何と、2006年夏の相談者と同じではありませんか。当時も同じ病院の前任のソーシャルワーカーさんからの相談でしたが、ご本人からアスベストセンターへ直接の連絡待ちということで先方の連絡先は伏せてありました。
 ソーシャルワーカーさんからの説明では、病状が差し迫った状況にはないだろうとそれ以上は追いかけませんでした。

 しかしながら今回は6年後の再相談でしたので、すぐに病院へ面会に出かけました。案の定、ご本人は酸素吸入に頼らざるを得ない状況になっていて、歩くのも大変なご様子でした。春から肺炎を起こして入院されていたのです。
 すぐに聞き取りを行い、必要な書類を用意し、残るは主治医の診断書だけでしたので、1週間後には申請していただくように担当の方にお願いして帰りました。

 ところが、この紙切れ一枚が用意されるのに1カ月以上を要したのです。しかも、その間にご本人が亡くなられたことを奥様から耳にして、唖然となりました。びまん性で肺炎で酸素3リットルで、何故すぐに診断書が出なかったのか理解できませんでした。あの時、病院に任せずに、診断書なしでも強引に申請すべきであったと悔いが残りました。
 結局、申請は剖検後の秋になりました。奥様によると剖検の理由は不明とのことでした。

 大きな病院ではシステム上診断書入手に時間がかかることを承知してはいましたが、都内でもアスベスト疾患に慣れている医療機関でしたので、正直落胆しました。
 6年前は仕事もされていたほど安定されていたので、申請には至らなかったでしょう。しかし、今回は緊急事態であったはずです。だからこそ当時の担当である私を名指しで相談されたと思います。ご存命のうちにとにかく申請して安心していただくことの大切さが関係者にきちんと伝わらなかったのかも知れません。

 申請から半年後の4月に認定されたとお知らせいただきましたが、ご生前に申し込めなかったことをお詫びいたしました。